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リネンや麻を織る日々をつづっています。
ホームリネン日記2017年12月
2017年12月
リネン日記:27
2017年12月31日
昨日から関東から女性の方が工場の中で作業経験。思うのは失敗してそれをリカバーできる力を身に付けてほしいというあたり。当たり障りのない作業をこなすのではなくて、精一杯やっても失敗があってそれを当たり前に乗り越えてゆけるような考え方や力を身に付けてもらいたい。

今できないことを後にできるようになるのではなくて、今できるようになる努力みたいなものができれば、どんどんといろんなことが自分の力で前に進んで行く。シャトルを挟んで縦糸が何十本切れてもそれを直して前に進んでゆく、それの繰り返しをする中で上達があるのだろうと思う。

自分ひとりで物事を前に進めてゆけるようになったら一人前、後で一人前になるよりも最初から一人前を目指す考えのほうが到達も早い。1人前目指さずに半人前目指して半人前になって、経験積んだ半人前が1人前になるのは至難の業だろう。
2017年12月30日
昨日の分の日記の続きです。染を自分でやろうと思ったのは5、6年前のことだったと思う。まず、草木染で再現をしたいなあと思って染料メーカーに相談したら染料店をご紹介くださって、染料店の方は、ボイラーなどの設備がないからやめときなさいという判断。それもプロのアドバイスなのでその代わりに京都の染屋さんの現場を使って染めることになった。

その年の6月に試作をしてもらって順調にひとつ仕事が入ったと思ったら、本生産となるとその方と連絡がつかなくなって、結局、染屋の大将を説得してその正月3日借りることにして自分で染めることにした。正月3日、タイムスの駐車場で寝泊りして、試作したものを自分の手で再現。その後は自分の家の中に染を持ち込んで量産をしたようなこともあって、最後は自分がやらないと駄目だということを悟るに至った。

自分でやると自分が何をやったかがはっきりとわかり、再現性に関しても自分でコントロールができる。外に頼んだときに再現性がうまくいかないのも良く分かるのである。データなどをしっかりと管理しないといけないのだが、職人という感覚の世界になると慣れと勘で仕事をするので、毎回のばらつきが出て当たり前なので、たとえば、試作より色が薄かったら、もうちょっと濃くなりませんかというとなんとでもできるという返答が帰ってくるけど、本生産を1回全滅させてもう一度作り直す話になる。職人というのは出たとこ勝負で責任が伴わないことが多いので再現性の要求される世界では通用しないことが多いのである。

職人の技が上達するとかはよほどその職人がその気になって研究を積み重ねないと難しいだろう。たとえば、どうしても急がないとならない話で、ある京都の染工場に麻の糸染を依頼したことがあったが、加工すると4色が4色とも3分の1の濃さに色が落ちてしまっている。麻は染めたことがあるので大丈夫だ、反応染料なのでフィックスなしでも大丈夫だと自信をもって返事をされていたが、糸で渡してもらったときには色はばっちり合っているのだが、色を合わせるために色を足して合わせてあるような状態で、50度での湯洗だという話。加工工場では70度くらいにあがるので、それをいってもらわないと困ると逆切れされてしまって、50度で湯洗されるという京都のひとつの染工場の技術というのもシルクと麻の技術の違いを知った。糸染めの反応染料の湯洗というと沸騰に近い90度以上のイメージを持っているけども、50度の湯洗を基本とされていると根本的な問題なので改善すら難しいだろう。昔は加工工場さんも90度以上で加工をされていたが、今は70度に落としてやられている。それは持ち込まれる反物の染めの技術が昔よりも落ちているから、90度でやると色落ちなどの問題が出てくるかららしい。

今は状況も変わって来ているが、昔の中国の染めなどは色落ちが激しかったといわれるが同じ問題なのか、あるいはコールドタイプのような水で染めることのできる直接染料とかで染めていた問題だろうなあと思える。水性絵の具にアクリル樹脂を混ぜたようなタイプのアイロンで色落ちをとめるタイプの染料もあったりするが、染や加工というのは同じに見えてもピンキリなので、麻は麻が得意な染工場、加工工場さんに依頼するのが経験や実績などからしても生地の見た目だけじゃないよさがあるだろう。あるいは、自社で生産から販売まで一貫してされているような工場さんだといろんな問題を経験されているので、機屋の抱える品質面での問題なども良く分かってくださる。テキスタイルメーカーがピンチに追い込まれることが織るということだけでなく、糸、染、加工などの外部要因に左右されることも多いのである。
2017年12月29日
今日は実質年度末で今日までお仕事されているところが多い。一年というのは春夏秋冬で、4月から始まるようなイメージがあるけども、旧暦だと2月くらいから始まるというのが一年の始まりで、ちょうど一番寒いときを過ぎて、春に向かうときが一年の始まりとなっているのだろう。子供のころから雪のイメージの1月に迎春というのは不思議だった部分であるが、中国の旧暦の正月という概念を日本も正月として受け入れているあたりなんだろうと思う。

子供のころに、でいに火鉢が置いてあったが、火鉢が暖める手のぬくもりを除いては部屋そのものも冷え切っていて、前栽は雪景色。部屋の中にいてもすごく寒かった冬を思い出す。そんななか外で雪で遊ぶのが子供。そういうのも一種の慣れだろう。工場のぬくもりで解けた屋根の雪が、1mくらいもある巨大なツララを何本も屋根からぶら下がっていて、それを折らないまま落としたい願望にかられていた小学生のころ、それが冬の楽しみのひとつであったのも思い出す。

昨年は今頃、収集がつかないほどに型染めのことばかりをやっていた。12月28日に染料などの手配が済んで年末と正月を使って、初めて本格的に染めることに没頭。基本の色出しから、昔の柄から型紙を作り80cmの幅のストールに仕上げる。頭の中では、小さな版をつくれば縦横の送りを何度もすれば、大きな柄となると思っていたけども、送る数が増えれば増えるほど乾くのを待たないといけないのと、型紙を洗ったり拭いたり、捺染枠も洗ったり拭いたりが増えるのが、本当に手間で、色数も4色で4版とかなると、ひとつの試作で、小さな版だと何十回もその作業の繰り返しとなったり。結論、大きな版でいくほうが綺麗に早くできるということにたどり着いた。そういうのはやってみないとわからないもので、見出した結果が全体像を変えてゆくことになる。

