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リネンや麻を織る日々をつづっています。
ホームリネン日記2019年3月
2019年3月
リネン日記:14
2019年03月28日
日本のオーガニックレベルの問題として、オーガニックコットンを推進する立場のものでも、枯葉剤を使用しているコットン畑の画像をバックに、I support organic cotton.というのは、一般レベルとしても厳しい話じゃないのかと思う。あまりにずさんなので私が指摘したが、指摘からもそのまま、本質的にそれが日本のオーガニックの難しい問題なんだろうと思う。でもそれがありがちで、理想と現実はことなりイメージだけでオーガニックの世界をつくってしまう。オーガニックというのは自身の厳しさがないと消費者騙しになり守れない世界なので、オーガニックを推進する専門家ならしっかりとそのあたり考えて欲しい。

オーガニックコットンの畑の場合でも、大体が、この手の画像の使用が多い。なぜ、綿花がすべて咲いたような畑の画像がオーガニックコットンのPRに使われるのかという問題。偽装のはじまりがそういうところにある。肥料や、雑草、防虫対策をしないといけないのに、人の通路も無い人の手がまったくかかっていないような敷き詰められたようなオーガニックコットン畑の画像が多いのである。国ごとの基準という問題の多いあたりにたどり着き、カンニングすればよいだけにたどり着いてしまっているのではないのかと、繊維業界でのありがちなことを心配する。国家レベルの基準ほど偽装は普通だから。
2019年03月16日
オーガニックな製品は大量生産しても地球環境を守ることができるのかというと、大量消費社会というのはもともと地球環境には悪いことで、オーガニック製品でもそれに当てはまる。たとえば、地下水の問題、農業というのは水を大量に必要とするので、マシンピックトのオーガニックコットンは、基本雨の少ない乾燥した地域で栽培されるために、地下水を大量に消費する。地下水が枯れてしまう問題があり、あと30年とか50年でマシンピックトなオーガニックコットンの栽培を支えている地下水が、農業には使えなくなる可能性が高い。飲料水が優先されるべきだろうから。

雨の多い地域は農業用に地下水をくみ上げる必要がない場合が多く、でもオーガニックコットンは雨に濡れるのを避けるために、コットンボールがはじけるごとにハンドピックトされる必要がある。50年後とか将来的に残るオーガニックコットンは、ハンドピックトなオーガニックコットンではなかろうかと思う。オーガニックコットンでも価格競争力の強いマシンピックされる大量生産型は、その地域の水資源環境の危機を招き、地盤沈下も著しいところが多い。

市場に流れるオーガニックコットンの多くは大量消費型で、乾燥した雨の降らない地域に植えられ、マシンピックされコスト的に優位であり、大量に市場に流れるのだが、水資源の面ではサステイナブルではない要素が大きく、雨のよく降る地域でハンドピックされるオーガニックコットンは人の手間が掛かるので高くつき市場には流れ難いが、より地球環境の面ではサステイナブルという側面があるだろう。

私自身、使い捨て文化が地球環境を破壊する元凶ではないかと考えているので、普通のオーガニックじゃないものでも、長く使えば地球環境を守ることに貢献できるのである。次々に大量に消費するとオーガニックプロダクトであろうが地球環境には良くない可能性が高い。

オーガニック基準があるため、害虫の少ない地域とか、カビの生え難い普通は不毛の地域を選んで、地下水でオーガニックというのが大量生産型オーガニックのスタイルだが、普通の使える製品を捨ててオーガニック製品に切り替えるより、普通の使える製品を大事に使ってから、オーガニック製品に切り替えることがエコなんじゃないかと思える部分。手ごろに手に入る大量生産型のオーガニックアイテムも多いが、長く使うことが地球環境の保全につながる。

スーパーのビニール袋にしてもあれを普通のゴミ袋として使うだけでかなり資源の無駄がなくなるのに、行政というのは新品の指定のゴミ袋をゴミを捨てるのに使わせるとかも改善できないものかと思う。有料になったスーパーのビニール袋でも市町村の回収のごみ袋としても使えるような統一基準をつくるとかすればよいのにと思うのだ。

