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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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リネン日記
海の日
2022年07月18日
海の日なのらしいけど、海にはいくような余裕もなくて、暑い中、工場の中で織ながら糸を繋ぐ。滋賀県で海といえば海には面していないので、淡海すなわち琵琶湖を指す。近江のオウミという音は、淡海アワウミから来ているのである。

琵琶湖も昔子供のころは泳いだ記憶があるけども、シジミ取りだっただろうか、新海浜で、20個くらいは取れたような気がする。新海というのも、昔はそこは海じゃなかったから新海で、戦後に琵琶湖が埋めたてられて農地が広がり海岸線に浜が作られた。そこが新海で、昔から別荘地だったのだけども、今は人気の少ない別荘地で、しずかな海水浴場ではある。

琵琶湖も昔はもっと広かったのに、戦後に戦地から帰って来る人たちのためにコメが必要ということで、農地を作る必要があり、琵琶湖周辺には田んぼが広がっているのである。滋賀県が農業県として今も存在しているのもそういう流れで、近江米という名でお米も特産品として有名である。

戦後の農業政策というのは、非常に近代的に行われ、埋め立ての他、農地改良や、圃場整備など国が国策として滋賀県の農業を推進したのである。ダムも農地用水の確保のためにつくられ、今の滋賀県の農業がある感じだろうか。

近江上布のような織物が盛んになった理由も、琵琶湖の湿気がという説があるけども、それよりも、近江上布が盛んだったのは山側だったということもあり、冬場雪に包まれるような場所が、織物には適していたのである。琵琶湖側では、アシやヨシや蚊帳などの荒い織物が多くおられていたと言われている。

琵琶湖周辺というのは、昔は、農業も本来は難しかったりもしたという問題もあって、水を琵琶湖から戻して水利の確保を行ったりもしていた。もともと、漁民的な生活が強く、本来は内湖的な地域で、水上交通が江戸時代から盛んであった。江州と書いてゴウシュウと呼ばれるのも、本来、滋賀県というのは、山か、沼地か湖かという2択のような場所だった、沼地的な場所は沼そのものだったり田んぼだったり、そういう場所が後で埋め垂れられて平野となったのである。

今は周囲が平地にしか見えない安土城も彦根城も自然の琵琶湖という堀に囲まれた山の上に立っていたお城なのである。内湖はほとんどが埋めたてられてしまっているのが今の琵琶湖周辺の状況。能登川と安土の境あたりに昔の名残がのこってはいて、家の裏が船着き場のような家がみられ、メインの交通手段として舟があった時代の名残である。

母親の親元も家の中の台所の一部に用水路が流れていてそこで鯉をなん十匹も飼っていて、正月やお盆の時には鯉汁がメインだったのが記憶にある。あと、愛知川のウロリを取って食べるとか。母親の実家は農家で、自分の家でとれる米と野菜と川魚で昭和の50年ころでも食卓が成り立っていた。

今も集落の多くの家は、兼業農家でお米は自分の田んぼ畑を持っていて野菜は自分で育てている家がほとんどだろう。魚や肉は買うのだけども、野菜はほとんどが自前。滋賀県では麻織物が成り立ちにくいのも、60年もさかのぼれば麻織物を自分で織っている家が多かったから産地にはなりえても消費地にはなり得にくい要素があるのは野菜と同じ。

林与の呉服生地のほとんどは東京とか京都筋の呉服商がお客さんだった、服地になってからも、近江にゆかりのある生地商がメインのお客さんで、この20年くらいで、それもほとんど消えた。国内というのは需要が少なくなる一方で生産コストは逆に上昇して、間に問屋さんが入れるような余地などは難しくなってしまった感がある。