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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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リネン日記
上布とフナ寿司
2024年05月28日
今、近江湖東産地の麻織物の歴史をたどっていく流れの中で、赤苧織物というのが引っかかっていて、赤苧というのは苧麻の茎の赤いタイプを指して、植物のアカソではないだろうという結論に達しかけている。近江上布もカラムシを使うと昭和の中頃までは言い伝えられてきた。栽培した苧麻ではなく、苧(カラムシ)とは自生している苧麻のことを指すと昭和の中頃まではいわれてきた。

沖縄の宮古上布も赤ブーと青ブーがあるということらしく、ブーは苧麻のことを意味する。茎が赤いのが赤ブーで、茎が緑なのが青ブー。それは今も自生していてそれらを使って宮古上布は織られていたりもするということを宮古上布の会館の方に教えてもらった。

昭和村の方にも確認をさせていただいて、栽培しているものは茎が緑の青苧が品質面が良いということ、そして、地元の人が今も自生しているカラムシを織っておられるのが赤味がかっていて味があるものをつくっておられるというお話をお聞きした。よく分かる話。それが基本の考え方でそういう苧麻がまさにカラムシの原点で、その品質を高めるためにより細い糸を取れるようにするために栽培が昔から行われていたのが福島県で、江戸時代には近江上布も東北地方の原料を使っているという記録が残っていると聞いたことがある。昭和村は古くから糸の産地だったのだろうと思う。近江上布は能登上布が始まる前は、能登からも苧麻の糸を仕入れていたというのが定説で、その後、能登の人たちが近江の職人に学び能登上布が生まれたというような能登上布の歴史。能登川という地名にしても能登川という川があったからという話もあるがその川の名前も能登とつながりがあるのだろうと思う。

小千谷の方や能登の組合の方にも確認はさせていただいている途中で、日本の麻織物における近江麻布における赤苧の関して林与なりの定義づけをすることが、日本の古来からの麻織物の歴史における赤苧織物の定義にもつながるだろうと思う。日本の上布と呼ばれる、赤苧に使われているのは苧麻なのか、それとも植物の三裂した葉先をもつ赤苧なのかという問題。植物の赤苧の繊維の抽出は行ったけども太布向きで、細い緒を績むために繊維を取りだすことは難しい。

断定は難しいのイだけども、高宮の宿での細美というのは、東北で細い糸が取れるように栽培され品質が高く、績まれた糸が彦根近辺で織られたものではなかろうか。今までは赤苧だと考えていたが、それは考えを変えるに至り始めている。赤苧織物は、植物の赤苧ではなく、苧麻の茎が赤いタイプからとった繊維で織りあげられた織物ということで、林与の家や産地に伝わるカラムシの話とも整合はする話。赤苧織物は自生のカラムシ織物で、細美よりはやや太かったかもしれないなあと考え方を改め始めている。

湖東地域で基本米を植えることが基本で農家が、自分の土地を持っていながら苧麻を植えることは難しかっただろうと思う。土地を持っていればそれに応じた年貢を納めないと駄目だし、コメが普通に取れる土地なので、農家が畑で米の代りに苧麻を栽培するような優雅な感覚はなかったと思う。近江湖東地域では戦前は、普通に大麻も苧麻も自生はしていたから。松竹梅やお茶や柿、渋柿と同じで、屋敷に生やしておけば一家の分くらいは時期になれば自生のカラムシなら好きだけとれたのがあたりまえ。品質は別にして。でも当時から栽培するのよりも緒を績むのが難しいからそれなりに評価は苧麻である赤苧が高品質な苧麻以上に高い。いわゆるオーガニック以上の自然農法を江戸時代の人も評価してたのかなあと思ってはいる。

糸を績むという作業は、江戸時代の記録によるとお寺が学校のようなもので苧績みをお寺で教えていたということらしい、それというのは、お寺に績んだ糸を納めるのだろうか。農家は現金収入というのはほとんどなかっただろうし、米や玉綛みたいなものは現金作物みたいなもの。

