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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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リネン日記
限界集落
2019年12月21日
政府が限界集落を問題視しているけど、限界集落の住人ほど政治家の先生頼みに生きてきて頼みにしてきた先生やお国に、票田とされたものたちが、どうしようもないお荷物がられたら堪らんわなあだろう。先生やお国に頼みの無力で従順に育て上げて、国が面倒見ますよといってきたのに、結局はお荷物なのか?都合よすぎないか。

一番困るのはその次の世代で、自分たちの集落が、政治や行政頼みの自立もできない無力な状態。親の世代は亡くなるまで変わることは難しいだろうから、自分たちが70とか80になって変えていったとしても、時代の20年、30年遅れの後追いになるだけのこと。遅れを取る分、弱体化は進む。

時代の方向性を、都市部が握っている限り、それ以上に田舎が最先端をいかなければ、都市部の補完的な存在として位置づけられては、地方は都市部の下請け人生。地方も土地も広いのだし、自由度もあるのだから、それを有意義に自由に活動できないとだめなのだが、地方のほうが自由すら制限されるあたり。思想統一的な馬鹿な事やってたら本当に滅んでしまうだけのことで、そういうのに次の世代も付き合わせてはどうしようもないだろう。政治が食い物にして重荷化した限界集落、日本の腐った政治の産物でもあろう。

ただ、限界集落と呼ばれながらも、島や陸の孤島のように、独立して生計を成り立たせているような集落は立派だなあと思える。商業に依存せずに村単位で自給自足的に、それに手を加えるよりもそのまま自然に残りたいものが残れるようにして、外からも変な力を加えないほうが終わり方としてもすごくよい形だろうと思える。

不思議だが、何百年も続いてきたものが、この戦後80年ほどで終わりを迎えるものが多い。サステイナビリティってなんだんだろうなあと思う。30年ほどで消えてしまうような新しいものに置き換えることが果たしてサステイナビリティなのか。オーガニックというのは一時と比べると落ち着いて儲からない話が多いが、続けてゆくことがサステイナビリティじゃないのかと思う。少しでもやってみようと動いてみるのがエシカルなことなんだろうと思う。