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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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2017年9月
リネン日記:11
2017年09月30日
今日はなぜか焦っておられる電話が入ってカウンターが欲しいといわれるが目的が不明瞭で動くべきか動かざるべきに思うところ。結構、カウンターだけ取って他の会社の開発の参考見本に使ったりとどうしようもないタイプも多いから、そのあたりがお客さんが開発費用も掛けない競争相手であることも多く、繊維業界の難しいところ。自分で開発することもせず、パクルのが仕事なのに落ちてしまいすぎている繊維業界。でも、そういうところほど元気に大きな商売をされていたりして強かとしか言いようが無い。

以前も、他の方で、サンプルを渡すときには、こちらが一番心配しているのが2万円あたりまでの上代の洋服を販売されているので生地のお値段大丈夫ですかといっても、他で費用を薄めるから慣らせばこれもあれも大丈夫と20点以上サンプルを貸して欲しいと持っていかれて、結局、値段が無理だからという話で一つも決まらないとか。ネタ切れでネタ探しに、弊社にこられたのだろうがそういうスタイルの会社さんで、何十年も仕事されている方がそんな感じじゃ、若い子達も同じような感覚で機屋を漁ってしまうだろう。何十点も漁ってしまわれるのに、一つのマークも決められず。オリジナルはできませんかというお話で話が変わるとか、つくったらつくったで今度は見本だけで買わないとかも想像がついてしまって。

今は本当にそういうタイプのブランドさんが多く、国内の機屋は便利屋でしかすぎない。でも、わかるのは、百貨店でも店頭の上代が2万円程度のものが数量が流れる限界、そこからは数量がガクンと落ちる。そういう現実もしって仕事をしていないと自分の仕事を過大評価してうぬぼれだけで終わってしまう。問屋さんが昔と違って高い生地を売れない状況も良く分かり、昔と同じ感覚で生地を作り続けていたとしたら、ギャップは大きくなるばかり。昔以上に仕事に身を入れてやっていかないと何十年の経験であろうが昔ながらの仕事のペースで食べて行くのは難しいだろう。

お客さんは小さな仕事を求められ、下請けさんは大きな仕事が欲しい状況。下請け企業さんも小回りが利くと仕事はいろいろと拾えるのだが、下請け企業さんで見本を作るので食べて行けるところはないだろうし、小ロット生産も同じく人を抱えている会社さんでは難しい。人が多くなると小ロット生産が難しくなるというのもパラドックスに思えるけど分業体制の生産システムというのは大量生産型であることから。
2017年09月21日
麻糸には向きがあって、紡績を始めた側が頭で紡績の終わり側がお尻になるように、糸を扱うと一番織りやすい。厳密にはそこまで神経質にならなくてもよいのだが、織り難い織物を織ったり、毛羽や毛玉の問題を少しでも解決しようとすると、糸を扱うときに、向きまで気にすることになる。

一本糊付けで上がってきたいとは正しい方向で出てくるので、その糸を普通に糸を分割すると、糸の向きが逆方向で整経をすることになるので、今回は、一度、分割した糸をもう一度逆に巻き返してから、整経に使う。

ここまで神経質になる必要はほとんどないのだが、小幅の本麻の着尺なので1反のキズを最小限に抑えるためにも、糸の向きに注意を払いながら作業する。
2017年09月15日
今日は午前中お客様、生地商社のものづくり部門の方で、ものづくりを大事にしておられる話。私自身にとってはものづくりというのは自分が自分の体や時間を使ってリスクを背負って動く部分が多いのでという話。目指すところは今までにないような麻生地なのだが、私自身も今ある生地を探すのでなく、自分が新しい生地をつくる側なので、もっと面白いことをしたいというアイデアもいっぱいあるけど、糸を原料からから開発するとなると数百万から一千万を超える話になる。そういうのって大手の企画でも難しい話であるというのが現実。

今回、求めてくださるものは現実味のあるもので今までトライして実績もあるものと似ていて、もうちょっとブラッシュアップすればいけそうな感じでたぶん求めておられるようなものとして提案もできるだろう。ぎりぎりの世界というのを追い求めているので、それがニーズと合うのはよいところ。でも、専用の機から作り、織機を開発用に1台割り当てることになるのでひと仕事ではある。コンスタントに織れる織機をおいておくことが本生産やそれ専用の調整を加えてにもつながる。

