2022年01月03日
冬の思い出の一つに、冬というのは永遠に続くような寒さのイメージ。小学生のころ、こたつもなく。出居に一つ火鉢が置いてある。その火鉢の炭のわずかなぬくもりを手に感じる以外は永遠の寒さの世界。5分すぎるのが1時間とかに思えたり。今思うとそれはそれで時間の経つのが子供のころは遅くってその分いろんなことが出来たんだろうと思う。今は時間が経つのが早すぎる。
そとを見るとガラスの向こうの前栽は、雪が積もって真っ白。その中にたまに鳥が食べ物を探しにだろうかやってくる。それが生きることの厳しさみたいなものを象徴しているようで、白い雪、カラスじゃないけど黒い鳥、そして赤い実のような、動画のような世界を見ているような印象。1分ほどの出来事なのだろうけども、それ以外の時間というのは寒い出居での永遠に続く寒さの世界。おじいさんたちの時代の生活の厳しさみたいなものを実感しつつ、暖かい部屋でゲームみたいなのは中学生くらいになってからだろうか。
そういう背景があったから絣柄の近江上布のようなものが作れたんだろうと思う。田舎で生きてゆくことの厳しさみたいなあたり、火鉢のぬくもり程度の永遠の寒さのなかでいろんな考えを思いめぐらせ短時間にいろんな柄を生み出していった。おじいさんのころというのは仕事にもにぎやかさというよりも厳しさの世界。先代のときは厳しさよりもにぎやかさみたいな時代になって価値観なども外の世界に画一化されてしまったイメージがある。
滋賀県の田舎で作った布が、大阪や京都の呉服商に持っていくと評価が高かったのも、生活そのものも異なって、生み出される布に詰まった人生観の違いみたいなあたりが評価されたんだろうなあと思う。でなければ、大阪や京都で同じようなものはいくらでもつくれただろうから。今も少しは残っているが、昭和30年代に使っていた紡績の手織り用の糸は当時1kgが3万円とか、田舎の火鉢しかない生活の中で、そういう日本で一番高い糸を手に入れて日本で一番くらいに高級な麻織物の世界を作り上げてゆこうとしていたあたりがガチな世界そのものだったんだろうと思う。成金な世界じゃなくて、ガチなものづくりの世界。
戦争や不幸で親を失ったり、母親が栄養が足りずに赤ん坊に母乳が与えられなかったりで、そういう親戚があればおじいさんは家で預かって育てたりした。戦後は、丁稚奉公なども悪いことのようにいわれるかもしれないけども、親に代わって育てるようなところがあって、親戚の親に頼まれて預かって奴隷制度でもなく、預かる側はりっぱに育てる覚悟も持ってチャンスを与えただけのこと、本人が希望すれば解かれる形。私も子供のころからそういう自分のおじいさんおばあさんじゃない、私の家で育ったおじいさんおばあさんと接しているけども、そういうおじいさんおばあさんというのは恩に思っていてくれて、その恩の気持ちが子供のころの私に伝わってきた。自分の子供を食べさせてゆくのも難しい時代があって、生活の苦しい親戚に頼まれて預かって自分の子供と同じ様に育てる面倒をみたのである。人が支えあって生きていたあたり。