2016年10月25日
今日は工場見学の方が午後から2名来られて、糸を結ぶ練習などを行った。人の指の感覚というものは普段使いながらも案外と新しい動きには苦手なもので、頭で理屈は分かっても、糸を結ぶという作業でも、それを実現するということは難しいことも多い。機結びの作業だが、私も最初の1週間くらいは作業して違和感があったが、それを超えると別に仕事でもなんとも無くなる。人の体が作業に対応できたということであろう。
他にも織機をさわって糸を通してもらう作業なども行ったが、正しく覚えるためには、手の使い方などからまったく同じにしないといけないのだが、なかなか、目で見た作業をそのまま自分がやるとなると難しいのである。ここも理屈ではなく慣れるというところ。できるできないだけでなく、習得する時間の短さというのも大事な要素であったりもする。新しいことを的確に前に進めていくという姿勢が大事だったりして、そういうタイプの人を作り上げていくのが、本来の教育というものであろうと思う。
学校教育の問題は、非常にスローというところ、カリキュラムを決めて全員が分かるレベルで進めていこうとする。実社会でそれをやると専門的な高度なものづくりは無理で、食べてゆけない集団となりうる。常に高度なことができるように進化していかないと、他の誰かが高度なことができるように進化したときには、自分が食べて行けなくなるのが普通だろうと思える。日本の昔ながらのアパレル業界が大手SPAのものづくりにシェアを大きく奪われたのも、技術的にも進化より退化してしまったからだと思える部分も多い。
手織りをしていたころの人というのは織物に対して面倒さというものがなかったというか、やるからには当たり前にそれを乗り越えていたが、機械化されてからの人というのは仕事を面倒なことととらえることが多いものである。機械化により人が労働から解放されると、人の力が落ちる。働いている人も機械が悪いとか他人事のようにいうけども、機械化されたときには機械の面倒をみるのが仕事であると進化しないといけないのだが、と思うことも多い。繊維の仕事なんて、それほど高度でないことも多いので努力次第でなんとかなると思うが、人が面倒に思うとかやらないとかの問題は、仕事の本質を欠いているので論外だろう。