捺染台や適当な蒸し器がなかったので昨年は蒸し器を自作したり、単に刷るだけでなく、一切を自分の中でやれないと試作が完結しないので、自分自身がやってみて何がベストなのかを見出すために染めに関しては失敗の積み重ねであった。染がそこそこ上手にできるようになると今度は織りの工程に入ったが、染めた横糸をシャトルの管に巻き取る作業までがまた一苦労でそれもひとつ機械を作ってみたりした。ゴールデンウィークに二ノ宮とめ先生のアトリエで半日教えてもらったことを半年ほど染料や機材などの構想を練って発展させて自分ですべてできるかたちでの試作にたどり着いた。(つづく)
2017年12月28日
織物の毎回ゼロから立ち上げるような仕事なので、ゼロからでも動いて最後形にできるような力がないと、物だけでなく仕事としても成り立たない。そういう力は、企画力みたいなものに思われがちなのだが、実際問題としては、目の前の物事を自分で前に進めてゆける人が少ないというのが問題そのもの。それは技術とかじゃなくて、文化とか教育とかの部分だろう。

ある方とお話していたときに、今の人というのはマニュアル化して与えてあげないと作業ができないということをいわれていた。口伝えで自分がポイントをメモするができないというあたり学校の授業を思い出す。私がある工場にいたときも、メモとペンをいつももっていて教えてもらったことは必ず自分でメモしたものだが、マニュアル化したものを渡されないと作業ができないプロというのも本当にプロなのかという感がある。

マニュアルをつくることくらいはできるのが自分で何が正しいのかを知っている本当のプロなのだろうが、ゼロのときから学んでいく中で、そういうのを自分で作り上げてゆけるような姿勢がないと本当のプロにはなれないだろうなあと思う。言葉を言い換えれば、他の人を育ててゆくような立場にはなれないだろう。経験を積んでも育ててもらう子供スタイルのままなのだ。

ある大阪のソフトウェア開発の会社に在籍したときに、社員の人たちが仕事しているときにプログラミングを勉強中のアルバイトのものが仕事時間中に休憩場所でタバコを吸ってだべっていたり、それを他の社員たちは注意をしないのだがあるとき一人の人が現れて注意、私はすぐに社長だなと気がついたが、アルバイトの子達はそれに気がつかず、お前は誰だ、なんで文句をいうみたいな。社長も社長らしいのはしっかりと注意をするところさすがだなあと感じた。そういう社長の存在がなければ、人が集まってもたんなるだらしない集まりに終わる。
2017年12月26日
今日は神戸に納品のため東名を走るも吹田から尼崎が事故通行止で、茨木で降りて西宮まで下道を走って長旅になったが間に合った。織物を生産するのは張り詰めたところまでもっていって動くことが多い。車で数時間掛けて納品というのは運送会社に頼むか頼まないかの違いだけのことだとは思うので、追われているときには自分で納品したほうが時間的な問題をクリアできることが多い。

夜9時過ぎに戻ってから、デザイナーの子の猫たちとお別れ、半年前に保護された子猫を2匹譲ってもらったのだが、デザイナーが猫アレルギーが出てしまって、猫アレルギーに効く薬というものはないということで、残念なことなのだが新しい飼い主を探してもらうことに。

ボランティアでご夫婦で、捨てられたりした猫の飼い主探しの世話をされているお二人。本当にボランティアの気持ちだけで動いておられる方って居られるのだなあと実感するお二人、保護された子猫たちを自費で養って幸せな環境がみつかるまで守り、しっかりと引き渡すことを目的に動いておられる。仕事をされながら、今日は11時すぎまでこちらで引き取り帰られると1時くらいになるだろう。

私自身は仕事も責任をもってやるということは同じことなんだと思う。昔の人は自分のためではなく、自分が大事に思うほかの人のために働いた。私自身がこの仕事を他の仕事以上に大事に思うのも、多くの人々が大事にしてきた仕事で仕事らしい仕事だなあと思えるからである。また、自分の手で生み出してゆくという人々を幸せにできる一番の要素が詰まっている。責任を持って成し遂げないといけないというプレッシャーは常にあるがそれは仕事とすれば普通のことで、耐える部分こそが仕事で、その中に幸せがあったりもする。

30歳くらいのお二人だろうかボランティアの人たちも自分が働いたお金をつかってそうやって捨て猫捨て犬たちを守る社会をつくりあげて、社会の問題を解決しておられる。行政も解決手段がなく、最後は不幸な猫たちを殺してしまう結果になるのだが、この方々は、飼い主に猫に虚勢や避妊手術することを契約として課しておられるあたりも、行政やペットショップ以上に現実を踏まえた対応をされていて、いい加減なよい話だけでものごとを進められているのではない。

デザイナーのおうちに来られた友人などの皆さんが猫アレルギーであることが多い、一説には小さなころに免疫ができていないと、大人になってからアレルギー物質が一回体に入るとそれに反応する物質ができてしまい、次からは反応が過敏になってアレルギーとなるようだ。世の中が住みやすい環境になり、自然や動物に触れることが少なくなって、昔以上に良い環境だから人の耐性がなくなってきてしまっているという部分があるのだろう。こうなると動物が人が接することが難しくなる。

人が幸せになろうとすると、砂漠の中のオアシスを求めることになる。まさに地球温暖化の挙句の果て。私も留学時代にカリフォルニアのアーバインというところにいたが、カリフォルニア自体が砂漠に近い気候で、虫すらもが生きてゆけない土地、そこに水を引っ張ってきて、人々が暮らせるようになり、アメリカでも一番気候的に住みやすい一等地なのである。それが人々の求める理想社会で地球温暖化を危惧しながらも地球温暖化後の環境を求めているところもある。地球温暖化も求めているものそのもので、日常社会では雪が降らない住みやすい日本を求めるのが人の性みたいなものではないだろうか。
2017年12月25日
今、急ぎのリネンを織っていて、シャトル織機の中で動くときに異音がしていてときどきクラッチが離れなくなったり、横糸切れを感知しなかったりで、一番調子が悪かった一台。たまたま、その織機につなぐのが一番早かったのでそこにつないだところ、すごく心配していたのだが、前の仕事でかなり調整を加えたためか、すこぶる調子がよく、スピードを上げて織る。

