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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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リネン日記
豊国村、愛知川町、愛荘町
2010年12月28日
近江上布機元初代のヨジヨモンじいさんは、本当に才覚のあった人だと聞いています。カンベイひいひい爺さんというのは、「のんべい(お酒のみ)」で、カンベイひいひい爺さんのころも農業の傍ら家では冬には機は織っていたのですが、お酒の飲みすぎで財産を全て飲み尽くしたというお話です。ヨジヨモンじいさんは、林与を近江上布の機元として立ち上げただけでなく、豊国村の二代目村長として、林与の中で村の行政の仕事をこなしていたのでした。

江戸時代の参勤交代という制度は、江戸に妻子を人質としてとられた大名が中山道を動くことで、近江上布という特産品が高宮の宿で動きやすいという事情があったのではないかと推測いたします。明治の初期に関しては、藩に統制されていた近江上布であったがゆえに買い上げの制度が崩壊し、新たな販売方法として伊藤忠兵衛さんをはじめとする近江商人が物流を支えたといえます。家には、戦前に丸紅さんの展示会でいただいた織物に関する昔の賞状が何枚か飾ってあります。当時は、丸紅賞を受賞したとかいうことで大変な騒ぎだったんだろうと思います。

林与は、昔、機元でしたので、地元の親戚の家などに貸し出ししていた昔の近江の手織りを支えた手機が今も残っています。いまだと手軽な手織織機がたくさん出回っていますが、近代の近江上布文化を支えた織機ですので、手織りででも高品位な麻織物を織ることのできるものです。明治といえば、豊田織機が力織機時代を築き上げ始めたのですが、近江上布の特色である糸を左右に少しづつ振って柄を織り上げる絣織物は手織りでなければ再現することが難しいために、産地では戦後も手織の文化が続いたのだと思います。

私が小学校3年のころ、小学校の先生が興味を持ってご依頼くださったのでしょう小学校の放送室に、林与の手機の織機が置かれていました。すごく新しい校舎に、レトロな織機が置かれていたのは、小学校3年生の私にはまだまだ理解の難しいことでした。先般のゲストティチャーで思い出したのですが、30年も昔からそんな感じのことをやっていたのだなあとふと思い出しました。

愛知川町の町の歴史を編纂するときに、麻組合からお声が掛かりまして、弊社の先代與志郎が、愛知川町の近代以降の麻織物の歴史の原稿を書かせていただくことになりました。製本されたときには先代は亡くなってしまっており、愛知川町も秦荘町と合併し愛荘町と名前を変えました。時の移り変わりを感じます。