2012年04月23日
林与自身は、近江上布のルーツは一般には鎌倉室町時代といわれていますが、湖東地域でも古代に大国荘と呼ばれ江戸時代には豊国村とよばれた場所にあると思っています。私の住んでいる東円堂という地域が、かつて奈良の東寺や興福寺などのお寺の荘園だったことなどが当時の日本の最先端の織物に対する技術や需要がこの地にあったのではないかと思っているのです。
また、豊満神社にしましても旗神を奉るとされ、西暦200年くらいの神話っぽいのにも出てまいります。この辺りどこまでが真実なのかはわかりませんが、そういう言い伝えがあるのはこの地の織物の歴史というのが、一般にいわれる近江上布以前にあって、特に、豊国村では細番手の麻織物が盛んに織る業者が多く、能登川地域の座布団や寝装系や琵琶湖周辺の蚊帳などの麻織物とは違うものに特化していたように思います。私が徐福伝説を信じるのも、秦氏というのも秦から来た人を一般に指して、その子孫が日本に織物技術を波及したと考えるのです。
実際に、上布と呼ばれるクラスの細い糸を使った緻密な織物を織ろうとすれば糸ソウコウや竹ソウコウでは難しく、鉄を加工する技術が必要であるのです。稲作なども弥生時代に中国からの伝承であるとされますが、それも日本の織物の歴史とかぶるのではないかと思います。徐福のような一人の人間が稲作、鋳造、織物などに関して高度な文化を日本にもたらしたと考えるのが自然だと思うのです。アンギンのような編み物に関しては農業の一環として誰もが考えうる程度のものですが、麻の細い糸を績んで織るような技術というのは日本中同じですので逆に伝来したと考えるのが普通ではないかと思います。
地場産業なんてものも、今の自動車産業と同じで、実際には一族の産業である側面が歴史的には大きかったわけで、技術に長けたものがその開発を背負って地域を潤してきた形ではないでしょうか。近江の地でも、わずか車で30分ほどの範囲で、同じ麻でも、寝装系、蚊帳系、着物系など分かれているのも、どの一族から分かれたかで取り扱うものが異なっているというのが本質的なところではないかと思います。
近江上布の織物の歴史に関して大国荘のことが語られないのは不思議だなあと前々から思っておりましたので、林与の近江上布のルーツに関する持論というのも面白い話だとは思われないでしょうか。