for English speakers: Welcome to HayashiyoWelcome to Hayashiyo
リネンや麻を織る日々をつづっています。
ホームリネン日記2012年3月
2012年3月
リネン日記:27
2012年03月08日
今日電話で注文をいただきましたお客様とお話していると、国産の生地を探しておられて、国内で作った生地を見つけるのが難しいといっておられ、林与にたどり着いてくださったとのことでした。このことは、自分でものづくりを続けている林与自身も自分自身でつくることの難しさを感じているところではありますので、他のところが自分で織っておられると聞くと難しい時代にがんばっておられるなあと思ってしまいます。

今日は、織れないということでそのままになっていた織機の問題の解決を手がけました。結局、筬を反対に通していたとか予想外の初歩的なミスで、こういう失敗をしてしまう人というのはなかなか自分一人で仕事ができるようになるまでには遠いものです。マニュアル的にするなら表とか裏の表示をするべきなのでしょうが、そういうのはプロのものづくりとは遠い世界です。筬なんていうものは裏と表の区別だけでなく、筬羽に問題がないかなど使えるかどうかを判断できないと付けて作業してもやり直しです。

また、筬羽がゆがんでいれば自分自身で直せるなら直してみたりするのも仕事のうちで、筬を傷つけないような丁寧な扱いが原則ですが、筬羽が傷ついたら新しいものをというような考え方では筬を大事に扱うことすらも身につきません。
2012年03月07日
今日は夕方の出荷に向けて反物の検査など行う工程がありました。最後に巻き上げた段階で反物の裏表表示をつけます。通常、平織の反物というのは、両面ほとんど同じ加工工程を通るので見極めをつけることができず、最終の検反面をもって表とすることが、裏表の判断基準だったりします。

厳密には、織物を織っているときの表面が表ということで表示して加工に投入されるので、それを信用すれば巻き上がりというものは常に一定になっているはずなのですが、作業員の勘違いなどで裏と表が混同してしまったときなどには、最終の検反面を表表示するのです。

裏表がよく議論されるのですが、裏表だけでなく、生地には上下左右というものがあります。ハンドメイド皆様ですと、通常のリネンに関しては裏表上下左右を気にしていただく必要がほとんどない場合が多いものです。林与の生地に関しましては両面毛焼など裏と表の差が少ないのできれいに見えるほうを表に使っていただければよろしいかと思います。

生地一般の話になると、片面起毛などの処理が施されている場合、裏表が重要になってきますが、基本、再現性に縛られないハンドメイドですと起毛面を表に使っても裏に使っても自由は自由です。起毛などの場合は、毛羽方向が生じますので上下の問題が出てきますので、統一した方向で生地を使うことは重要だと思います。

実は生地だけでなく、糸にも紡績の方向というものがあるのです。紡績の順方向と逆方向です。特にモールの意図などではそれが顕著だったりして、巻き返しの際に注意をしたりいたします。リネンやラミーの糸の場合も順方向で織機に掛かるとスムーズに織れるという想定ができますが、糸自体が不規則なもので、そこまで厳密にする必要はないというのが経験上の結論です。途中の工程で工夫が必要かとは思います。

強撚の糸を使う際には、糸の順方向、逆方向だけでなく、チーズを扱うときの右巻、左巻も撚り回数を左右するので甘撚のものを扱うときには特に重要です。チーズの巻きも大きいときと小さいときでは、チーズから出てくるときに解撚や追撚が掛かってしまう回数が同じ1mでも違ってきます。そういうのもセンシティブなものづくりをするときには注意しておかないと整経の最初と最後で布のイメージが変わることもありえます。ほとんど気づかないケースが多いですが、布の右側と左側では厳密には糸の撚り回数が違っているのです。縦糸に扁平糸などを使うときには注意しないといけない点かもしれません。

木管なども片側にカラーのペイントが施してあったりして、木管の左右が区別できることで、取り扱うときに同じ方向で糸を扱ってあげることができるようになっています。途中の人がそれを意識できていないと後工程の人が一生懸命やっても駄目で、一貫生産というものは重要だなあと思います。ひとつの工場の中でも作業工程が増え、ものづくりに多くの人が介在すると一貫生産が成り立ちえなくなります。
2012年03月06日
ここ数日、冬の底冷えするような寒さを感じなくなり、ようやく、春のぬくもりに包まれているような毎日に変わってきているのを感じます。本格的な春らしさです。