ジャストインタイムのような、無駄の無い理想的に思える生産システムが、エコではないという問題。自分の仕事の中でも、在庫を持って資源の浪費を節約するよう改善していかないといけないなあと思うところは多い。大手の自動車メーカーが納品時刻にぴったり納品させるために駐車場も用意しておらず、工場周囲をぐるぐる走らせるとか、むちゃくちゃなエネルギーの無駄。低燃費を謳う自動車メーカーが、自分の会社に納品させる商品を届けるトラックを無駄に走らせ、自己基準に従わせるだけのエコ意識とか駄目だと思う。繊維でも大量注文を見せかけて値段を下げさせながら、下請け企業に在庫もたせていつまでも在庫を買取しないという商法で繊維業界でも元気な大手問屋さんがあったけど、そんな手法で年収1億円の社員つくっても誉められた話ではない。
2019年03月15日
児童労働というと悪いことのように思われるかもしれないけれども、インドのオーガニックにしても子供の頃から作業をすることで、世界で一番注目を浴びるインドのオーガニックの世界が出来上がっている。子供の頃から作業することをしなくなれば、大人になって作業しろとかいっても、ミミズや牛の糞を触ることすら拒絶反応が出てくるだろう。日本でも学校教育が普及すると農業や労働集約型の産業は廃れ、どちらかとうとハイテクとかサービス、特許とか認証とかの世界に移って、実際の現場の作業を低く見てしまう傾向になるだろうけど、大学で勉強する以上に高度な農法に子供のころから接しているだけのことで、生きて行くための力を子供のころから身に付けるつと言うのは教育以上のものであることも多い。たとえば、学校で勉強しなくても家で服を作れるようになるのと、学校で勉強した子が大きな工場で本縫いミシンだけしか縫えない単能工に育つのとの差があるだろう。親が子供を育てるという基本部分は一つのオーガニックではないのかとも思う。

オーガニックを持ち上げていても日本でも自分がミミズや牛糞を扱うような農作業を避ける人がほとんどだろう。遺伝子組み換えの必要性が生まれてしまうのだと思う。オーガニックと遺伝子組み換えは相反する概念だけど表裏一体的な存在でもあると思う。学校教育を受けたとしても誰かが一般的には底辺に見られがちな汚れる作業を行ってオーガニックが成り立つのである。学校教育を受けたからといって国によっては職業選択の自由が認められていない部分も大きく、そういう国では農業に携わる人々は残り続けることになる。そういうのに支えられている部分があるのもオーガニックの一面で、オーガニックで普通の理想を求めるとオーガニックの自己矛盾に陥ることにもなる。テキサスの人造的に思える大型機械を使ったオーガニックですら、これなら学校教育を受けたものでも引き継げそうな形に見えても、継ぎ手はなかなか見つけ難くくサステイナブル性は低いのも、日本でも大学教育を受けて田舎の行事や考え方が難しいのと似ているだろう。

ベトナムに行ったときに子供が織物の作業をしていて、大人は井戸端会議。一番駄目な社会構造だけど、国や役人や認証機関にも共通するところがあって自分たちがクーラーの効いたところで認証しながらは現場は自然との戦いで過酷では駄目で、オーガニックを支える体制が偽善で終わり支えられないだろう。自分自身が問題と向き合って解決する姿勢が必要。児童労働を批判するものが子供が労働していることを担えるのかというと、批判はできても自分自身が代わりにするということは難しいもので、日本でも今の年金制度なんてのは児童労働みたいなもの。生まれてくる子供たちに自分たちの面倒をみさせようとする大人は多いのである。

大人よりも子供のほうが仕事が真面目に上手にできたりする。日本という国も高校大学の教育が普通になったけども、そういう新興国の教育を受けていない子供に負けてしまう日本の大人は多いだろうと思う。新興国でも学校教育が始まると子供の力は落ちる。教育というのはできることを制限する部分も大きいから、新興国の中卒の子と大卒の子では、大卒の子のほうが仕事すると子供の能力だったりする。日本でも大人は普通の人はミシンできない人が多いけど、子供は初めて触って教育を受けていなくてもミシンを使いこなせるのである。言語と同じで、後からではなかなか難しいのが器用さの習得。

GOTSには有機栽培の規定がないのに、GLOBAL ORGANIC TEXTILE STANDARDというのも、オーガニックを有機栽培と捉えるときに、大きな矛盾を感じ、スタンダードとはいえないのを感じながらも、オーガニックは標準化すること自体が駄目で、みんなが信じている3年間化学肥料、殺虫剤、枯葉剤無使用も、現実的には不可能なことも多く、今は移行段階での原料を使うこともGOTSは内部的に認可しているのが、最終消費者が得る3年間化学肥料、殺虫剤、枯葉剤無使用の情報とは食い違い、エコやエシカルなことをとるのが基準を取るのかで判談は分かれる。消費者が最終的なオーガニックかどうかの判断者であればよいと思う。オーガニックかどうかよりも生産者を思う気持ち的なエシックスが先にあるべきで、生産者が正直にベストな気持ちで作ったものをものづくりを受け入れられなければ、謳いや基準そのものが偽装につながるケースも多いだろう。