通常はシャトル織機は1時間に1mから2m織れる程度なのだが、この台は急ぎのために回転をかなり上げてもついてきてくれている。ついているとしか言いようがない。しかし、調子に乗って、高速で織機を動かし続けることはよくない。いろんな部品に負担がかかり、何十年使える織機でも1週間で部品が磨耗してしまうとか、プラスチックのピッカーや革の部品が壊れるとか。また、シャトルも消耗が早くなる。急ぎの仕事だけ急いで元のスピードに戻してあげることが大事。ゆっくりと綺麗なキャッチボールをしているような状態が理想のスピードと考える。

一方、小幅を調子よく織っていた別の織機がなぜかスピードが遅くなる現象。スピードを上げてもシャトルを挟んでしまいそうなくらいに遅いので、インバーターを交換してみるが直らない。その状態で織っているとシャトルに初速が付かずに、シャトルを挟んでしまう現象が何回も起こって、縦糸切れなどで直すのに時間がかかるだけでなく織り上げる織物も品質がよくない。これは限界だろうと根本的な原因を一休さんする。クラッチの入りが甘いことが原因だろうと推測して調整を加える。元の状態に戻った。

ステッキの折れた織機がまだ止まったまま、他にもやらないといけない案件と急ぐ案件があって、後回し。今日も朝10時まで織機を直しながら織っていたので2時間休憩する。
2017年12月24日
シャトル織機のステッキが折れて交換。ステッキが折れる事態はそれほど珍しいことでもなく、ものには寿命があっていつか寿命が来ればすり減ったり折れたりして交換が必要になってくる。でも、今回のは織機の杼替えがうまくいかない不具合があって、それを気持ち悪いなあと、6箇所くらいの原因が推測されるので、順番に手を加えていた途中での出来事、ステッキがピッカーに当たる部分がすり減ってしまっていたので、裏表をひっくり返して取り付け、いざ出陣。再始動。

順調そうで、ヒガエが噛むこともなく、ステッキがすり減って、ピッカーの動きが悪くなったのが原因だったのだろうかと結論付けようかと思ったら、織っていた子が、ステッキが動かなくなったと。見に行くとステッキが根元で折れている。ギャー。このステッキはたぶん50年以上前のもので、ステートオブアートなのを、下手くそな修理で壊してしまった。

折れた原因は推測するに、減ったステッキに合わせて、ピッカーが当たるバッファーの革がたくさん入っていたので、すり減っていないステッキを使う時には、バッファーの革を減らしてあげないと、ステッキに負担が掛かってしまう。新しい葡萄酒は新しい革袋に入れなさいという高校時代に意味が理解できなかった聖書の文言が理解できた気がした。新しい部品は完璧であろうが、すり減った部品と合わせようとするときには、全体がうまく機能するためには、すり減った部品側をもとの新しい状態に戻してあげる必要がある。

私が思うのは、新しいばかりがよいのではなくて、ブドウジュースがぶどう酒に変わるように、新しいも新しいままでは駄目だという部分も、シャトル織機にも共通していて、ピッカーなんかは最初平べったい状態からシャトルの先が当たって、安定してシャトルを受け止められるように変化していく、ステッキも同じでピッカーのあたる部分が磨り減ることで安定してピッカーを送り出せるようになる。そしていずれも、磨り減ったりして交換が必要だが、部品なんかは交換が必要だが、人の場合には考え方や仕事の方法を変えることで対応できる。

2017年12月23日
職人というのは仕事しても食べていくのが難しい存在になってしまっていて、これは伝統工芸系の手織りでもそうだが動力織機でも同じこと。糸を巻いてくれるおじいさんは食べていけているのは職人というよりも親方だからだろ。生きるために仕事をする部分が強くその中で技術が磨かれていて、糸を巻くという単純な作業ながらも鉄板な感じ。

私も同じ作業を急いでいるときには林与の工場の中でやることもあるけども、おじいさんにやってもらうと生産性も品質も確実性も高い。頼れる存在なのである。割り切りももっておられて職人にありがちな驕りもなく、一生懸命にさせてもらいますという言葉を常にいわれる。外の世界をしっておられる親方だなあと思う。

中のものというのは仕事がいつもあるという錯覚があるので、仕事のありがたみなどもわからなくなることが多い。職人が食べていくのが難しいというのもそのあたりが関係していて、気を抜いてしまったら外にいる他の人に追い越されてしまっているのにも気がつかないことが多いものである。

経験をつんでも自分が他の人を養う親的な感覚になれず養われるのが当たり前の感覚だと外の世界も仕事も見えなくなるだろう。たとえでは、糸商さん、問屋さん、アパレルの会社におられた方が独立されるでも、独立したときに自分が会社にいたときと同じルールと感覚で仕事をされる方が多い。当たり前だがそうするとうまく行かないものである。何でその会社が小さくせざるおえなかったのかなども考えると自分ひとりで同じ感覚でやっても続くことは難しいだろう。

誰かが養ってくれるという職人的な錯覚が消えないと今の日本の繊維業界で残っていくのは難しいだろうなあと思う。私が知っている繊維業界の若い方々は、一人ですごく動かれている方が多いけども、自分ひとり食べていかれるのも精一杯なのだが、それをちゃんとやられていて若いときから親方感覚なのである。大変だろうなあと思うけど何でもできることはやってみるみたいなのがないと難しいだろう。みなさん自分の世界を作り上げて、すごく光っておられる。
2017年12月22日
私もこの仕事は20数年で、仕事がすごく上手な一人のかたに教えてもらったというより、その人の仕事の進め方を手本としたお陰で、整経の作業の他、他の仕事しておられるかたたちの仕事の準備と片付けをすることが多かった。自分が動いて仕事が前に進んで行くのが最初から当たり前で、苦手と言えばお客さん相手の部分だったろう。

