2013年10月04日
いろいろな見本つくりの時期が終わり、本生産の時期に入っています。見本というのは一般に練習みたいなもので、本生産は本番。実際には練習のほうが時間と頭使っていることが多いものです。
東円堂に来られるお客様が口々に言われるのが、集落にある家々が大きいこと。どの家も平等ほどに大きく、私自身は、東円堂は、弥生時代の渡来人系の子孫の移民地だったろうと思うのです。50戸が田畑を開墾するために移民して開拓してできたような土地ではなかったろうかと思うのです。条里制ができあがった辺りの遠い昔のことです。いわゆる依智秦氏の流れの計画都市です。
大国郷といわれ、大国主命を祭る豊国神社が氏神神社で、仏教に関しては、集落の中にある4つのお寺も規模は普通の家の敷地の広さであることから、寺に関しても、家の規模から始まったと思われます。奈良の寺領であった奈良時代ころに関しては、たぶん、米などを管理するために、お寺が集落内にも必要となったものと思います。お寺の家は、字の中の神社関係の行事からは外れることが許されているのは、新しいことではないかと思っています。というのも、この地域ではお寺も神社も同じような位置づけを感じるのです。愛知川に大きなお寺がありますが宝満寺というお寺がありますが、豊満神社の別寺として奈良時代に大国郷の名前からか大国寺として始まっているようです。その後、浄土真宗に移行したと思われます。
この辺りの歴史になってくると、今以上に国境というものを超えた文化の行き来であることを感じます。仏教にしてもインドのアショカ王がお釈迦様ということで、日本の力強い人が海外まで行って学んだことが布教という形に繋がっていようかといえます。日本の場合は神社では神というのは、祖先を指すものであろうかといえますが、本来の日本の宗教というのは山の神様信仰ではなかったかと思うのです。これが、縄文人が渡来系の弥生人を鬼とみたりしたのと繋がっているかと思います。同じ神信仰でも、縄文人から見たものが山の神様、弥生人から見たものが神社信仰でなかったろうかと思われます。
私が驚いたのが集落の中で、山の神様信仰が神社とは独立して残っていることで、60年に一度くらいそれぞれの家に当番が回ってくるという話です。それほど大きな行事ではないのですが、この山の神様にも、別れみたいなものがあるそうで、豊満に本山があるということで、本山の家には、三又の木があり、それがご神木であるということ。隣村の普通の家の庭にお邪魔してその木を拝むというのも、集落では引き継がれている行事です。村人だけによって運営されるもので、神主やお坊さんがいない宗教で、新鮮でした。