オーガニックで苦戦するは織物の現場も同じで、正直にオーガニックの糸なら織るのにも問題は多くなる。リネンにせよラミーにせよ、糸がまともに織れないに遭遇してしまうのである。一般的な概念ならこんな糸は駄目ということになるのだろうけど、糸を捨てることは私にはできないから、その糸をどうやって料理するかをその都度考えるのであって、工程はその度に変わるのである。オーガニックな糸を使うために、非常に柔軟に使い手が対応して問題も多い本当のオーガニックが守られるんじゃないかと思える。オーガニックの原料をつくるというところも、本当の自然との闘いなら通常の農業でも不作もありで、オーガニック栽培ならなおさらなので、機屋にしろ使うものは農家以上の苦労があってしかるべきなんじゃないかと思えるのである。
2019年03月14日
ETCのバーが取り除かれテストが行われ始めている。ETCのカードの未挿入やETCの不具合でバーが開かないと、急停止することになる。これは、後続車がいて車間距離をとって止まる準備をしていれば事故につながらないが、閉じているバーは開くものと考えて走っていると追突事故につながる。ETC追突事故は、バーが開かないだけで事故が本当に起こりやすい。自分が開かないからと止まっても後ろのトラックが前の車は止まらないで自分も止まらないでETCを通ると思っていると、開かないで急ブレーキして停止するだけで、最悪死亡事故が起こる。ETCは本当に危ないメカニズムなのである。使っているものの責任で事故が起これば注意していないものが悪いという結論もあるだろうけど、死亡事故が起こりやすいメカニズムは、いくらルールで正しいと決めてこの人が悪いといっても結果が悪すぎる。

現に、首相が移動するときの警察官のSPの護衛付きの5台の車列が、ETCで5台の玉突き事故を何年か前に起こしている。警察官が運転していてもうっかりで事故は起こる。一般人だと責任を被せやすいけど、警察官でもうっかりで未挿入とかでETCが開かず、後ろの車も十分な車間距離を取れておらず、スピードも落とせておらず事故につながる一例。ETCのノンストップは、バーが開かないだけで重大事故の元なのである。

ETCレーンと通常のレーンの移動も短距離の間に行わねばならず、車を停止することすらが入り口出口では非常に危険なので動きながら判断を求められる。ETCには、命と引き換えの利便性的かつ収益性的な要素があり、私の中では安全性の面からは疑問符が付く。よほど事故が多いからETCのバーを取り除くことがようやく行われるようになったのだろうと思う。命を優先する考えで賛同する。利用者の性善性で成り立つとETCが動くなら逆に不正行為は減るのではないかと思うし、不正行為に対しては社会的に厳しい目を向けることもできると思う。利用者の性悪だという立場で収益性を求めてETCを導入するなら、ETCも安全性無視のあくどい部分があって、肯定できないところがあるし、事故が起こったときに危険なメカニズムのETCにも過失が存在するのではと思う。

死亡事故が多発しないと簡単に危ないと想定できても改善がなかなか難しいのは、人命尊重の意識や交通安全意識が本物なのかどうかと思う。安全を追求してバーを取り除いたETCを、不正にすり抜けるような行為は運転資格を取り上げてもよいんじゃないのかと思えたりもする。ETCのような自動感知装置は自動ドアが開かないことがあるのと同じで完璧ではない、人々の正しい心あってこそ成り立つものだと思う。イタリアやフランスの地下鉄の入り口も、正しくメカニズムが働かず、そういうときには機械はそんなものだと思って係員が対応できないなら無視して乗り越えることも必要。ETCでも後続車がある場合停止すると危険だと感じたら止まらない判断も必要で、バーがなくなればより安全に問題に対応できる。ETCの不具合は出口で対応してもらえばよい。
2019年03月13日
テキサスで全米のオーガニックコットンのほとんどが栽培されているというのは驚きの事実なのだが、それはテキサスでしか、オーガニックコットンの規定に縛られてオーガニックコットンが育て難いという事情がある。雨が降らず普通は植物が育ち難い砂漠地帯がオーガニックコットンの栽培には適しているのである。スプリンクラーで水を吸い上げてコットンを育てる。テキサスの農家の苦労も先進国日本で繊維産業で途上国の繊維産業以上に苦悩の毎日だから、そういう現場の覚悟もない権威主義な基準が現場の人々を苦しめる現実で、本来あるべき自然の恵みが成り立たないようなオーガニックの基準すらもどうかと思う側面も感じるのである。