今は、林与の話は、長すぎると言われる。普通のもの作りの話で終わらないし、普通の織物の人が避けるような修羅場続きだが、過ぎれば笑い話が多い。織物の会社を経営することでいろんなピンチとチャンスに恵まれている。

問題を起こさないようなもの作りが大事なのだろうが、問題が起きたときにリカバーできる力がちからが、実力じゃないのかと思う。失敗の経験も大事で、失敗してどうするのが正しい手順なのか自分で決めて行く。

織物の仕事なんて、自分がやるから仕事があるだけのことだと思う。仕事を大事に思い、前に進めて行かなければ他の人が進め、今ある仕事もその人から消えて行く。

2017年12月21日
今日は、晩御飯から帰って書類作成を終えてから夜中仕事、織、整経、糸分割、絣の横糸を作るを並行して行う。並行して行うのでそれぞれの作業のスピードは落ちるが、動きが止まらないので結局はたくさんの仕事の成果となる。書類関係の提出の問題がまだ残っているので、それを仕上げるための時間を見つけようとするがちょっと寝てそれは朝から。もう12月も数えるほどの日数しかない。

糸が染まりあがってきてもそれを仕事に持っていくためには、糸を分割して整経という作業を進めていかねばならないが、分割も、チーズワインダーという機械で、必要な大きさにカウントして分割する。その必要な大きさを計算するのも必須の仕事で、まず、縦と横それぞれに必要なその糸の量を計算し、1mに必要な糸の量が出てくる。染まった糸を縦横で全部使い切るなら、染糸の量÷1mに必要な量=染糸で織れる量が理論的には計算でき、その長さを整経のドラムが2.5mなので、2.5で割ると何回整経ができるのかが割り出せる。

縦糸の総本数割る、整経の1バンドの本数で、何バンドの整経となるか計算し、整経回数X何バンドX10が、チーズワインダーのカウントとなる。10をかけるのは、整経の荒巻ドラム1回2.5mとチーズワインダーの1回28cmの長さが10倍違うから、余裕を1割ほど見ている。

この計算は仕事するときに必須となるので、できるかできないかで自分が仕事するのか他の人に仕事してもらうのかが変わってくる。計算自体は小学生の算数に近いのだが、こういう計算ができる現場の人というのは稀なので、私が新しい人には最初に教える大事な計算なのである。私はいつも外の会社の人に頼まれて糸量の計算をするのも仕事のうちで、こういう計算ができる人というのは自分の仕事を進めてゆけるし、間違いなどにも気がつきやすい。

小学生中学生だとこういう計算問題スラスラとできないといけないのだろうけど、社会人でこういう計算がスラスラとできる人というのは稀であったりする。普段の織物作業でも、いろんな仕事をこなしてゆこうとすれば仕事の中で、面倒がらずに覚えて四則演算を活用できる必要がある。実際にこういう計算があたりまえにすることができると上手に仕事がこなせることになるのだが、日本の織物工場だとそれぞれの工場に一人いるかいないかで、その人が他の人の仕事の準備をすることになってのパンク状態。

そういうできる人がいても計算を間違えたりすると計算をできない人がちゃんと計算してよみたいなことをいったりするとかの笑い話もあったりで、仕事が上手に発展していくいかないは、そういう部分が大きい。昔の分業の時代と違って、今の仕事というのはこういうことがちゃんとできないとなかなか成り立たないのだが、それを実際に正しくやるなら仕事がある正しくできないなら仕事がないということにもつながる。地場産業が衰退していく原因のひとつが、こういう計算などを面倒がらずにできる人が地場産業には少ないことも要因のひとつだろう。

地場産業でも織物会社が製造をやめて企画会社として残る形が多いのも、現場では簡単な計算も働かず仕事が前に進まないとか、ちょっと難しい仕事は理解できないとか確認も働かず作業の間違も多発とか。製造をあきらめて他でつくる流れに移行するからだろう。地場産業の復興とも、面倒で嫌に思うことでも淡々とこなしてゆけるような人が必要なんだろうと感じる。昔は人は自分のために働くのではなく家族のために働いたので嫌なことでも我慢できたとかあるだろう。

ある作家の先生が知人の方から子供に絵を描いてほしいと頼まれて、1ヶ月掛けて絵を描かれ肩が上がらなくなってしまったと楽しそうに話しておられた。他の人のために働ける人は、仕事も卓越されたものがあって、普通の仕事の人が及ぶ領域ではない。若いときに自分から学びたいと弟子入りされた経験などお持ちで、そのときに恩をいただいたことなども感謝され大事にしておられて、能力も高く理想的な社会なんだろうと思う。そこまでたどり着くと仕事で食べて行かれるのも簡単なのだろうが、一つ一つの仕事に注ぎ込まれている力は普通の人以上であり、仕事じゃない普通の話を一緒にさせていただいていても他の人のために生きておられるのを感じる。それが自分の教える生徒さんだったり、被災地の方々のためであったり。人生観が仕事にもものづくりにも表れておられ、先生となられても看板商売じゃなく身を張られ新しいことにも打ち込んでおられる。

心のこもった良いものがうまれてくるのも当たり前に思える。林与の近江上布絣を広幅で再現するプロジェクトもその先生が染めの一通りの基本というか、その先生の普段の作業を、半日で私に享受くださって、私一人でも昔の近江上布を広幅で再現することがやればできるんじゃないかと実現に至った。技術やセンス云々よりも、一人の人としてその方はすごいのである。
2017年12月20日
昨日は糸屋さんが来られて、糸の話。かなりリネンの糸が織りにくくなっているとの話で、弊社が60番手を織れないので困ったが、同じ問題を他の方も抱えておられるようだ。この糸商さん以外も、ほかの糸商さんも同じようなトラブルを抱えられていて対策を練られたようである。昔の糸と比べると織り安さがぜんぜん違う。同じ銘柄でも昔の糸なら糊をつけてない糸でも今の2度糊した糸よりも織りやすい。

