2015年03月26日
今回、中国の展示会で、1個づつ真空パックしてあるタイプの醤油卵をたくさん買ってきた。自分用である。なんとなくなのだが力が込められているような気がして食べるのだ。味も濃いのでこの卵を食べるだけで満足感に浸る。肉類は持込が厳しく禁止されているようだが、卵は禁止項目ではなかろうと思う。
すごいなあと思えるのは、ゆで卵のようなものをお菓子のように保存食にしてあること。林与はお菓子の甘さは好きじゃないけども、こういう素材そのものの味が残るご飯っぽい食べ物は好物。
今回の中国の食事の中で、魚料理が食べたいことがあったのだが、レストラン入り口で鯰と一緒に牛蛙が窮屈にそれぞれ10匹くらいが一つの桶に入っていたのをみたがゆえにテーブルについてからも、そのお店の唯一の魚料理の鯰は注文できなかった。まだまだ中国の食文化には馴染めていないなあと思う。
でも、食文化にしても衣文化にしても、国によって違いがあるのは悪いことではない。人が世代を積み重ねるごとに蓄積されたものが違いという形で宿っているといえる。日本も鎖国をしていた江戸時代は特殊で江戸時代が日本の特殊性を凝縮させたと思える。
本来はそういう特殊性が魅力に見えるのだが、グローバリズムの観点からすればそれは否定的にみられる。日本国内においても地域の魅力というものが別の視点からすると否定的されることも多いのと似ている。
織物においても、たとえば近江上布なども一つ作るにしても普通の生活をしていて成り立つものではないというところ、よほど張り詰めたものがなければ、今の時間から時間的な仕事の感覚で生み出せるものではなかろう。通常は肯定されるべき一般的な感覚が伝統工芸の観点からすれば一番駄目な感覚だったりするものだ。
今、日本の織物が、2局面的に海外から評価されていると思える。一つは、ハイテク素材、もう一つは伝統工芸的な布の世界。ハイテク素材に関してはすぐに同じようなものが生み出されてくるが、地域的かつ歴史的かつ文化的な感性が色彩などから放たれるときにその特殊性は固有のものであろうとみなされ、そういうものを生み出す文化的な土壌に対しての評価がその布に宿ることになる。
食文化に戻ると、国内でもどこでも全国チェーンのレストランばかりになりつつあり、世界的なフランチャイズが田舎にも溢れる。熱い水と冷たい水が混ざるように自然の流れなのだろうけども、田舎的なものが都会的なものにやはり負けてしまっているような感があるのは残念なことだ。