枯葉剤を使わなくて良いのが、砂漠気候だから乾燥していて雨が降らず、3ヶ月とか放置しても綿花が腐らずに完全に枯らして葉が落ちるのを待つことができる。水分をスプリンクラーを止めることで完全に制御でき、枯れさせるうモードに人造的にコントロールできるのも強みである。他の場所では雨が振ると綿が濡れて品質が落ちてしまうが、砂漠気候の中に人工の力でオーガニックコットンの世界をつくりあげているのがテキサス。収穫も手摘みではなく、大型のコンバインで機械的に収穫が出来き、オーガニックな手積のコストが掛かる部分を大型のコンバインで刈り取ることで少人数で解決しやすい。

乾燥していて虫やカビなども日本などと比べて少ないのであろう。雨が降らない不毛の地を水と有機肥料を投入することでオーガニックコットンの一大産地に変えるプロジェクトが成功したということ。オーガニックコットンというと、代表的なのがインドで、昔からの製法で手摘みの世界がある。日本もオーガニックコットンは雨が多いので棉がはじけるごとに手積みが必要とされる。アメリカのオーガニックコットンの栽培はスプリンクラーが使われていたり大型の機械が収穫に使われていたりと、一般のオーガニックコットンが自然の力と人の力を中心としている中、最先端的なオーガニックコットンの栽培技法から生まれる。

先進国でオーガニックコットンを栽培するのが楽なのかというと、大規模農園でも数人の人間でやるためには設備投資にお金は掛かるし、いわゆるアメリカ的な遺伝子組換コットンや農薬を使っての栽培で効果がなく、成り立たない農家が、生き延びる策としてオーガニックコットンに掛けて成功したという話は人々の共感を得る部分で、ビジネスとしては大きな評価に値するだろう。

インドでも遺伝子組み換えコットンで多額の負債を背負い自殺者が出る問題があって、オーガニック業界での惨事として反遺伝子組換というところにきている。テキサスの事例をみているとオーガニックコットンは将来的には資本が投入されればアフリカがオーガニックコットンの巨大生産地となる可能性が高いであろうと思うのは私だけだろうか。

違和感を感じる一つのことには、オーガニックコットンのイメージとすると大地の恵みみたいな自生するようなものを描くが、それが現実的なイメージではない部分がオーガニックコットンの世界にもあることを知る必要はあるだろう。理想的な基準にしばられながらそれをどう人工的に経済的にクリアするのかが先進国的なオーガニックの考えで、他方では自然の恵みと手摘みの人的労働のオーガニックコットンの世界があり、同じオーガニックの中でも方向性はまったく異なる。不毛の地だから逆にオーガニックコットンのレギュレーションに人造的だとレギュレーション的には適合しやすいというところも、オーガニックコットンを基準で運用すれば一番適合しやすく正しいことの一つなのである。それをすることにも多大なるリスクを伴い成功したテキサスのオーガニックコットンの農家の方を応援するべきだろうとは思う。

たぶん、テキサスの農家のほうが、インドの一般的な農家よりも大きなリスクを背負ってオーガニックコットンに掛けていて、日本の繊維業界の苦悩と共通するところがあり、テキサスの人造的なオーガニックコットンの世界が先進国でオーガニックコットンを育てるのにできるベストなんだろうと思う、どんな基準があろうが、リスクを背負って自分が生きるためにベストをやっている人々を否定してはならない、基準でしばってその人たちの生命線を握るのは奴隷使いそのもの。途上国だけが苦しいのではなくて、先進国の人々の真面目に農業に取り組む人のほうが何億もの負債を背負い苦しいことも多いから。

殺虫剤の使用がすくないからと遺伝子組換を推奨するのもオーガニックの考え方もあるが、それは、原子力発電が地球温暖化に貢献するからエコだというのと似ていて、世界の原子力推進の旗振り役の日本的な地球環境を謳うスタイルに近い気がする。遺伝子組み換え作物を信じて裏切られた気分で、まったく反対のオーガニックで生きようと決意するのも人々の意思だろう。逆にオーガニックのレギュレーションが全世界的にオーガニックコットンの栽培を普及させるのに歯止めになっているという部分があるのも、オーガニック栽培の苦悩をしっている現場の人なら分かるだろうが、レギュレーションだけ作ってる人たちには分からないところ。私が普通のコットンでも十分天然繊維で否定すべきではないと思うのはそこで、厳しい基準をぶつけるだけで全世界的なまともに農業に取り組んでいる人々でも自殺に追い込まれる普通の生産を覚悟している人や作物を馬鹿にしてはならないという辺り。

日本人がコメ不足で、食べるコメにコマっても、日本人の口に合わないタイ米とかしか意図的に入れない農水省のどうしようもなさ、震災のときに液体ミルクをネッスルが被災地に届けようとして安全性の面が確保できないとした農水省。人々が食べるものもない苦しみを感じることもできない日本の行政の人間の感覚。そういう人間の存在が逆に人々を苦しめることは多い。