林与でも今年の1月くらいの糸から問題が生じ始めたので、たぶん昨年のフラックスの糸が総じて悪く、林与でも梃子摺っていてシャトル織りに切り替えているくらいだから、他のところもお手上げ状態だろう。ひとつの仕事がその機屋の他の仕事をすべてとめてしまうくらいに糸の問題というのは怖い。糸を用意しなおしたとしても次の糸は大丈夫ということはないから、今後の仕事を受けられる受けられないの判断すら難しくなる。

織れないとなると1mすらも綺麗に織るのが難しいというあたり、本来、何の問題もなく織れるものが織れない、レピアやシャトル織機のタイプによっては相当厳しい話になるだろう。また、2度糊してシャトルで織っても難しいのも経験したので、今の糊だと糸の問題は吸収しきれないかもと思える。織るたびにキズが止まらないようだと織ることもできず時間だけが経ってゆく、他の機屋さんもなんとか解決方法にたどり着いてもらいたい。
2017年12月19日
繊維関係の社長さんというのは、ババ抜きでババの居場所もわかっていながらババを自ら引いてその世界を作り上げておられる方々なんだなあと思う。ほかの人にはババは引けないからババを引けるものが社長になって世界をつくりあげておられ、その人がいるからその世界が成り立っているのを、テキスタイルマルシェの社長とか、地元の社長とか、取引先の社長とか見てて思う。

逆にいうとババを引けない人は、その道の世界を作り上げることはできず、業界の顔ともなれないのではないかというあたりだろう。意識高い系の職人さんたちが、かっこよい部分だけを自分の仕事にしようとして、ほかのババ的な部分はほかの人の仕事みたいな感覚でいると、仕事の本質にはたどり着かないし、その世界を作り上げることができないのもそこだろう。実際の仕事となるとそこにババがあるからそのババを引くところから始まる。引いたババを自分の手の中でどう解決するかが仕事。

仕事ではババを一生懸命に解決しようとするのに、欲に眩んでババのないところからババを生み出すもある。仕事が面倒だからとかいってやらなかったらババの大量生産につながるし、理想高い系の何もしないもババの解決ができるどころか量産につながるので、目の前のババを受け入れて、ババを引かないババ抜きみたいな理想仕事の話しても駄目だろう。

失敗は成功のもとというが、失敗を経験するも物事の本質をわかるために大事だし、失敗した苦境を自分の力で解決するのも仕事する力という意味では、仕事するために必要な姿勢であり、それができないと自分が仕事しているとはいえない。20年ほど前にある地元の織物の会社の若い社員さんが、その会社の飲み会の席で、その会社も若い人が多く恵まれているなあと思えたのに、会社はこうあるべきだ仕事はこうあるべきだと持論を展開されていたけど、目の前の仕事ひとつが逆に難しいのではないかと思えた。

今回、「ババ抜きのババ」という汚い言葉使っていますが、問題を解決してゆくのが仕事という意味で、私自身仕事に嫌なイメージや悪いイメージはありません。
2017年12月18日
1ヶ月ぶりに動かすシャトル織機が一台。今回の立ち上げは、エリちゃんがやって変な音がするというので見てほしいということ。動かすと変な音がしたので、油を差すところから。一ヶ月前までは調整を加えて問題なく動いていたのだが、久しぶりなのですべりの悪い箇所があるのだろう。数ヶ月前にシャトルを挟んだりを繰り返す状態だったのを問題のないように調整を加えて安定して織れるようにしたのだが1ヶ月放っておいたことで、それをぶり返したような感じ。

シャトルを叩くのが中途半端だと反対側で叩くタイミングでシャトルが正しい位置になく、遅れて叩いてしまうとシャトルを挟んだり、シャトルが飛んだり。無理に動かすと何百本切れてしまうこともありがちで、縦糸切れを直すだけで1日仕事になる。原因が何なのか、私にとっては油が足りない問題と、ソウコウ枠の高さが若干高い気がするのでそれを下げた。あと、ピッカーを通す金属の2本の棒が汚れていてすべりが悪いので、油のついた布で拭いてきれいな布で乾拭きした。また、ピッカーバンドが消耗して若干長くなってきたので少し短く調整。動かしているうちにだんだんと油も回ってきた感じで、重そうな音もしなくなった。

いろんなところの不具合を取り除いて横糸を交換するだけの仕事に落とし込めると後は楽器が自動演奏するかのように織物が織れてゆく。そうなると織れるのを見ていて楽しいくらいである。少し気がかりだったのは糊が若干甘めであること。レピア織機ではキズになりやすく織れなかったのをシャトル織機で織れるようにして仕事として成り立たせる。問題なく織れなければ、その仕事ができないだけでなく、次の仕事も同じ問題で苦しむことになり仕事を受注することがリスクが高すぎて難しくなる。今の状態でも解決方法があるのが幸いである。
2017年12月17日
3.11で思い出すのが東電内部でテレビ電話でのやりとり、福島原発の所長が日本国民何百万の健康に関わる問題で、緊急時にバッテリーひとつの予算を本社とやりとり、何百万人の命と健康が、絶対安心とされた何十兆もうごく原発行政では100万円の予算も命が関わってても許可が必要で時間をロスしている。福島の所長でも100万円の金も自費で出せないサラリーマンクラスが日本の原発行政を絶対安全と牛耳っている。ヒーローにみえる彼でも駄目男そのもの。素人のほうが正しい判断できるだろう。

人が何人しぬかも分からない原発爆発のときにも、何十万かの予算を本社に認可いただかないと人の命の危機を預かっている覚悟すらない原発マニュアルと思考回路。大川小学校の山に逃げなかった避難と被る。川を逆流する大津波が押し寄せている情報がなぜ小学校に伝わらず50分も校庭で待機とか。マニュアルどおりでしんだから仕方ないでは報われないだろう。情報をつかさどるものが情報伝達もしなかった罪は重い。消防士たちは死者は少ないが、自警団員が水門を閉める作業で200人ほどなくなったが、川が大逆流しているのにマニュアルにしばられて逃げられない立場の自警団員。水門を閉めたくらいではまったく駄目だ、逃げろという判断を消防署も伝えなかったのか。自警団員を集めることはできたのだから、それを仕切る行政が正しい情報を与えて自警団員を逃がしてあげろよと思う。水門を閉めるマニュアルがあったならボランティアであろうが逃げたら叩かれるから水が迫ってきても命を掛けて水門を閉めないとならない。命を優先するようなマニュアルや対応を行政というものはできないものか。国がメルトダウンや放射能漏れを隠すくらいだから国民の命はゴミでしかないレベルが国のトップの考え。

