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リネン日記
近江湖東産地が日本の麻の産地として残った理由
2017年10月23日
麻というものは昔は全国で織られていたものだが、よく、琵琶湖の湿気が要因の一つに挙げられるものの、なぜ、湖東産地では麻なのかという問題があろうとおもう。彦根藩が麻織物を奨励したことや、冬場に雪に包まれる農村であったことがあるだろう。また、機屋というのは母屋が親戚を束ね、集落規模の産業としていたのが、明治大正の時代でそれが戦前まで続いた。

近江湖東産地というのは、農村が主体で、神仏信仰が非常にあって、先祖代々の祭られている仏壇を守るという思いが強く、丁稚奉公にしても、次男、三男が、外に出て母屋を守るために仕事に励むのが正しい人生観としてあった。私の住んでいる東円堂という集落も他の集落と比べると高齢化は進んでいるもののまだまだ勢いがあってその傾向があるように思う。

和装が衰退して和装に残るでなく、昭和50年頃から広幅の織物に転換をうまくしたのが近江湖東産地であったことが、他の麻の産地をリードしていたといえる。林与は昭和50年の初頭に、麻が織れるか織れないか分からないもの産地では一番にレピア織機を導入し無事に織る事ができ、他の会社さんも導入が進んで、1970年代の麻ブームにつながった。近江湖東産地が今も日本の麻織物の代表的な産地として名前が残っているのも、それがあったからで、もし、和装に留まっていたとしたなら麻織物の主産地は他に移っていただろうと思う。

今は、日本の麻織物の主産地として名は残るものの、近江湖東産地で織られる近江麻布は出会うことも難しいものとなってしまっている。逆に小幅織物で残られた小千谷の産地のほうが麻を織るということでは元気かもしれない。