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リネン日記
原住民たちに布教に行くとか
2018年11月27日
アメリカの宣教師がインドのセネガルの原住民に布教に行って弓矢で殺されてしまった。アメリカの宣教師がよいことをしたのかというと、なにか独善的で仕方のない結果ではないのかと思う。宣教師を受け入れてキリスト教が入れば原住民たちの宗教は揺らぎ、原住民の生活は近いうちに崩壊するだろう。

日本で言うと2200年前の縄文時代に、渡来人が入って、弥生時代を築いた時に新しい宗教が入ったのとにているだろう。基本的には力が強いほうが残る世界、現代社会が原住民が人を殺してけしからんと、原住民たちを正そうとすることが正しいこととは思えない。現代人は力ではないモラルで行動をするように定義されていて、力で制するなら原住民たちを力で制圧できるだろうが、それをやってしまうと現代人らしからぬ。現代人らしく、宣教師が心を開けば受け入れてもらえるものという感覚で進んでいったが受け入れられなかったというほぼ当たり前の結果。

原住民たちの生活のなかに病気などの不幸もあるだろう、現代的な感覚だと教育も受けられず人権侵害だとんるかもしれないが、原住民たちが現代社会に取り込まれたときに一番底辺であるような扱いを受けることになり、それはよいことではないのかもしれないと思える。逆に軍隊のサバイバルでは原住民を理想とするような食糧確保などが訓練としてされていて、生死を掛けて自分で生きるということは忘れ去られた基本なんだろうと思う。

与えられた環境が自然なら、自然に適した生き方が必要で、人類が文明が発達しすぎて滅んでも原住民たちは生き残れる可能性は逆にあるだろう。古代文明と言われるものはすべて滅んで、文明と言うものには終わりがあるのである。現代文明も地球温暖化などで存続が危ぶまれている。

ミランコビッチサイクルのような、2万年とか、10万年とかのサイクルの方が、人類の文明の長さを越え、人類をリセットする力を持っている。地球の傾きの微妙な加減に支えられて人類が地球に存在できているだけ、ガラスの表面の水滴のような存在の中に人類が存在しているだけのことだろう。