オーガニックを選択する人に、認定だとかクソだけなことにこだわって、現場の人の覚悟すらも分からずに、農作物が死滅するときに農薬を使えばオーガニックじゃなくなるけどやったらダメなの?認定を外されても自然と闘うためには仕方ない行為だというところ分からないとすれば、奴隷使いそのもの。せっかく育てたものがすべて無駄で食べて行けなくなる方向性。それをオーガニックだと謳えば別の問題だけど、農薬を使用した事情を説明して市場に流すも正直でエコなチョイスだろう。オーガニックじゃなくなるけど否定するようなものでもあるまいが、オーガニックやっているひとは、害みたいにいう人が多いけど、私はどうなんだろうと思う。食べていくのも難しい人たちというのは命すら掛かっている状況で、そういう人たちを支えるときに彼らが普通のコットンを作ったとしてもそれを買って支えてあげるのが私はエシカルで良いんじゃないかと思う。

オーガニックの前に、社会問題としては、生活とか食べて行くとかすらが難しい大きな問題があって、オーガニックなことじゃなくても彼らが生活できるようにとか食べていけるように考えてあげるのが必要だろうと思う。たとえば、普通のコットン製品であったとしてもそういう生きるために苦労をしている人たちがつくったものなら買って応援が人の命を救うことにつながりオーガニックの前にエシカルではないのか。

オーガニックには矛盾が存在するというのも事実で、オーガニックを求めればブラックな現場。朝10時から夕方5時まで週5日のオーガニックではオーガニックの現場すらも支えて行くのは難しいだろう。農作物がオーガニックを信じて死滅すれば、それは遺伝子組み換えを信じて自殺に追い込まれる農家と同じことをオーガニックの基準とか認定だけの世界が強要しているのと同じことなのである。私が思うのは遺伝子組み換えと同じ事務的なレベルでオーガニックの基準が運用されがちなところ。オーガニックをやってる人々を救えるようなオーガニックでないと、遺伝子組み換えと同じところに陥ってしまうのを、オーガニックな世界にも感じる。
2019年03月12日
最新型の、ボーイング737MAX8が半年で2機似たような現象で墜落。自動安全制御装置が働いていてパイロットが機首を上げようとしても機首が下がるような、自動制御のプログラムミスかセンサーの不具合を自動制御が判断できず、墜落したらしい状況。自動運転が安全だというのは妄想で、たぶん自動安全制御装置がついていなければ、パイロットが簡単に回避できた事故。安全のためについているセンサーや装置に問題があるときに、それらが自動運転と絡むともはや事故誘発の原因になる。

自動車で自動運転で事故が起こってもメーカーの責任は問われないとか、人が死ぬ確立が高いのにそういうのを選択する政府というのもどうしようもない状態。飛行機事故をみても、自動車どころではない技術の結晶そのものだが、それでも、原因すら改善すら難しい。日本の自動車メーカーは、アクセルとブレーキの問題に関しても、アクセルとブレーキを同時に踏んだ場合ブレーキが優先されるようなメカニズムの導入すらすべての新車に対して終っていないような状況。危険察知したときにスマフォなんかしてたらブレーキ踏むときにアクセル踏んでしまう間違いも起こりやすいのに、スマフォOKとかはないだろう。自動運転を安全とは謳わないで、死亡事故事故はつきものであるという感覚で導入するべきだろうと思える。

すでに導入済みのETCの危険性に関しても300台に1台がゲートが開かずに急停止、7割8割はカードの実挿入などが原因、開いていないゲートに向かって開くのを想定でギリギリまで動くというのもなあ。その2割3割くらいは、ETCカードを挿入していても起こっているETCの不具合が疑われる。怖いのは、後ろの車が追突する現象。ETCが開かないだけでとんでもない交通事故が起こりえるが、日本の交通安全意識というのはそんなもの。ETCのバーが誤動作で開かないときに交通死亡事故が起こりえる危険性を自動システムというのは孕んでいるのである。実際に多く死亡事故を含む追突事故も起こっているけども利害関係が絡んでほとんど公表されないETCシステムの裏側。ETCレーンでは止まるだけで後続車が追突してきて死亡事故につながる危険が常にある。閉じているバーに向かって開くのを信じて進んでいくというのも愚なる行為そのものだけど、安全を考えて止まると今度は追突の際に過失が問われるという問題もある。自動運転車だとどういう行動をするのだろう、日産の自動ブレーキシステムで、試乗の際に、自動ブレーキが働くからブレーキを踏まないでとディーラの人に言われて衝突してしまった事故とか。