本当はすずめなんかが飛んでいてもよいはずなのですが、もう、その気配を感じることがないのが日本の自然破壊が進んでいる証拠ではないでしょうか。同じ農業に見えても昔とはまったく違う部分が多くなりすぎて、虫もつかない環境で作り上げられるきれいな野菜。

最近は空中防除というものも行われなくなりましたが、昔は、空から防虫剤をまいていた時代というのもあったので、害虫とされる以外のすべての虫などが絶滅してしまい、食物連鎖も成り立たない環境を作り出してしまいます。

自然の力というのは偉大だなあと思うことがあります。小さな樹脂製の部品を外に1年置いておくとぼろぼろになってしまっているのです。これが自然の力で、生命を育む一方で、生命の宿っていないものを朽ちさせ自然に戻す力を持っているのです。
2012年03月04日
今日は、朝から仕事をしていたのですが隣組の宿(宿といっても寝泊りするわけではなく懇談と食事会の場です)というのが当たっていて、3時半からは懇談会、5時から出荷に動いて6時半からは食事でした。食事の時にも村らしい話が出ていました。昔からの講と呼ばれる社もある活動の話がでるのですが、昔の人というのは何か事業をするためにみんなで集まって土地を買ったりしたようで、村の中にもいろいろな名前の講が存在していますが、今は年に一度食事をするような会になっています。

もともとどういういきさつで始まったのかというのもわからない部分もあったりするのですが、今の人はみんな逆に抜けたい人も多いとは思うものの、話を聞いていると昔はそういうのに所属することが村の中のつながりを広げる上でも大事だったようです。昔は、頼んで入れてもらったような組織が今は人集めに苦労しているというのは良く聞く話です。

隣組も7件が集まっても私が一番若いくらいなのですが、次の世代の人がこういうのに馴染んで行けるのかということは、自然に考えると難しいことだろうなあというのは、15年ほど昔でもというより、30年ほど昔の中学生のころから感じていたことです。神社の祭り行事なども人を集めるのが難しいというのも、全国的な問題ではあるかと思いますが、そのときに必要があってできた行事がどこかで引き継げなくなっていくというのは普通のことなのではないかと思います。

やる気がないならやらなければ良いだけで、それを無理やり続けようとすると本来の良い精神すらもがゆがんでしまうことも多いものです。そういうのを楽にできる時代もあって、一方でそういうのを楽にできない時代が来るのもその反動であったりするところで、状況を見極めて小さく長く続けていくような形を模索するのが大事ではないかと感じます。
2012年03月03日
今日は午前中に染色の打ち合わせを2回行って4月の生産に備えます。予定をしているご注文を予定通りに入れていただいた形で、全体的な4月末くらいまでの生産のスケジュールはほとんど埋まってしまった感じです。4月の中過ぎからは、来年の春夏に向けての見本つくりを本格的に行います。

今年どんなものを作るかというのは、半分くらいは頭の中にありますが、まだ未定なものも多いのですが、リネン100%で、10くらいの新しい取り組みをベースに色柄を含めて何十かの新しいハンガー見本を生み出すことになります。トータルな見た目の仕上がりの違いやエレガントさみたいなものがでればと思っています。

ものづくりというのは技術や技法的な部分が大事に思われるかもしれませんが、その部分というのは基本といえば基本で、大事なのは感性やテイストをしっかりもっているかだと思います。感性やテイストがあるから技術や技法的なものが必要になってくるのだと思います。

たとえば、織機を触りながらのさじ加減が必要だとは思います。色を打ってみて良い感じ悪い感じ、キバタを触ってもうちょっと厚くしようとか薄くしようとか、糸を触っても今回の糸は良いなあとか悪いなあとか、自分が一番良いなあと思うスタイルを積み重ねていくこと大事で、そうやって作り上げたものは、後から見ても他にはない自分らしい良いものに見えることが多いものです。

林与の場合は、オリジナルな生地をつくるという要素を持っていますので珍しいケースではあります。賃機屋さんと呼ばれるところは規格や材料を与えられてそれを織るのが仕事で、同じ機屋であってもものづくりのスタイルというものはまったく違います。ジャストインタイムな時代になり賃端屋さんや下請けか工業の方が廃業されていくケースが増え、インスタントでできるものづくりだけが生き残る時代ではあります。

