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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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リネン日記
手織り
2024年04月12日
久しぶりにファブリカ村の陽子さんと電話で話たら、半年前に手織り体験で使っていた手織り機をファブリカ村においてもらったらうまく活用もしていただいているようで、それは本当にうれしいお話。幅が狭めなので、2倍の幅のものが良いということで次の整経は2倍くらいの本数にできたらよいなあと思う。なんやかんやいっていてもすぐに夏にはなってしまうだろうけども、もう一台立ち上げておいてもらうも可能なようで、多くの方に手織りを体験してもらいたいなあと思う。

林与自身が、イベントに出展して手織りを体験してもらうというのは、織物を織る、とか、布を作るということが身近ではなくなってしまっていて、布をつくるというようなことが特別なことになってしまった感がある。林与も織物の仕事をしていても、手織りはほとんどしていないので、似たような話かと思いながらも、働きにきてくれる従業員の人たちでも昭和のころから、そういうのを趣味でやったりしている人も少なかったりで、林与のことでなくてもよいので、織物を織るというようなことから、身近に感じてもらいたいなあと思う。

特に、小さな子供さんなどは器用なので夢中になって織ってくださることが多く、子供のうちに一度でも織ることができるというのを体験して楽しんでもらえれば、将来、どこかでまた手織りする機会も増えるのではないだろうかと思えたりする。教室とかに行くとかだと敷居が高いだろうけども、林与の無料手織り体験イベントなどで気軽に最初の体験をしてもらったらと思う。

林与の参加しているイベントなども基本、大人向けのイベントが多く、そういう場所に一緒にこられたお子さんたちが、イベントでなにか楽しめるようなことがあったらという思い、林与にできることというと織物のことなので超かんたん無料手織り体験は、林与も実施させていただきながら、多くの方に体験していただけるのをうれしく思っています。

子供さんで夢中になってくださって親御さんがもう迷惑だからやめときなさいみたいなことをおっしゃってくださるのだけど、林与は親御さんに迷惑でなければ、子供さんの織りたい気持ちというのが本当にうれしくて、次の方がなくて空いているなら時間の許す限り織ってもらって、そういうイベントに来られた思い出の一つにしてもらいたいなあと思うんです。イベントに出ているときも、林与の場合、物販も同時に行っている場合もありお買い上げいただくこともありがたいことではありますが、手織り体験そのものをしていただくことのほうが一つの主目的だったりで、参加するイベントを林与自身も楽しみたいから手織り体験を開催していますので、好きなだけ自由に織ってもらえるのがうれしい気持ちです。

今まで手織り体験で、日本の伝統的な手織りが本業の方などとも多く接させてはいただいておりますがトラブルなどは今のところはまったくありません。和織機の場合強く打ち込むというのが、一般的な着物の世界の良い布の織り方の基本で、織り方の違いなども林与は把握していますし、小型の洋織機の場合には華奢なので強く打ち込むと織前が踊って、整経ビームのギアが外れたり、糸がたわみやすく難しいことも織機の性能として難しい問題も理解しながらですので、手織りのプロの方とも技術的にはそうなんですよね、という話で、織り方の違いに関してもぶつかり合うこともありません。織る布によって織り方が変わってくるのも理解をしながら、一般の方向けのイベントでだれでもが簡単に織れる方法で最初の体験をしてもらえたらと思っています。

林与が展示会などに参加させて頂いて全国のいろんな機屋さんとの交流の中でいろんな技術的なことを教えていただくことも多いですし、今の衰退する傾向にある日本の織物業界の問題も共有もしながらで、林与が自分がやって成り立っているようなケースも参考にしていただくためにお話させて頂くことも多く、林与自身も惑星直列的な幸運が重なったから麻織物を続けていられるようなところがあり、その基本が、成り立とうとするために自分ができる限りのいろんなことをがむしゃらにやってみるという考えです。織物を無心にやることから始まってうまくできるようにならないと成り立つはずもなくで、時間から時間働いたから食べていけるような世界ではなく、憧れで成り立つような世界でもなく、それで食べていくならばいろんな問題を解決してゆくそれなりの努力が必要で、そのいろんな問題というのが、日本の繊維業界では増える一方なので、日本の繊維業界的な特色を残すためには、よほどの努力が必要なのかとも思えたりし、今の日本の働くことを悪いことのようにとらえていてはそれはもう国際競争の中では成り立たないような誘導を自らしてしまっていて、働かずに優雅に暮らすといういわゆるホワイト的な理想そのものが、搾取構造そのものでいわゆる批判されがちなブラック的な概念につながります。国連レベルやSDGsレベルでも、ホワイトを謳っている人ほど、助けろとはいうけど、苦しんでいる人を自分が雇う覚悟もなかったりで、苦しんでいる人の面倒を見て雇っている人を叩くだけとかの階級構造で、そういうところが本当に残念な、国連やSDGsの浅すぎるところで、一番底辺の人たちを自分が雇って法律の重荷を背負う覚悟の無い人たちが、法律ばかりを厳しくして、一番底辺とみなされる人たちの面倒を共感して支えようとしている人たちを法律で縛って、面倒見させて叩いているだけの話で、そういうのが一番駄目なのではないかと思います。法律が法律がと逃げているひとが多すぎるけども法律というのは人の心が大事で、自分が背負う覚悟もない人が自分が出来ないことを他の人に法律だとか規則だとかで強いては駄目で、そういうのが国連レベルやSDGsでも一番駄目に思うところ。掌るものが、覚悟決めて末端を食べさせていく責任を背負わないと駄目だけど、その覚悟もなく、国連レベルのSDGsというのは、まったく本質が見えていないし自分が自分の人生も捨てる覚悟もない人たちがホワイトのようなルールを強いて他人事のように人々を苦しめているだけの連鎖に終わる。本当に一番駄目なのが、国連レベルのSDGsの裏側で、そんなレベルの金儲け主義のSDGsならやめておいた方がよいと思う。