織物の織機も基本自動運転なのだが、それゆえに問題は多いのでメーカーの人以上に織機に詳しくないと問題が見えないことが多い。織機だと人が死ぬことはないけども、自動車だと人が死ぬことは十分にありえる、自動車メーカーの利益だけが一人歩きして、人が死ぬことを考えない自動車開発者たち人が死んだとしても自分たちに責任はないといえるような状況までも作りだして、自動運転車を運転する人の問題ではなく、自動運転車以外を運転する人に危険性が増す問題。LTEでスマホで車を遠隔操作とか、本当に止めたほうがよいところまで行ってしまっている。スマホの電池が落ちただけでも使うものはどうなるのか分からない想定から始まるのに。織機でもスマフォで動かせればなんて絶対に思わない、危険すぎるから。自動で動くものを常に問題があれば停止できるように人間が緊張し監視し続けることのほうが大変で事故が起こってから止めるのが精一杯だろう。ボーイングの最新型の飛行機にしても自動制御で事故が起こるのを食い止めることに必至になっても難しく多くの死者を出す問題。

パイロットが操縦をしたときに自動制御が解かれないといけないメカニズムが働いていない。自動車の自動運転でも同じようなことは起こるだろう。スリーマイル原発の事故だったかも、自動制御が正しく働いて停止にもっていったのに、今度は人間が自動制御の誤作動だと判断して手動で動かしたとか、台湾の高速鉄道の問題も自動制御が停止ばかりなので自動制御を切って手動で動かしたら大惨事。自動制御と手動との切り替えというのも大惨事のエピローグの可能性は高い。
2019年03月11日
8年が過ぎて原発の被害が復興をさまたげる。絶対にメルトダウンしない想定でしか、準備もできておらず、結局メルトダウンすると手も付けられない状態。メルトダウンしても放射能漏れレーダーが放射能漏れを感知していてもメルトダウンはしていないと嘘をつき続けた国と電力会社からなる原発行政。6ヵ月後に爆発直後から放射能漏れをレーダーが検知していた様子を情報公開する。

普通だとチェルノブイリの半分の規模の放射能漏れ事故で、歴代2位の惨事となった事故。地下水からの海への大量の放射能の流出によって、石棺化が免れただけで、その設計上のミス、誤算がなければ、福島は石棺化するしかなかったであろう。それまで日本の技術で何があっても絶対に格納庫は壊れないという幻想も崩れた。本当ならば福島は廃墟となる事故である。地震と同じくらいに注意が必要なのが原子力発電所の存在。

日本は世界で一番の原子力発電推進国であったともいえ、国内の批判には一切といってよいほど耳を傾けずで、事故後も横柄な態度を取り続けるが、海外からは日本の原発輸出はことごとく断られる結果となった。また、蓄積し続けた使用済み核燃料も、世界から監視の目が向けられる悪玉が確定し、日本の再処理燃料計画は世界中からの批判で終焉を向かえる流れに向かっている。

PCBの問題なんかでも拡散しないように企業に努力させているのに、汚染土は薄めてすむなら問題ないとか笑える話で、国や電力会社は一番の環境破壊組織。実際に汚染土には放射能だけでなく、アスベスト、PCBももちろん含まれ、年金記録でも30年管理できなかった国が、100年以上日本中にばら撒いた汚染土を管理できるはずもないし、それをその場しのぎに管理できるという政治家もいたりする。
2019年03月10日
オーガニックという概念の難しさはというと、殺虫剤の問題よりも、権威主義的な流れになってしまうかどうかの辺りだろう。権威主義的なオーガニックは本当のオーガニックを破滅させるともいえる。権威主義的になれば奴隷を束ね搾取しているだけの状況と同じなのだ。オーガニックの肝は、オーガニックの現場を支えている人たちが一番であるというところ。過酷なオーガニックの現場を支えているのだから。

それを勘違いすると、認定がという問題になるけど、ブラックボックスなところは大きくなるほど多いもので、実際、日本で一番大きなオーガニックの団体の長が、私がした、オーガニックじゃない合成繊維のものにもラベルがついていますよね、というと、それはそれをつけた企業の責任で私の責任じゃないという答え。本当にあきれる話で、ラベルがついていても嘘か本当かはラベルの発行元の団体の長さえ、他人事なのである。私自身、認証を得た糸なども使っているけども、爺さん、それは基本すらもできてなくあなたが駄目だよと厳しく指摘した。