先日も、全国チェーンの飲食店に行きますと、レトルトパックを電子レンジで加熱して器にもるという調理方法、生温いチゲ鍋だったので、もっと熱くしてほしいというと、電子レンジで再加熱、お熱いので注意してくださいといわれるものの、鍋すら30度もないほどまだまだ生ぬるい。迷うのは再度加熱してほしいと頼むかどうか。大手らしい素人でも電子レンジ一つで同じ味を作れる世界なのが空しいところです。
2012年03月02日
今日は、レピア織機の調整を新しい方に教えました。会社が人を増やすということは働く人が必要だからなのですが、人が増えると教える負担が増えるので余計に思い通りに物事が進まなくなるものです。でも、会社もそれを乗り越えることが大事で、その意味を教えてもらっている新しい人も理解しながら前向きに物事を吸収して早く一人前にならないと、というところです。

今、繊維業界では新たな人を育てることが難しくなっているのを感じます。新しい人を位置から育てることを考える以上に、世界で一番安く作れる場所を探したほうが手っ取り早いのです。日本の繊維産業の本質的な衰退の原因はそこにあるのだろうと思います。

新しい人を育てるためには失敗という要素が必要です。今の時代は失敗を嫌いますので、人が育たないといえるのです。一回の失敗というのは10回の仕事で取り返さないとならないことが多いもので、これは、完全に失敗といえなくても、ものづくりのセンスがなく売れないものを作ってしまった場合には、いくら仕事を正しくしていても基本失敗と同じ扱いで、10倍の仕事をしてその失敗をカバーする気持ちがないと駄目なのです。

私が仕事を始めたときに、サンプルをつくると「糸がもったいない」といわれました。がんばっていても挫かれるものですが、結果が伴わなければ当たり前のことです。今見ても結構面白いものが多いのですが、自分はそれなりに売れるものをつくるつもりが、なかなか簡単には売れるものがつくれません。そこで甘くされていても、負けていても駄目で、その失敗分をカバーするだけの通常の仕事を何倍もこなすことで取り戻せばよいのです。

毎日何倍かの仕事をこなせば一つの失敗分くらいは1週間で取り戻せますし、毎日何倍かの経験をすれば、たとえ数年であったとしても一生仕事を普通にした人以上のものが見えてきます。
2012年03月01日
今日は朝、出機さんから電話をいただいて、織機の修理で手を挟んでということでした。織機というのは本当に気をつけて動かさないと一回の失敗が取り返しのつかないことになります。

これは別のケースになりますが、特に危ないのが通常の仕事で1台の機械を二人で動かすことで、一人が糸切れを直して一人が動かすといのが一番危ないのです。初心者の人がやりがちなミスでそうやって仕事をすると楽しいのですが、一番危ないので、機械というのは一人で動かすのが原則です。

昔ながらの機織が危険かというと、今の織物は織機が大型化、高速化してより危険だったりします。不織布などの場合機械が爆発したなくなられたとかというような怖い話も聞くので、大手の工場さんの事故は原発もそうですが人が何人か亡くなっていても行政すらも普通に立ち入れないことも多いものです。

全自動化された工場ほど人の亡くなる確立は高くなってしまうのは当然のことです。JR西の脱線事故でも、技術者が130kmで安全に曲がれると言い切っていたのには驚きのことで、130kmであのカーブに突入したら脱線することすら考えないトップ、しかもATSがあれば大丈夫ということ自体、責任逃れで、大惨事は原発のように起こります。人の命をなくしておいて置石のせいにしたりと雪印以上のいい加減さ、国も絡んだ話なので命が軽んじられるのは解決法にしてもATSの設置に逃げて一般の国民からすれば心外なことだと思います。

原発の事故現場の収拾にしても安全だといわれて多くの日雇いの労働者が投入されていますが、国の絡んだ人命に関わる問題ですので、危ないなら危ないとしっかりと告知して人を集めていただきたいと思います。メルトダウンにしても、国、東電、さらには保安院で隠していたといわれて当然の失態、原発爆発直後の数値の異常なども隠され、メルトダウンしていないといっていたこと、人命すらも責任逃れのために軽んじられるのでは、チェルノブイリ以下の悪質な情報隠しだといわれても当然のことかと思います。

国が人の命の責任逃れの手本を出してしまっては駄目なのは、国や行政の絡んだ1企業のために国の人の命や健康に関する安全基準が10倍以上も変更されるというような恥ずかしいことで、普段きびしく指導している担当の責任逃れのために世界で一番安全基準のゆるい国であることを証明してしまったようなものです。

東電に勤めておられる方の身内の方からの又聞きではありますが、今回の東電の事故で、一流企業に勤めたはずの自分の人生が台無しになったというような信じられない言葉も飛び出していて、自分の会社が、たくさんの方に迷惑を掛けている被災者を思う気持ちすらないのも感じます。