林与も少数精鋭でいこうと考えているので数ヶ月先まで仕事ややらないといけないことを抱えながら人手が足りなく、普通の織物でも出来る人は少ないので限界に挑戦するようなところは私の余力があるかないかで決まる。糸は糊付けで10月はじめにあがり、整経に2日、機をつくるのに2日、糸をつなぐだけで3日必要だろう。筬を通すだけで丸々1日。目の前の生産をやりながら合間をみての長丁場のトライアルが始まる。今日はその開発ように特別なアイテムを発注用意した。
2017年09月14日
今日は、夕方から地元の同世代の社長と会う。林与もいろいろとアドバイスもらった方があったので、そういうアドバイスのいくつかを実践したことが、もちろんうまくいかなかったこともあったが経験として経営者としては一番大事なことだろうと思っている。迷っていずに行動みたいなところ。

海外のネットモールに何百万円つかったけど成果がゼロに近かったというのもお聞きした。よくある話だけどもそういうのも1回はやって失敗してみないと憧れだけが続いて現実がみられないとか、現実をしって夢のような話はないと割り切って、自分でできることを増やしてゆくというような形が私のスタイルなので、はちゃめちゃ話も交えながら遅くまで雑談。

その方のお姉さんとは同級生だったので、小学校の時にはその会社に工場見学に行ったこともあった。繊維関係というのは続いていたとしても、30年前の10分の1の規模になっているところがほとんどで存続してゆくのが難しい。働いている人の考えが変わることができれば、新しいことにも対応してゆけるのだろうけど、これしかできませんという程度の仕事なら、海外のほうが若い人たちが数日で覚えて日本の何倍もの生産性で、日本の職人さんとかもサラリーマンチックなリズムではまったく太刀打ちできないとかも多い。

ものづくり企業なんて競争相手は海外であることがほとんど、大手の日本の繊維企業も生産は海外企業でやって実質海外企業であるということもあり、そういう大手のやり方を真似ても難しいだろう。日本でやるならせめて一人の力が、海外の素人を集めたような何百人何千人企業の一人の力の何倍かくらいはないとと思うが、そういう意識からしても現場にないと難しいだろう。

ほかで働くなら簡単でも自分が事業を成り立たせるのは難しいのは、ほかで作るのは簡単でも自分で作るのは難しいと似ている。まあ、自分がやるのだから、事業も作るものもオリジナリティが生まれるのだろうし、あってよいだろうと思う。林与も、デザイナーさんやクリエイターさんに囲まれていてそういう皆さんに提案をしていくことも多いので、そういう人から見ても普通な提案や普通の会社というのは面白くなくって、自分なりに仕事をとことんのとことんやって乗り越えているうちに人間味の違いなんかも評価をしてもらえるようになろうかと思う。
2017年09月12日
いろんな仕事に追われている中、シャトル6号機も立ち上がり厚織りが順調かと思いきや、モーターが回らなくなる問題。モーターを交換して、モーターのVベルトも交換して、インバーターも交換しても駄目で、結局、クラッチレバーの加減を調整することで元に戻った。一つの原因を探すためにいくつもの探りをいれる、体力も使うけど、すべて短時間で試して、最終正しい答えにたどり着く必要がある。

レピアでキズが出て織れなかった60番手をシャトルに乗せ変えして、ほとんどキズもでることなく織れる様になった。結論として、まだややねちっこいので織る前の糸に問題があるように思える。原因は糊の問題だろうと思える。織物というのは織機が動けばよいというのではなく、糸という材料が問題のことも多い。2年ほど前は、筬が横糸を打ち込むときに横糸が打ち切れする問題で数ヶ月を要したことがある。調子のよい織機に掛けていって織れるように調整しようとするとその織機でも織れなく織機がガタガタになる。調子の良い織機が糸のせいでボロボロになる。