私自身オーガニックリネンを使って、通常のリネンと同じだとは思えない現象にいくつも遭遇して頭を悩ませることも多いが、その理事長は普通の糸もオーガニックの糸も同じ品質ですと軽く考えておられ、まったくオーガニックのことを理解しておられないのである。またエシカルなことが面倒で嫌なんですよとかいわれて、もう、なんでこんなおっさんがオーガニックやってるのというどうしようもないレベル。国際会議でなまった英語聞いていると眠くなってくるんですよねとか、発言も病気的で人に対しても一生懸命になれない英語で伝えようとしている人に対しても上から目線。自分も嫌なんだけど代わりにする人がいないからやってるだけなんですよとか。だらしない言葉ばかりが飛び出てくる、ワチャー。

そういう団体ばかりではなく、別のオーガニックの団体をやっておられる方は、心優しいなあとすべてにおいて思える。結構、私のお客様に多いのがそちらの団体の認定を受けた商品を使っておられる方々が多いので私がびっくりする。人というのはいろいろだと思う。また、オーガニックの管理にしても、行政的になってしまうとオーガニックの精神すらなくなる。オーガニックの現場には、原始的なことを強いながら管理はコンピュータで厳しい罰則とかも一方的で問題の一つだろう。管理者が問題があっても他人事のように責任を逃げる輩ばかりで、オーガニックに寄生し食い物にしているだけのことに終る。問題があれば、管理者も24時間とは言わないが、土曜日曜でも対応できるくらいでないとオーガニックの現場の人間を支えることも出来ないだろう。GOTSの事務局に電話したこともあるけども、トップの人間はことの重大さに動けたが、ほかのスタッフがことの重大さを意識せず事務的で、自分が問題視したことに対しての対応の体制が足りていないのは残念でしかないし、サステイナビリティの面からすると排他的では駄目で一般の目から逃げては駄目なのである。

なるべく化学薬品を使わないとかの表現が盛り込まれているけども、これってオーガニックでなくても普通のものづくりの概念なのだが、その程度のオーガニックなら一般にはオーガニックとは言わないだろうと思えたりする。オーガニックを謳いながらも、コストやボリュームとの戦いがあるのが見えてしまって凄く残念なオーガニックの世界がスタンダードなものだとすると、ラベルがついているだけで普通と変わらなくなってしまうだけのこと。人の問題そのもので、コスト重視でマーケットシェアを狙いオーガニックをラベルだけで普及させようとする行為はオーガニックと相反する概念そのもの。苦しんで支えてこそオーガニックなのであるが、自分がラベルを発行しながら、それは業者の責任として逃げては、グローバルスタンダードとしても日本のオーガニックのレベルの低さを、一番大きなオーガニックの団体の長が否定してしまっている。眠い話だろうけど、真剣に聞いてもらいたい。休日だから休み明けでないと対応できないとか、オーガニックを支える現場はそれを出来ないのである。自分の事務所に来なさいとか駄目で、自分が休日とってるくらいなら、動いてちゃんと動いて支えないとエシカルな気持ちの最低限も無い、よくいる高飛車なおっさん。厳しい話だが、覚悟決めて動いている人間からすれば、覚悟すらも無い人間がオーガニックを謳うなと思う。それが日本で一番大きなオーガニックの世界。アイリッシュリネンのような無いものが一人歩きして、最高峰のものとして大量に流れていたのと似ている現状に、警笛を鳴らすものがいてもよいのではないか。もちろん、人間だからできることとできないことあるけど、謳うことはすごくても、実際の話一つが責任感すらもなくいい加減すぎるのである。