ムカデがいたら、それをムカデを捕まえても薬にしようとするのが、林与の子供のころで、マムシ酒とかもうほんと、子供のころに何十年も前に漬けられたマムシの入った一升瓶が蔵の中に普通にあるのが田舎の普通。鮒ずしにしても、昭和50年あたりの当時でも、大きな数匹で何万円も払ってつけてもらうのにつかいながら、それはほんと子供からすると吐かれたものを食べるそのもの。日本の寿司の原点がなれ寿司にあるというのも、いくらお金払っても絶対に食べたくないような耐えられない高尚な世界。

江戸前寿司が今の日本の寿司の新たな原点になったのはその場で調理して食べてもらう屋台スタイルから始まったらしい。ファーストフードみたいな感じなのか、塩や酢で締めて魚の生食が始まったのが江戸前寿司で、戦前までは江戸に行かないと江戸前寿司は食べることは難しかった。東京の特産品的な名物は寿司ということだろう。今も東京に行って寿司を食べたい人は多い。

また、麻の話に戻るけども、上布の産地が戦後も残ることができたのは、苧麻を扱っていたからだといえる。大麻織物だけを扱っていた織物産地は戦後原料からして手に入らなくなったことにより、保護されている皇族の儀式や神社の儀式のためにだけしか大麻の生産は許されない、一般の農家にしても戦後は大麻栽培が禁止され、大麻布を織ることが禁じられた。苧麻を戦前から織っていた上布の産地だけしか残れなかったんだと思える。

蚊帳織物や麻織物が盛んだった奈良の地域の織物に関しても、現在、麻を織る会社があまりないのは、戦前は大麻だけを主に織っていたからだろうと思う。奈良は今も麻織物だった蚊帳産業の流れを汲むものとして寒冷紗などの荒い合繊の織物が産業として残っている。元来、蚊帳というのは麻織物で荒い織物なので大麻なのかなんなのか、蚊取り線香のような濃い蚊帳の緑色も、蚊取り線香の成分、元来は、蚊の嫌う菊とかニワトリの糞とかの入ったものなのだろう。今はあの蚊帳の緑の染の技術はどこもやっていないということで禁止されてしまったのだろうか。

戦後の麻という概念は、品質表示法で麻と呼べるのが苧麻と亜麻だけになったことで、戦前の麻という概念からは大きく変わった。戦前は大麻も麻だし、黄麻(ジュート)も麻で、林与が聞いた話では27種類ほどのものが麻と呼ばれていたようで、戦前というのは、特に明治以降はアジア進出など国境がないような状態だったので、世界中からいろんな麻をもっと自由に手に日本が入れていたようなところがある。

元をたどればつる草なども今は河原に行けば生えまくっているけどもつる草からも繊維を取っていたのが戦前のものづくりで、稲の藁からも、いろんなものがつくられて、傘、蓑、草履など、今の人だと絶対にみにつけるのも痛くて難しいような感覚のものでも作業着的な身に着けるものとして使われていた。豊かになると雑草にしか見えないのだけども、麻布もそもそも雑草的なものから繊維を取り出し苧を作り、績むというような工程を経て糸になる。苧麻が苧麻といわれるゆえんは苧を取るための麻ということ。

日本の近代の初期までの製鉄を担ってきた、たたら製鉄という技法も、今は再現が難しく再現されることも限られている。今の鉄よりも不純物のない硬度の高い鉄がつくれるのが特徴で、そういう技法というのは、弥生時代に渡来人(林与が考えるのは徐福一行、のちの皇室)と一緒に秦の時代の最先端の鉄や製鉄技法が日本に持ち込まれ、日本国内でも製鉄が始まった時からの技法。その以前の日本の製鉄というものは隕鉄が原料としての鉄製造法。

鉄の精錬技法と、麻布の精錬技法とが別なのかというと、麻布も砧で叩いて不純物を飛ばして、純度を上げてゆくようなところがある。麻の繊維にはペクチンと呼ばれる膠成分みたいなものがあって、繊維と繊維を繋いでいる。それを石鹸や水分を与えて叩いて取り除くことで、昔の織物の加工となる。昔の技法って鉄の世界も麻の世界も似ているような気がする。