同じ規格の織物ばかりを織っているわけでもなく、織機に違う糸を掛けて織れないということがあったりするのが普通で、織機を調整して織れる状態に持っていく、太い糸と細い糸では、織ったときの糸の食い込みが違うので、太い糸の場合には多めに縦糸を送ってあげないと駄目だったりする。だから、同じ織機の状態で同じ織物を織れる様に、織る人の人数は少なくても織機は織物の縦の規格の数だけあるほうが良いと思うのが林与のスタイル。織るのがシビアな織物を織る場合には余計な調整が必要なのでそう思うのと、今は、カウンター見本、展示会、本生産となると半年くらいの間に3回同じ織物をつくるような話になるので、それなら1年中同じ織物を織れる様に放置したほうが生産の多様性を保つことが出来る。
2017年09月11日
リネンキッチンクロスHDの生地を織るために、久しぶりにシャトル6号台を使う。この織機が一番厚く織りやすいのでこの織機でいつも織るのだが、びっくり、10箇所以上も織り出すまでに調整が必要。織ってた人がこの織機の部品をほかの織機に使ってしまって歯抜けになってしまってて、動き出すまでに半日以上調整を掛ける。でも、なんとか動き出して思った以上に調子が良い。よかった。

こういうのが直線的にできなければ、注文を受けても困るだけ。中古の織機というのは、正しく動けば貴重なものなのだが、正しく動いて、正しい生地が織れなければどうしようもなく、そこには織機を正しく動くように修理や調整ができる力が必要。織り手が上手なら織機もどんどんと調子があがって行くが、下手な人が織機を使うと織機自体がボロボロになる。

極端な話、ねじ一つ大事にするかしないか。織機の何千回緩めて閉めようが、ねじ一つも一生ものというのが基本だけど。そういうのが分かっていないと1回でねじを壊してしまう。ねじ一つ閉めるのに加減があるので、そういう加減的な要素こそが人の技術なのだが、技術というと工程や技法だけと思われがち。同じ工程や技法を使おうが、それが長持ちして成り立たないと駄目で、こういう感覚に陥るのは、私が普通の職人ではない、場や仕事をつくる立場からだろう。だから、林与の生地の一番の特徴というのは、自分の工場で織っているという部分だったりする。

それが普通のことに思われがちだけど、それが一番大変なこと。よくサラリーマンちっくな考えで、技術なんてビデオで継承とか提案があるけど、大事なのはそこじゃない。そのビデオをみて技術を得た人に仕事を与えて養っていくとか、そういう人が働く設備を維持してゆくとか、の部分で、そういう提案する人がそれが出来るのかというと、部分しかみえていないだけの提案に過ぎない。そういう提案をされる方にねじ一つ、糸一つ結んでもらうと、それから無理な話だったりするもので、それを正しく上手に何百回何千回繰り返す現実的な部分は、ビデオの逆戻り再生ボタンを何百回間違わずに交互に押す作業と似ている。

織機も、素人でも動かせるように簡単なものに進化して、また、作業も分業化してシンプルにして、誰でも仕事ができるようにみえるけども、そういう世界は存在していて、それは大量生産型の安い世界を追い求めるそのもの。機械の力でできるので人件費の安い場所にもってゆくのが要素。人の力を無力化して莫大な設備で、ボタンを押せば飛び出してくる製品というのは勝ち組かもしれないが、量を売らないと成り立たないので逆に高級ラインは難しいだろう。

結局、面倒なことが嫌というのがチャンスの部分だったりして、険しい山を登る話で、もっと山が高ければよいのにと思える人が残れるのが現実的な仕事のできるタイプの人だろうと思う。自分でものをつくるだけでなく、ものをつくる機械もつくるとか出来るタイプの強い。意欲が大事で、1ヶ月、2ヶ月で何十年の職人さんを上回れるような人が今の時代だと必要。とことんやる覚悟があれば、それほど難しいことではない。
2017年09月10日
糸を巻くおじいさんのところに行ったついでに、多賀大社を久しぶりに訪れる。つなぐ通信で気になっていたカフェ「あさひや」さんにも立ち寄って、料亭のような和の雰囲気の間でコーヒーを飲み1時間ほど休憩した。境内の長寿そばも良いかもしれないけど、「あさひや」さんはカフェで一人1000円もあれば、気軽に立ち寄れるのだが、京都の祇園のお店より雰囲気があった。

境内の祈願のしゃもじを見ていると、小さな文字でぎっしりと具体的なお願い事を複数書いてあるものがあってその人の祈願の本気度が伝わってくる。境内の能舞台では8年ほど前になるだろうか、ファッションショーをさせていただいたことも思い出す。伊勢神宮が陽とすれば、多賀大社は陰、ひっそりとたたずむようなところが素敵である。

