2010年05月23日
私の住んでいる地域というのは、今は、「愛荘町」と呼ばれますが、合併前までは「愛知川町」、その前の合併前は、「豊国村」、明治の初めのころは、「東円堂村」と呼ばれていました。今も、「東円堂」という字は残っております。
平成10年頃に愛知川の町史編纂ということで、弊社の先代が愛知川地区の近代の麻の歴史関係の部分のことをお話させていただきました。麻の組合からのご紹介だったのですが、機を織り続けているということお声が掛かったようです。本が出来上がったのがその10年後ということで先代はなくなってしまったのですが、出来上がったその本をいただきました。
そのときに、昔の手織りをしていた方がおられますか、という話が出て、唯一、私の親戚筋に当たるおばあさんが思い当たり、話をお聞きしに伺いました。毎日、近江上布を織っておられたおばあさんでも、織りだけの担当ということで、自分自身での裁量の幅が少なく、近江上布を支えていたのだというような強いところはありませんでした。近江上布の手織りが当たり前の普通の仕事だった時代です。
私が、織物の世界に入ったとき、近江上布の染を担当しておられた勘一じいさんも73歳で一緒に仕事をさせていただいていたのですが、昔の染料などの話はあんまりでてこずに、戦争の話にしても細かいことは覚えておられませんでした。時代を受け入れられ目の前の仕事を淡々とこなしてこられたということだと思います。
私がなぜこんなことを書くのかというと、林与というのはこだわりでものづくりをしているのに、そのこだわりが作業工程のどこから出てくるのかということを考えることがあるのです。部分的な作業をしているものというのは、新しい商品をつくるときにも、同じ作業の繰り返しでしかないのかもしれません。
新しい色柄を生み出したりするのは、「林與次右衛門」「林與一」「林與志郎」「林与志雄」と引き継がれています。そのことが、一番の特色ではないかと思います。それは本来産地の特色でもあり、経営者というのは経営者というだけでなく、すべての作業を理解して職人を指導する立場でもあったのです。今の織物という工程においても、分業ということが進み、本来の織るという部分が他産地や海外に置き換えられていく中でそれを産地に残していることは大きな意味があるといえます。
「林与」の代々というのは、単なる経営者ではなく、デザイナーである部分を代々守り続けている麻屋で、ヨーロッパで言うところのハウスリネン的な物づくりと共通しており、海外でものづくりを語るときに日本のものとしての本質的な意味を感じていただけるところです。「林与」の麻布が、単なるメイドインジャパンに終わらないのは、そのスタイルではないかと思うところです。