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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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リネン日記
土着病
2020年03月06日
滋賀県の彦根という場所では、マラリアが戦後GHQが撲滅するまで土着病としてあった。今回の日本政府の新型コロナウィルスへの対応というのは諦め的な対応で封じ込めようとはせずに受け入れるような形での対応を当初から狙っていた感がある。日本的といえば日本的で、死んだとしても何パーセントの国民だという日本の政治的な判断があったといえる。アメリカはそうとはとらえずに政治主導で厳しい封じ込めを行った。外堀などが埋められ彦根の景観が変わったのもそのあたり、また今は禁止されているDDTなども大量に使われた。仕方ないとあきらめていた悲劇をなくすためには一つの方法だったのである。力関係もあっただろうけども彦根の人も協力してマラリア撲滅に努めた。

私自身は、新型コロナウィルスは封じ込め自体は難しいと考えるけども、封じ込めの努力をすれば多少なりとも蔓延の時期を遅らせることはでき、その間にワクチンの開発や治療薬の開発ができる可能性があるのにと思う。医療関係が受け入れることもできない状態なので学校閉鎖やイベントの中止にしても仕方のないことだろうと思える。一つの場所から全国なん十か所にも広がってしまうウィルス。そのなん十か所からさらになん十か所に広がる。封じ込めをしなければ蔓延は確実なのである。

日本中に蔓延したときになにが起こるかというとオリンピックも駄目になるだろうし、日本から海外への渡航や日本への渡航が禁止されることになる。そういう単純な話なのであるけども、それは一番に避けるべき視点ではないのかと思う。国内は検査結果をうやむやにできても海外での検査の結果は隠しきれないので、それは日本の問題として世界中に広まることになる。ワクチンや治療薬が開発できていない以上は、最悪の事態を避けるためには封じ込めに全力を尽くすしかないのである。

国内だと仕方ないと国民に犠牲を覚悟させることは毎度のことだろうけど、外に目を向けた時に日本の政治や行政の感覚は国際的な感覚としては通用するものではないのである。ダイヤモンドプリンセス号の件で日本は世界から叩かれたけども、本来は自国に自国民の感染者の受け入れを求めるというのが筋だっただろう。世界中が自国民の感染者の受け入れも拒むような状態でそれを日本が受け入れるということのアンバランスからしても、人道的というよりも政治家や行政が逆に考え方が軽すぎて他人事のような気がしてならないのである。人道的な善意だとしたらそれを仇で返されたならしっかりと表明すべきなのである。世界の共通認識をつくらないといけないところでそういうところも政治家の無責任さなので、喧嘩になろうが、責任逃れで文句言ったもん勝ちをつくってはならない。

発症者の面倒を自国が面倒をみるという前例をつくっておけば、各国の対応にしてもより緊張が高まっていたと思う。人道的になるならなるで、世界からの孤立の覚悟を決める必要があっただろうとは思う。蔓延がどんどんと広がる、イタリア、韓国、イランなんかみていて気の毒に思えるが、国が蔓延を封じ込めようと努力している様がまともに思えて、新型コロナウィルス対策にしても一貫性があるように思えて仕方ない。

他のことは政治家や行政も、国民に隠して犠牲を被らせる法律作って終わりだろうけども、日本の政治家や行政であっても、新型コロナウィルスに関しては世界中の人々を相手にしているということを忘れてはならない。武漢の街の家の前に死体袋がならび、病院で子供たちまでも死んで死体袋に3人詰められている動画など、蔓延してしまうと最悪そういう結果になってしまうのである。あれを見た後での各国の初動の失敗は許されないのであるが、専門家たちまでもがあれは武漢だけのことみたいな楽観視、そういう専門家がその問題を解決できるのかというとだれも解決できないのである。それほど危険で楽観視は禁物。危険なものは危険であるとアナウンスするだけで緊張をもってすべての政策も対応もできるが、安心安全みたいなところから入ると保身が働いてしまうから後の祭りなんだと思う。

WHOにしても各国のことなんてのは他人事なんだから、それを分かって忠告なんかも聞いておかないと駄目。日本の行政的に、上下関係で済む話でもないのに、上からの指導みたいに受けて、それに従ったから問題はないでは、それに従って津波に飲まれる小学生たち。高台に逃げたものが生き延びる。行政の人間なんてだれも責任を取ろうとも最初から想定がないのだから、緊急時に自分の命は自分たちで守るということは一番大事なこと、マスクも不要論があるけど、マスクで防げるリスクも多いことを専門家たちが隠してマスク不要論を広めているのが本当に病んでいるところ。自分たちは感染しないためにマスクをつけるのは当然で、一般の者がマスクをつけないように仕向ける。これが本当に正しいことなのか?もちろん完ぺきではないけども程度問題なのであるが、そういうのが安全なところにいて頭が良いと分からなくなるのである。議員会館では早速サーモグラフィーで入場者の体温を測っていたりで、マスクつけていない人の危険性までも認識しているのに、一般の者はマスクもさせないほうに誘導。

織物をつくっていても、大丈夫大丈夫でやっていると、それの結果がどうでもよいなら別だけど。普通、大丈夫大丈夫でやってると、まず、出来上がるものの品質のコントロールが難しくなる。それだけでなく、それをつくる人のコントロールも難しくなって、続けても行くことは難しくなるというか、一つの仕事を受けてもその仕事で正しいものをつくることができなくなるような集団となってしまう。一番簡単なものも正しく作れなくなるのも大丈夫大丈夫みたいなあたりからで海外のほうが織物でも厳しくつくっていることが多くなっているようなところがある。日本の政治や行政の無責任な感覚が、結果を考えない法令などを通じて、ものづくりにも影響を及ぼしてしまい消えてゆくことは多いのである。