多賀大社の前に、駐車場があって、車を止めてもお気持ちをポストにいれてください、という駐車場。観光ビジネスと変わらない営利バリバリの観光地の神社やお寺とは違って、訪れてほしいという多賀大社を支える人々の気持ちも伝わってくる。
2017年09月08日
自分が手がけて育てたものというのは、別の価値を感じるもので、たとえば、自分が布を作るときに、自分の時間と労力を使うのに巷にあふれているようなその他大勢の部類のものをつくろうとは思わない。普通にみえるものでも、一つのスタイルを持っていて、妥協のないものづくりを考える。それは自分がものをつくる環境から作り上げて相当な時間と労力を使うから妥協したくないということがある。自分の中でそのもの自体のできあがり以外にも、それを作った背景があるから自分なりの価値を感じていたりする。

ほかから引っ張ってきたものには、自分が作ったときの苦労などはないから価値は商業的な価値が先に立ってしまうだろう。よく、生地のことに関して、どこの糸を使っていますか、という話になるけども、私にとってはそこは一番のポイントではないことが多い、一番大変なのは自分自身で生地をつくることのできる背景を維持していて、自分が生地を生み出しているところで、それなりに良い糸を使うことはチョイスの一つでしかない。

良い糸の定義にしてもほかの人が良い糸といおうが自分が使ってみて、糸の良し悪しを判断するのが一番大事だと思っていて、使って布になったときの、その味わいがよければ良い糸だなあと思う。リネン糸は同じ銘柄の糸を使っていても、年によってもロットによっても、毎回微妙に違うのが普通でそれを扱うことによって五感で感じる。糸以外の要素に染めという要素も入って織りやすさ織り難さが決まり、それを吸収して織り上げるのが今の麻機屋に必要となる技術だろう。横糸だけならよいけど、麻糸を縦糸に使うときには織りの問題が起こりやすいものである。

最初、まったく動かない状態から、何事もなかったかのように、何千本もの繊細な糸が織れ出すというのは、布という製品がどうというよりも、人間の本能的なものづくりの要素を引き出す崇高な儀式に近い。手織りは大変だといわれるけども手織りよりも何倍も大変だったりするのが、麻糸を縦糸に何千本も操る織り出すまでの毎回の作業で、それを淡々と人の力で解決してゆかないとならない。
2017年09月07日
今日は、朝から雨。梅雨のようなうっとうしさ、工場の中のほうがひんやりとしていて心地よい、めずらしい状況。こんな感じで思い出すのが、今年の2月のミラノの天気。連日、雨が降っていてうっとうしかった。アメリカに居たときには、世界で一番天気がよいといわれていたアーバインという砂漠気候の場所に住んでいて、年に3回くらいしか雨が降らず、連日エアコンの効いたような自然の中で太陽を楽しんだ。蒸し暑さがないので、晴れていても喉が渇く暑さ、屋外でペットボトルにいれた飲料を飲むのが心地よい。

でも思うのは、天候というのは、人の性格なども影響を及ぼすもので、いわゆる南国的な場所の人は楽天的でものごとを深く考えないといわれる。雪に閉ざされるような場所では織物が発達して、我慢強いライフスタイルが普通だったりする。緻密な織物が生まれるのは雪国や島だったりするものだ。近江湖東産地も村社会が生活の基本で、冬ともなれば完全に家の中に閉ざされてしまうような雪国っぽかったことが近江上布のような緻密な織物が発達したと思う。

この前の冬は何十年ぶりかの大雪で、車を動かすこともできずに、雪に閉じ込められたような冬だった。地球温暖化の流れはあると思う。滋賀県がというよりも、北海道が夏に30度を超えるというような状況で、これは40年前には考えられなかったこと。まあ、雪が降ったら降ったで、外に出て雪遊びをするというのが昔の光景だろう。暑くても外で虫取りに夢中になるとか子供ほど激しい環境で育っていたものである。
2017年09月03日
機能から調子よかったシャトル織機の1台の右側のクラッチの軸受けの辺りから異音。この織機は、2年ほど前に最初に動かしたときに、クラッチが切れずに、夜中勝手に動いて、縦糸が全部切れてしまっていた悪魔の台。あまりのダメージにその織機を部品取りにしようかと思ったけども、Vベルトを代えて、数箇所調整を加えて、ほかの台と同様に動くようにまでもってきて、つい先日まで安定的に動いてきた台。それが、クラッチに近いところで異音を出していて、今、掛かっている縦糸が全滅する可能性もあろうかと心配。

