2011年05月25日
最近、生地をスキャナーで撮ることに嵌っています。案外、きれいに取れるのでびっくりです。今、考えているのは今作っている生地をアップするのも良いのですが、林与の近江上布のコレクション数千点をライブラリー化しようと考えています。そこには、日本の草花をモチーフとしたワビサビの世界が広がっています。
いろいろな奥の深い生地の世界をご覧になられてこられた方でも、林与の近江上布のコレクションをご覧になられますとそのデザイン性というだけでなく、一つ一つが絣織で一本一本を織り上げて織物に仕上がっているということを数が多すぎて忘れてしまいそうになられます。絵を描くよりも何十倍も時間のかかる作業であり、一つ一つが芸術的作品だといえます。昔の人の絵心というのは独特で、すべてに日本らしさが漂うのも、その当時の人の生き方そのものが日本的だったのだと思います。何をやっても日本的なものが生まれてくるというそんな時代だったのではないでしょうか。
日本人の織物への価値観というのがしっかりと詰まってますので、今の時代にやっていることの無力さというのを感じます。一方で、伝統工芸というのが商売として成り立ち得ないというのも感じるところです。技術が、どんどんと進化して究極の手の込んだものを生み出しても最後に終わりが来てしまうのです。
私自身が感じるのは、始まりのあるものというのはすべて終わりがあるということです。哲学的になりますが、終わりがないものというのは始まりがなく存在しないということです。産業というのは、全体的なピークを過ぎると希少性が出てくるまでは価値のないものとして急速に衰退するものなのです。麻関連の産業というのは30年周期で動いているような気がします。1代に1回の好機があるのが普通で、それは一世代のうちに同じものを良いとは思わないということだと思うのです。たとえば、昔、ベルボトムが流行って履いた人が、またブームが来たからといって履くかというと、昔くさくって履けないと思うのです。そういうのを知らない新しい世代が、一世代前に流行ったことをブームにするから、また、始まって終わっていくという流れがあるのではないでしょうか。
話はもどりますが、昭和40年代にもなるとヨーロッパのブランドが日本にも流入し、和装の世界で手の込んだものを生み出しても商売としては成り立たないような時代になってまいりました。でも、林与もそうですが、今のそういうのを忘れてしまった世代にとっては、昔のものというのはすごく新鮮であったりいたします。