国民の命よりも原子炉が使えなくなることを優先し、海水をまかずに、原子炉をメルトダウンさせて、その尻拭いまで国民にさせてへっちゃらな、東電。今後も人の命すらも軽んじられるなら、今回は設計ミスとされる地下水漏れで神の加護で日本が救われたが、次は、チェルノブイリの惨事となるだろうの日本の原発行政のレベル。人の命がかかっているときに10とか100万とかのバッテリーの予算を申請、許可で、時間を使ってしまっていて、ヒーローされている福島の所長でも一般企業からすれば馬鹿そのもので、その人の命すらも軽んじて予算に時間使う過失だけでも民間企業なら犯罪企業として倒産が当たり前。まあ、今だけの問題をお越しながらも原発やめると電気代上がりますよと、脅してくるレベルなのだから、原発行政というのは人の生活を脅かすテロで、人の命を金に買えているような怖さがある。

途上国かと思うような、脅しすらもあって、原発ありきで日本の電力行政が動いているのは東芝がつぶれるのも日本の原発行政の毒の表れだろう。人の命よりも自分のカネのほうが大事という連中が多すぎて、なぜ日本人の命と海水を掛けると原子炉が使えなくなりもったいないのを天秤に掛けて、海水を注入せずにメルトダウンを引き起こして、放射能の大量漏れと、さらには、チェルノブイリ以下の放射能漏れを国民に隠匿。逮捕されないかも不思議なくらい。笑って失礼だが、友達オペレーションの米軍から訴えられるとか。人間じゃないレベルが原発推進で放射能漏れすら隠匿。

これが日本の行政の現実で、日本人の命というのは、何十万人の命に関わることでも、100万円にも満たない予算の申請と認可が通らないと難しい。一人当たりの命や健康の危機回避の判断が100万円未満に許認可が必要で時間を使って、ほんと素人が遊びでやっているレベル。安全な場所にいる東電の人たち、その反対に、水蒸気爆発だと放射能漏れまで国と東電に隠匿され、水なんかも飲んでしまっている周辺住民。

原発の放射能の問題も、海に流すしか解決方法なんてないのに、今になって方向転換で海に流すことに。放射能汚染土は全国に拡散するような馬鹿げた国の対応。利権が絡んで問題を大きくしてしまっているだけの原発行政。その電力会社の考えは変わらずに今も生きている。もし、地下水から放射能が海に流れ出なければ放射能濃度が高すぎて作業もできないチェルノブイリの半分くらいの福島の石棺化問題が発生していた。石棺化に際してはチェルノブイリのように何千人と作業する人がしぬことになっただろう。たまたま今回地下から放射能が海に流出して神がいただけのこと。次も神が居て人々を救ってくれるのか。
2017年12月16日
昨日、リネン100番手2度糊をチーズアップしてくれるおじいさんのところに持っていったら、以前、巻いてもらったときの苦悩が蘇ったのか、あまり良い返事がもらえず、これはまたピンチ。一つのチーズワインダーはプーリーがうまく働かず高速で、リネンの100番を巻くのは難しいらしい。

そこで、今日は、夕方に会社に余っていたインバーターを設定した。おじいさんのチーズワインダーにインバーターを取り付けて、回転スピードの調整をできるようにする。夕方5時半に行って取り付けて試運転もうまく行き7時に会社に戻る。おじいさんも喜んでくれて、糸に応じたスピード調節ができるようになっただけでなく、枷の枠に巻いた糸をセットしたまま運転と停止ができるようになったことで、全部糸をセットして運転にいれることも可能。途中の休みのときも停止ボタンを押すだけでセットされたままスタートボタンで再開できる状態で停止できる。

リネン100番手も数日で巻き上げてもらえそうで林与としてもありがたいのである。おじいさんも最近は腰が痛くてカイロを腰に2つ貼って作業をされているとのことで、糸切れせずにほかの作業をしながらゆっくりと自動に放っておいて巻き上がるようだと巻いてもらうのに負担もかからずに頼みやすい。
2017年12月15日
今日は岐阜に納品に行く予定だったが1日早くあげてもらえたことで昨日出荷でき、工場内の作業に時間を使うことができた。助かった案件である。昨日は夜からレピア織機の横糸の調子が悪いのでテンサーを交換した。横糸の調子がどのくらいが最適なのかを手で感じることができるのとできないのとでは大きな違いがあって、何が正しいのかが感覚的にわからないと仕事はうまくいかないだろう。

麻糸の特徴は切れやすいことだが、いかに切れやすい麻糸を上手に使いこなせるか。林与が冗談でいうのが、私に整経させたら世界で三本の指に入るということ。整経の作業は2年ほど毎日やっていたので。最初の1週間ほどで作業の流れ自体はマスターできるだろうが、細番手の麻の場合にはビームへの巻取りが切れるので難しい。先染の場合には色によって微妙なテンション差があったりする、また、綿ボイルとの交織なども筬通しの密度の均等化などの問題なども一般の現場の人では糸番手の計算をすることができないので解決できないことが多い。

四則演算でできるのだが、それをできる人というのはまれである。工場長をやってもらっていた叔父さんでも糸量の計算は、実際織ってみて、一反で何キロ糸を使ったかということで覚えていた。このあたりが感覚でものごとをする職人的なのだが与えられた作業はできても、自分で仕事を生み出してゆくことができない限界につながる。私自身は何万回と面倒がらずに糸量を計算してきたが、現場の人というのは本当に苦手で誰かがやってくれるという前提がある。

