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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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リネン日記
脱貧困
2023年08月03日
脱貧困みたいな経済成長モデルがあるけども、農村地に観光資源を作って観光などで活性化しようというもので、大きなお金を田舎に注いで新しい建造物を作ってそれまでの地道な営みを破壊してしまうようなところがある。一時的には、建築などでお金が動いて活性化するもののその事業が成功しなければ、今度はその何千億規模を使った事業ですらもどう維持するのか片付けてゆくのか、次の世代への赤字要因になる。

これが、新興国で起こりがちなことで、でもそれは、日本の万博なども同じような傾向があって、計画では問題なくてもいざ実施しようとしても何倍もの費用が掛かってしまって当初の予定の何倍もの負担になる。今までのことにお金をつぎ込んだ方がよいのだけども、お金を握った人たちというのはどうしても新しいことに費やしたいようなところがあって、地域の人の人生観すらも変えてしまうところがある。

脱貧困社会で問題になるのが、脱貧困のために教育を受けさせるのだけども、結局、高学歴をもってしても結局は誰かが末端の仕事をしないといけないわけで、今まではそれが普通の仕事という概念だったのになぜかそんなことはできませんみたいな人ばかりが増えて、新興国に置いてもさらなる新興国での生産に移行するような話になる。

私自身が、普通と違うなあと思うところは、一番底辺の仕事を当たり前に思っているあたりで、そういう誰もしたくない仕事の部分に価値があったりする。そういう誰もやりたくない部分を自分がこなすことで全体が回ることも多いし、そういう人がいないと企画一つも回らなかったりもする。今の海外生産というのは日本の昔の高度成長型モデルそのもので、海外のほうが低コストで生産性も高く、日本の5分1、10分の1でつくれるだろう。

昔、半年ほど世界最先端の半導体工場の現場で働いたことがあるけども、その仕事というのは織物の仕事よりも標準化されていて単純だったりする。でも、結論から言うと日本でやらなくても、言われたとおりに正しくさえ作業できれば途上国でもできる仕事だったりもする。途上国の人々の生きる力というのは先進国の何倍もあって、先進国の人以上に途上国の人のほうが器用だったりもする。

インドで経験したのが、量産型の縫製工場で、縫製工場の作業員というのはみんな一着の洋服を自分で作れる人たち。そういう人たちを現代の量産の現場で働かせようとすると単能工化する必要が出てきてしまう。それが苦労したところだと工場の方がいっておられ、技術とすれば、安く大量につくれるような素人に近い水準に落とし込んでゆくようなところ。それが世界の洋服の生産を支えたりするのだけども、そういうのが本当によいことなのだろうかと思えたりもする。

日本の昭和のころのものづくりをみるような感じだけどもそういうのが成り立たなくなったときに、今の日本の繊維業界と同じ様に新興国での繊維産業というのも生き残ることは難しいだろうなあと思える。繊維産業は、どんどんと実際に働く人を求めて途上国へ向かうという流れなのだけども、それが本当に良いことなのだろうかと思う部分。先進国は一方で働かないことを理想とする社会に傾いて来ていて、そういうのが、途上国に労働をもたらす一方で、先進国の働かないモデルというのは、結果として、さらなる階級構造そのものを目指しているのではないのかと思えたりする。