今日は、その織機に10回近い調整を掛けたが異音が収まらない。1日中いろいろやったけども、異音が収まらず。織ることができない状態で、異音がなっている状態で軸が回り続けると軸が削れてしまって修復不能になるか、クラッチを拾って勝手に動き出して、縦糸全滅とかが想定。織機を動かしても離れることも出来ず、異音対策。最後、油さしをクラッチのアナに思いっきり突っ込んだら、油さしがかなり奥まで突き抜けてびっくり。すると異音も収まって、今までの安定した状態に戻った。ゴミが使えていてクラッチが切れるのを悪さしていたのか。

10回の調整というのは、1回が30分から1時間掛かり、腕まで油にまみれてドロドロになって、腕から指先までを綺麗に洗って試運転をする。原因箇所が調整したところでなければ元に戻して、腕から指先までを綺麗にまた洗いなおして、試運転の繰り返し。ほかの織機も動かすことができないので、一番苦しい仕事をしているのだけども、仕事がまったく進んでいない状態で、仕事が出来ていないに等しい。

織機なんて、あってもそれがまともに動かないなら仕事をしていてもマイナスそのもの。まともに動いても正しいものがつくれなければマイナスそのもの。それがサービス業とは違うところで、ものづくりというのはそのものをつくる人の作業の正しさがものに現われ、正直だなあと思う。織機というのは正直。人というのは正直じゃないことが多く、いい加減な作業をするもの。本来人が素直で正直な作業ができれば機械を上回れるのだけども、人というのは面倒とか適当にやってしまうので、機械よりも劣ってしまう。

機械化されて人が機械を操ることが仕事になって、余計に仕事内容が行動になったのに、人の代わりに機械が仕事するみたいな感覚だと人の力というのは正しいものも作れないところに落ちてゆく。携帯のようなガジェットにしてにより身近になっているけども、自分がそのガジェットを使うのが目的というのではなく、ガジェットを活用して自分の目的を果たすということが必要だろうと思う。
2017年09月02日
数年前に、プリンターを使ってP下にプリントしたものが出てきてうまく出来ているなあと思った。それをプリントした当時は、出来上がりに満足できずにボツにしたものである。10年前の自分の写った写真を見ると、写真を撮った当時はあんまり良くないと思っていても、今見るといい感じというのもあるのと同じだろう。今、もうそういうものを再現する力がなくなってその力にあこがれてしまうのだろう。

周りにいろんなことが出来る状況だとそれが普通で価値を感じないことが多い。そういう価値観というのに気づいて蓄積してゆくことが大事なのだろうけど、そういうのを価値を見出せずに活用も出来ずに失ってしまって後であのときにやっておけば出来たのにとか思うこともいろいろとある。今よりも、将来が天然繊維の世界が技術的に進化しているのかといえば、劣化している可能性が高い。その一番の要因は、人という要素だろう。

恵まれるほどにどんどんと落ちてゆく。先進国ほど人の力が劣り、途上国の人のほうが働く力を持っていたりするもので、憧れと現実のギャップなども先進国の人のほうが大きく、特に日本が先進国の中では自殺率が高い傾向にあったりして、教育の前に正しい躾などがないとギャップに悩むことになるだろう。先進国の中では日本ほど生まれてくる子供に年金の問題を背負わせるほどばかげた国はなく、行政のメンタリティは落ちた途上国そのものになりつつある。

次の世代に自分たちのツケを回さずに成り立つ社会を目指すべきだろうと思うが、年配の方が多い会合などに行くと、年金にあこがれ、年金で支えてもらう話ばかりで、社会全体のことが考えられるお年寄りがいるのかというと自分のことで精一杯だろう。行政がそういう風に教育してしまったから、行政の人間の問題なのだろうが、次の世代に問題を先送りするような日本の行政感覚、モラルとしてはまったく正しくないが一人歩きして情けない。