現実、計算ミスがあると大きな問題となるので、正確に計算をこなせないと駄目で、計算をする人間は決まってしまう。こういう計算ができると正確な数字だけでなく、ロスなどの見込みもできるようになり、一つの企画のロス率だけでなく、仕事全体の問題なども見えてくることになるのだが、繊維業界全体を見ても、1+1=2という計算ばかりで、現実は、2のものをつくろうとすると、各工程で20%の原材料のロスが出ると、1.2+1.2=2なのである。これで、1.2+1.2=2.2などの物ができたときに2でないと駄目という卸のお客さんと2.2でOKという卸のお客さんでは、同じ商品でも値段が違って当たり前ということになる。

同じ生地でも完璧を求められると値段は1.5倍から3倍になるだろうし、アバウトでOKだと値段は落とせることになる。値段を決めるのが難しいのは仕事の前に値段を決めないとならないので、そのお客様のもっておられるチームの柔軟性なども値段を決めるときに左右される。問題解決能力があるお客さんだと値段を下げることができるし、問題解決能力がないお客さんだと値段は上がる。

問題解決能力があるお客さんだとすべての布を提案できるが、問題解決能力がないお客さんだと安全な普通の布しか提案できないということにつながる。海外の生地がデザイン性や創造性があり、日本の生地が無難なものしかつくれないのも、日本では生地の段階で問題を解決した生地しか流しにくいというところだろう。海外のテキスタイルデザインのようなものを作れないことはないがそれを使えるアパレルが日本にあるのかというと、検査の数値が重要視されるので没になる。結局、日本の繊維業界では無難なものがほとんどを占めることになる。

ファッションというあたりも含めると日本の繊維業界が後追いになってしまうのも、海外の商品には規制がなくても、日本製に対してはいろんな規制があるからだったりする。狂牛病の全頭検査を国内業者には強いて、狂牛病が発生したアメリカ牛は統計的に10万分の1だから大丈夫とかいうダブルスタンダードの内弁慶な日本スタイルと被る。
2017年12月14日
今日はシルクの整経。林与のシルクは幻のカネボウシルクを使っている。カネボウシルクといっても国産ではないのだが、10年前にカネボウが破綻したときに、もう良いものが作れなくなると思い、糸商さん数社に依頼して日本中のカネボウシルクの在庫を探してもらって、全部で1トンくらいのカネボウシルクの200番双糸が集まった。箱にすると30kg入りで、十数箱で、畳1畳の上に4箱X2箱の2段積みくらいだが、当時1kgがAAAの糸でガス焼生糸。それで500万円ほどの在庫になる。

織る前の糸というだけでなく、染色前の段階で、小さな織物工場がものづくりを守るためには当たり前に畳一畳に乗る程度の糸に500万円とか糸につぎ込む。糸にお金をつぎ込み、お金を糸に変えるのは馬鹿にされることも多い。でも、良い糸というのはもう手に入らないというのをよくしっている。林与もおじいさんの代からの手績みの糸を使う機会もなくそのままにしているが、江戸時代のものづくりを残そうとお爺さんが、戦争で麻織物が禁止されたときに、集めまくった近江上布用の良質の手績み糸。損得じゃなくて、ものづくりを残すためには、そのたびに家が買えるほどのお金をつぎこまないと無理な話。

世界的にも幻の糸を使えるのが、林与から生まれるのもそこで、アイリッシュリネンでも再現しようとして世界的な著名ブランドが動いたが無理な世界を、100年以上前の江戸時代の日本のものづくりの世界を残すためには、自分の命を捨てる覚悟ある。日本国内は国内最高峰の伝統工芸も林与的には軽くなりすぎて、麻の先生とされる方にでも、真剣に覚悟決めてやりませんかという話で、一千万の投資をされた方を同じくらいの覚悟があるのかと見初めて支援したい気分。日本や世界を動かすためには一人の人間が何億の覚悟が必要なのが逃げないで背負える人は本当に少ないのが、日本のものづくりが十万とかでも覚悟がないサラリーマンでは本当に駄目と思う。

林与が小さくても世界一な部分は、麻織物の世界で一番名ものづくりを貫きたいという覚悟、イギリスやイタリアのNO1が麻においては林与のものづくりを世界のものづくりの見本や手本にしてもらうのもそのあたり、世界でも林与以外に数社しかない。薄っぺらさは人間性の違いで規模の大小じゃなく、世界的に有名なところにでも駄目出ししてしまうのが、林与の麻の世界の本質で、イタリアでの一番の企業がサンプル請求ばかりで返答もせずだらしないので一番駄目な奴そのもの。

世界手ににも有名で日本でも一番くらいに有名なイタリアの会社さん。日本で一番小さいクラスの機屋が世界で一番有名なテキスタイルメーカーの方に、林与のようた小さな会社が駄目出しとかは厳しすぎるがそれが繊維の世界。いつも私がZ社の人ですかとイタリアのウールやリネンの最高峰が商売になるかならないかのレベルで見にこられても残念なのは、イタリアの最高峰が本当のものづくりの覚悟もないのをやり取りのなかで実感してしまっているから。イギリスのリネンの最高峰だろう企業がある方の紹介で林与のものづくりをブースに丁寧に見ても良いですですかから始まって評価してくださり、業者同士だとあるべき形をイギリスの業者さんが当たり前にされたのは本当の紳士淑女の世界なんだと思って怖いくらい。いつか紹介くださったM社のものづくりにおいては紳士中の紳士であるその方に林与の最高のものづくりを見てもらいたいなと思う気持ちとそれができない申し訳なさでいっぱい。フランスのD者のトップの方も近江上布には関心をもってくださりそれができないのかとお尋ねくださり、日本の本当の伝統工芸の世界で難しいですと残念な答え。私自身ヨーロッパのデザイナーが特別なものを探されているときに、林与の近江上布アーカイブには、日本の数百年のものづくりが詰まっていて、今の繊維の世界では世界中探しても超えることができないのを感じられるのだろう。

