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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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リネン日記
食べて行くこと
2016年09月06日
繊維の世界で、食べて行くことが難しいのは、素材に関しては手の込んだものをやればやるほど食べて行けなくなることだろう。そういうのは別腹でやっていける人でないと仕事の食べていく部分だけでは、あまり面白くない仕事人生になるだろう。組織も人が増えると強くなるばかりとは限らず、普通の考えの人が増えて、中に温度差ができて、崩壊に向かう。少人数で濃い要素というのが強いものづくりの理想だろう。

林与にしても、滋賀県では一番強いくらいに絣の近江上布を生産していた主体の一つであっが、小さいながらも出機さんを含めると村規模の生産。人を多く抱えるがゆえに逆に衰退するときには早いもの。旧愛知川、今の愛荘町に麻織物伝統産業会館が出来上がるきっかけの一つとなっている。林与の近江上布の世界は地元でもあまり知られてはいないが、近江上布が国指定の伝統工芸品としての「近江上布」に認定される流れにも影響を及ぼし。近江上布という言葉も、「上布」とはいわれていても、近江上布とは言われていなかった。実際には新しい言葉説がある。林与の近江上布にしても、認定される前につくられた林与の箱には、近江麻上布という言葉がついている。そのときはまだ近江上布という言葉が定着しておらず、ほかの産地と同じように、認定の際に「地域名+上布」という形に落ち着いたのだろう。

本麻の甚平やシャツ、ハンカチ、ネクタイなど、生地だけでなく、いち早く製品化したのも林与で、産地の製品のPRにも貢献をさせていただいてきたとは思えるが、販売して売るの本業は生地売りであって、製品販売はそれほど強くなかった。今はそれをほかの企業さんも地元PRの気持ちでリスクを覚悟で行われているのは大変な苦労だと思える。商売としてはなかなか成り立たないものだろうが観光の要素としては実物に触れ、買える機会というのは大事。一度傾いた産業を復活させるには、違った視点が大事だと思える。生地を人に任せて売るのが難しくなれば自分で売ればいいじゃないか、製品にして売ってみればいいじゃないか、自分で食べる道を考えて仕事を続けられるようにしていくことは大事なのである。

1970年代の麻ブームが起こった背景のひとつも、林与がヨーロッパで広幅で麻織物が織られているという話を聞いて、織れると信じて、人柱的に産地で最初にレピア織機を導入したことにある。昭和50年代初頭に、繊維産業が傾く流れの中で、親族経営の会社が生き残りを掛けての何億円もの投資で、うまく成功して織れた。短期間のうちに産地のほかの会社も次々とレピア織機の導入が行われ、加工工場でもアパレル向けの広幅での生産が主流になり、アパレルにも使える麻生地の生産が国内でもできるようになり1970年代の日本の麻ブームが巻き起こった。

林与がレピア織機の導入をしていなければ、ほかの機屋さんがやったかもしれないが麻ブームも数年遅れていただろう。あるいは、産地も小千谷のように麻の小幅織物の産地として残っていたのかもしれない、近隣の長浜は浜ちりめんながら小幅のままに織物が残っていて、昔ながらを守りながらも高級着物の需要が減る流れの中で苦戦中の苦戦を強いられている。実は林与の絣織物が、色使いやテイストからしてハイカラであまりに似通っている小千谷上布の絣織物に影響を及ぼしているのである。林与は、小千谷の一つの業者さんとも友好的な関係にあったから。小千谷の機屋さんが送ってくる封筒には記念切手が貼ってあり小学生の私にはそれが楽しみであった。

あるべき姿というのは最先端なことをやってきたということで、伝統技法を守るというよりも伝統技法を生み出してきたのがこの産地。守る部分ばかりでなく、自分たちが食べて行くために絶え間なく新しい技術を取り入れ進化させてきたのである。私自身、シャトル織機に傾倒をしているが、昔のものを織るばかりでなく、リネンの細番手に挑戦したり厚織やってみたりと、シャトル織機の長所を活用しながら自分の麻織の世界を展開している。こういうのも惑星直列ではないが、奇跡的にいろんな要素が縦に並んで、続けることができているだけと思う。ときには、1ヶ月1mも綺麗に織れずに苦戦する織物もあるけど、それとは別に普通の仕事もこなしながらなので、何とか食べて行ける。高度な織物や新しい織物というのは仕事とは別腹で形にして継続していかないと。最近は現場の力が落ちているので高度なものが少ないがあっと驚くようなものをまた再開したい。