2011年04月09日
小さな郵便物をお送りするときに林与織物と書かれた封筒を使用することがございます。3年ほど前まで、社名は株式会社林与織物でした。麻業界の中ではずっと昔から「林与」で通っておりましたが、私が引き継いだときに「林与」にしたいなあと自然に思いました。先代がいるときにはそんなことは考えてもいなかったので、啓示的なものを感じます。
初代の林與次右衛門商店からはじまり、二代目与一のころは林与織物工場、三代目與志郎のときに株式会社林与織物、そして四代目の私のときに株式会社林与という流れになっています。林与というイメージは、二代目ころから定着していたものと思われます。「林与」ロゴは、昔の近江上布の反物の箱にもあしらわれており、昭和20年代の後半、あるいは昭和30年代前半くらいからは使い始めており、戦後復興した近江上布の反物を入れて京都や大阪の問屋さんに送るのに「林与」ロゴの入った箱が使われました。
近江麻布にも用途の違いがございまして、愛知川の川を挟んで、愛知川地区の機屋というのは服地、能登川地区の機屋というのは座布団地というようなイメージです。服地の世界と座布団の世界とでは、業界が異なるかのごとくに分かれていて、服地をするところは服地専門で、座布団をするところは座布団専門という形だったのです。それは、販売先というのが明確に分かれていたことにあるといえます。
着物屋さんとのお付き合いをするのか、座布団屋さんとのお付き合いをするのかで、専門とする分野が明確に異なったのだと思います。両方を手がけることがなぜ難しいのかは、織機の幅にもあったと思います。服地は1尺ほどで、座布団用の織機というのは倍ほど広いのです。林与の場合でも、昭和30年代後半から、和服が売れなくなったからといって、手織りの座布団をつくることは出来なかったのです。
私の想像ですが、地区ごとに明確に生産物が分かれているのは、強い規制があったからというわけではなく、地域というのが血縁関係で成り立っていることも多く、家業の延長として親戚に仕事を世話するような形で成り立っていたことにあるのだと思います。織物にしましても現代よりも高度なものを作っていたので、ノウハウの蓄積は重要で、誰にしか出来ないというような独自の技術や特色が家系ごとにあったのだと考えます。