わたしは、本当にものづくりの覚悟を決めたものづくりがわからなけらばそれぞれの国のNO1企業かたでも接点がないと終わる。英国NO1と紹介いただいたアパレルリネン企業は本当に紳士淑女でおられて、申し訳ない気分。英国でも著名なブランドデザイナーの紳士そのものの方に紹介されて見に来てくださった、本当にありがたい世界で、林与というか私が日本の織物文化守るときに残しておかないとおもうのは、損得じゃなく、自分ひとりでも日本の織物の価値観を分かり績み出し、守りたいと思った。

そういうのが麻織物の世界で残っているのが、地元では野々捨の世界や林与の世界、林与も本気だった同業者である野々捨の保証人もうけてそれを恩義におもって若造の私を盛り上げようと野々捨さん。必至なもの同士が運命共同体になれれば思ったが、あれは駄目これは駄目が買ってしまうのが地場産業。よしお君よお、朝起きるとへそが痛いとかわけの分からない話。朝立ちでへそに当たっていたいとか、すべてががちがちに固まって身動きがとれない状況をウィットで和らげようとする野々野の優しさがあった私の20代のころ。自分の家族を養うために必至であるべきだという商売の基本を教えていただいたのが野々捨さん。いろいろとやれれていたのも生きてゆくため、家族を養ってゆくために試行錯誤されていたということが私は本当に分かる。そういうものがものづくりから消えてしまっているのが、今の無味乾燥なものづくりの世界で、海外に追い越されてしまうのもそれが理由だろうと思う。
2017年12月11日
2月のミラノウニカ行きの航空券をネットで購入した。フィンランド航空で、直行便に近く14時間ちょっとでイタリアマルペンサに到着する大阪からは最短の便、11万円でそれほど高くない。昨年のミラノは滞在中はずっと霧と小雨で、典型的なミラノの2月の気候。今年は素敵にお願いしたい。今回泊るホテルは会場から離れて毎日会場に通うことになるけども、それもまた新しい経験で楽しいかもである。

今日の林与周辺の天気は風が強くて寒い、雪が水曜日くらいから降るような話も流れていて、夜などは3度とかで雪が降ってもおかしくないくらいに冷え始めた。林与の予測では昨年が子供のとき以来の大雪だったので、今年は例年のように雪はあまり降らないと予想。雪が降って雪に包まれたうが織物は織りやすいのだが、工場と事務所の10メートルを歩くのも気を使う大変さがある。雪に包まれると本当に寒く、そこそこ広い工場なので寒さで作業がしづらくなる。

今年のお正月も作業は続くのだが、体験で年末年始、一度会社で縦糸つなぎの経験のある方が一人来てくださることになり、実際の作業を経験してもらいながら織物の仕事がどんなことかを覚えてもらう。時間を掛けてじっくりと正しい答えまでたどり着け、仕事として形になるのでありがたい。ものづくりにあこがれるのと実際に自分が作業をするのとではまったく別世界であることが多いが、昔は特別でもなんでもなかった織物の仕事が、今の時代には難しい仕事となってしまたのはパラドックスの一つである。

エアチケットも確保でき、今年もイタリアに行けるのは楽しみである。
2017年12月10日
一つの仕事の出荷が今日で完了。遅れないように平行して仕事を進めようとしても動いていても何かトラブルがあると、その対応というのはその仕事で時間を使ってしまうとほかの仕事が遅れが出る。今の時代の織物の仕事というのは並行して作業ができないと駄目なところが大変なところで、少しの開いた時間を有効に別の仕事に使える人でないと成り立たせるのは難しいだろう。

私が織物の仕事に就いたときに一番初めに大事だなあと思ったのが、自分が問題から逃げずに解決するために動くこと。織機の問題があれば、織機の下にもぐれないと駄目なのだが、それは当たり前に自分が今でも動くから仕事ができるのだろうとおもう。仕事に入ったときに一人の従業員の方がいろいろと動けることを動いて会社を支えられていてその方に仕事を教わったのが幸いであった。

昔ながらの織物の仕事のスタイルというのは、一流企業的なのだがそれが長持ちしないスタイルであるのもどの国のどの製造業の業種にもほぼ当てはまる話で、ものは世界中を動くので一番上手につくれないと生き残れない厳しさがあろう。一番上手とは効率性をもとめるものに偏るでなく、非効率なものをどれだけ効率よく生み出すかが先進国らしい効率的な生産だろう。

ものづくりの原点に近い生産だけでなく材料から販売までの広範囲な職域が求められ、生産をいくらがんばっていても、材料や販売がスムーズでないと成り立たない今日らしいスタイルだろう。良いものをつくればつくるほど売るのも逆に苦労する。リネンの150番手の織物というのは、カシミヤの何万倍も希少で糸も高いのだがあまりにもレアすぎて市場がないに近い世界で評価は低かったりするものである。実際に織るのが難しすぎて糸の希少性だけでなく、織りにくい事情からも流れ難い。
2017年12月09日
冬場のナチュラル仕上げは、太陽の光が当たりにくく気温も低いので天日干しがなかなか厳しくて、春夏物の生産時期なのに冬場の生産は厳しい事情があったりで早めに9月に仕事をいただけて本当にありがたかったなあと思える。

織物で、オーガニックリネンの糸なども、全世界で一年にコンテナ数本程度しか流れていないような糸で、世界中に糸の在庫も少なく入手から困難で数千メートルの量をつくろうとしても世界中の糸の在庫を探す話からとかでこれも外部要因の一つだろう。

最近は織れないことも増えていて、実際、リネンの糸の強度は極端に落ちてきているのを感じる。以前は、150番手の糸でも糊をつけずに織ったりもしていたが、今では、100番手だけでなく、60番手クラスの糸が糊をつけないと難しくなってきている。リネンの世界的な需要は旺盛なもののそれに見合うだけの原料が足りていないのであろう。

リネンというのは農作物なので、豊作の年には品質もよく安い、逆に不作の年には品質も落ちるのに高くなる。1960年の後半に原料となるフラックスの不作でアイリッシュリネンが壊滅状態に陥ったのも天候が左右したからだろう。一年掛けて植えたものが実らずで、紡績もうまくいかず、織ることもうまくおれず、次の年も回復するかどうかも分からない状況ではやめるしかなかったであろう。