2013年04月28日
昨日のお客さんと話をしている中で、麻の歴史で、なぜ、近江上布の特色の一つである赤苧が麻織物の歴史でクローズアップされないのかは本当に不思議なのです。鎌倉時代といわれる奈良晒の起源にしても近江上布の細番手にしても、もしかすると奈良の寺領であった東円堂にあったりするのではなかろうかとも思うのです。もちろん、東円堂で作られた米や織られた織物も奈良のお寺に納めたものと考えています。
それ以前は、大国荘は依智秦氏が開拓した地域で、それは徐福の子孫の存在を思わせるのです。また、近江湖東地域というのは関西でも一番くらいに社寺信仰が強い地域だとされ、渡来文化の強い影響の名残りだと考えられます。林という姓にしても、麻を意味し、また、徐福の四男である徐林の名残の可能性も高く、秦の始皇帝の追跡を逃れるために徐という姓を消すことは非常に大事だったことは考えられます。
赤苧から繊維を取ることは大麻や青苧から繊維をとることよりも格段に難しいとされていて、現代では再現が不可能に近いものではあります。それが近江上布の一つの特色であり、他産地の麻織物よりも高級な域に達していた理由ではなかったかと思うのです。
林与に眠る1トンほどの手績糸が、青苧なのか赤苧なのかは、一度分析が必要かと思うのですが、昭和27年あたりの紡績時代の紙に包まれ、使われずにおじいさんが保存したことからしても、戦後は、手績糸が手に入らないといわれていたので、江戸時代や近江上布本来のものづくりを残そうと林与の先先代が動いて残そうと動いていたものと思います。
新聞紙に包まれて、箱に密閉に近い状態で保管されており、糊付された状態なので劣化も少なく、一束取り出して事務所で5年ほど放置してありますが、非常にしっかりとしていて、強度にしてもとことん強くよい感じです。それが戦後麻織物が解禁されたといわれる昭和27年以前の原料とは思えないのは誰もが驚くところです。
私のおじいさんが戦争が始まるということで、もう良い糸が手に入らなくなるというのを予測して、買えるだけの手績の糸を買ったのではなかろうかと思っております。そして、戦後の解禁された昭和27年に糊付けを行い、糊付後も60年近く、今まで完璧に近い状態で保管されているというのが私の推測です。
おじいさんの考え方というのは、亡くなる直前のオイルショックの前触れを察知して、よい材料が手に入らなくなるということで、花王のマルセル石鹸を何百キロも買ったりしたりで、ものづくりを本当に大事に考えるタイプでした。今も、40年ほど昔の花王のマルセル石鹸、林与では手を洗ったりするのに使っています。