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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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リネン日記
失われつつあるもの
2017年12月05日
国際化の流れのなかで、世界的に価値観すらもが画一化され、日本的な考え方というものも失われつつある。今日は東京からお客様で日本の布ということを考える機会があった。林与の中で、時代を越えて現代でも日本の布として世界に通用するのは、近江上布のアーカイブであろう。

一つ一つが伝統工芸の域で、数千柄の規模。日本的な西陣織や友禅とは違った麻に合うワビサビの世界、和そのものを感じる久留米絣とも違うモダンにも思える柄。ものなる布だけど日本の布らしさや布の魅力を人の心に伝える要素を持っている。

私の目には、その一つ一つが布の厳しさ。なぜ60年ほど前に、これほどの世界がこの田舎の村の林与の家から産み出されたのだろうというのにもいろいろな事情がある。子供を育てるのが難しい親戚の子供を自分の子供と同様に家で育てたり、終戦ですべてを失って日本に戻ってきた親戚にすむ場所と仕事を与えたり、早くに父親を失った親戚の面倒をみたり、そういうなかで林与の近江上布は生まれてきた。

仕事というより、ほかの人の生活を支える責任を背負う中で、厳しかったと言われる与一祖父さんだが大きな甲斐性を持っていた。出丁奉公にしても悪く言われるが、民が貧困に苦しみ、親の代わりに食べ物と教育、仕事を与えた。甲斐性のある家が不幸な家の子供を養子するに近い制度であったろう。昔の食べ物も満足に食べることもできない時代ほど、人の心の優しさがあったのに、金銭勘定ばかりの目でみると残虐にしか見えないのだろう。もちろんうまくいくことばかりではなかったろうが、人が人を支えていた時代。不幸な親戚の家の子の面倒を見て育てるなんて美談そのものだろう。恵まれた人には理解できない状況も昔は多かった。

そういう不幸とされる時代に育った人は強く、ほかの人を支える優しさを持つほどの強さがある。布を織る人も自分がこの仕事に憧れてとかでなく、自分の家族を支えるために仕事を求めた。家族を支えるために懸命に織ったから良いものが出来たのだろう。自分のために仕事するスタイルでは無理もせず自己満足に終わり良いものは出来にくいだろうと思う。