そういうオーガニック幻想が一人歩きするのも、高いお金払ってオーガニックの糸を信じて使っているだけに、偉そうに自分が長だというなら責任を逃げないでだらしないことばかりいっていないで、ちゃんとしなさいと思うのだ。単なる無責任な爺さんが日本の一番大きなオーガニックの長では困る話だし、そういう認定の糸を使っている立場でだらしなさを知ったときに、そういうオーガニックの厳しい世界を守るつもりなら、長であろうがオーガニックを信じている人を馬鹿にしすぎで追い込まないと駄目だと思う。私がアイリッシュリネンプロジェクトを立ち上げ、アイリッシュリネンが存在しないことを証明したのもそこで、オーガニックに関しても幻想になって消費者騙しならば最初からそんなもの無いほうがよい。オーガニックリネンが本物だと私が感じることがある。私自身が、オーガニックリネンを必要として動いたけど、ヨーロッパの企業のもつ在庫を集めても1トンも難しい。これは本当にオーガニックリネンを扱おうとすると、日本の田舎の企業がものづくりしようとしても世界的なオーガニックリネン生産できる一社の在庫のをすべて押さえる話。もう一社の糸も数トン手元に持って、分かることがリネンの世界では日本くらいしかオーガニックリネンを評価できないというあたり。私自身は、どんなに問題があろうが、オーガニックリネンを支える覚悟で、通常の糸としたら使えない問題があろうがそれがオーガニックリネンの証として受け入れてもらうつもりで動いている。オーガニックリネンを軽く考える日本の認定委員と実際のオーガニックリネンを使うものの苦悩のレベルでは、日本の認定委員の知識が低すぎてオーガニックを軽く考え日本のオーガニックの長気取りで、林与にちゃちゃをいれてくださった。本当にその方の話が低すぎて無責任なオーガニックのダラシナイ日本のマスオーガニックレベルの話でアイリッシュリネン幻想が一人歩きしたのと同じで、信じて使ったり買う一般や消費者のことすらまったく考えていないのである。日本は一番産地偽装や偽装表示に厳しい国だから、日本で一番大きなオーガニック組織も、オーガニックを謳うなら本当に気をつけてほしい。私は一般の目をもって、厳しく世界的な権威で、日本のオーガニックを仕切っていると自負しているような人に対しても、厳しい目で本当に言う一言一言からしてだらしない、日本のオーガニックの概念を貶め偽装を蔓延させてしまうのがあなたみたいな考え方だと指摘する。高いお金を払う消費者、守らないといけないのは信じている高いお金払う消費者、偉そうにするだけの責任を感じないと、面倒だとかやる人がいないからやってるだけとか、言うこともだらしなさ過ぎて、辞任だけでは済まされない裏のありすぎる話。私自身は世界的や日本的な権威を謳おうが、だらしなさ過ぎる言葉ばかりを私にぶつけるジイさんには、あなたが一番駄目だと引導を渡す立場。そんな人がグローバルオーガニックテキスタイルスタンダードをいう言葉を使っては、その表現自体が偽装そのもので、現場の人間はもっとまとも。
2019年03月09日
日本における自動運転関連の法令は現行の法令や道路交通法との矛盾を多く含む。閣議決定で、「スマホしならら運転OK」みたいなのは、人が多く死んでいるのに、内閣の連中は、また死者を出すような安易な、原発は安全という神話以上に、日産の自動ブレーキが利かずで、追突したとか。緊急時に運転を代われれば事故を防げるとかそういうレベルの問題ではないのである。ブレーキが利かないのを人間が気がついても後の祭りなのである。

アメリカでも自動運転の走行実験で、自動運転では障害物を検地してまともに走らないから障害物センサーを切って、運転手が運転して自動運転の走行実績を上げているようなことも、死亡事故があって分かった。テスト運転手が規則に反してスマホをしていたとかが、自動車メーカーの責任か運転手の責任かの争点になっているようだが、同じようなことは本当に導入されて日本でも当たり前に起こりうる想定だろう。

自動運転にしてもどうして日本の道路交通法のような車を運転するということは拳銃の引き金に手を掛けているようなものとか指導しながら、死亡事故が起こりえるスマフォ読書ありで自動運転を導入させようとするのか、死亡事故が起こったら一生取り返しのつかないものを背負うことになる。メーカーの責任も問えないような閣議決定とかして、自動運転での事故の責任を取りたくない自動車メーカーが法律を作ってしまっているような状態なのであるが、これもアメリカが日本に自動運転車を売り込む外圧の一つだろう。

拳銃なんかの所持も許されるアメリカだと人が交通事故で死のうがしかたない事故としてすむけども、その流れを日本に持ち込むなら、事故の責任も軽くしておかないと事故が起きて、事故の起こりやすいような法令を作って事故が起きたら加害者の責任で、事故が起こりやすい法令で事故を誘導しているようなものなのに、加害者が責められるというのも国の責任も大きいだろう。薬害エイズなんかでも安全といいながら海外の血液製剤を導入して大問題、同じことが日本の国で自動運転でも現在進行形なのである。専門家は責任を取らないから別に間違っていてもノーリスクで役に付いて待遇を得ることが大事なのである。反対する専門家は基本雇われ難いのであり、正しい判断を専門家ができるとは思えない状況から始まる。
2019年03月08日
3月なのに、夜の温度はまだ2℃。滋賀県のこの地域が肌寒いのは仕方ないことなのかなあ。夏はかなり暑く、35℃を越える。四季の移ろいをモロに感じることができる場所なのであるとよいように解釈。気候の厳しい場所というのは世界的にも織物が発達する傾向にある。過ごしやすい南国では織物が簡単で雑であることが多い。

滋賀県で麻織物が発達した原因が、琵琶湖の湿気だという説があるけども、琵琶湖岸では葦などの荒い織物は多かったが、細番手の麻織物というのは織られていなかった。細番手の麻織物というのは山側で織られるというのは、織物というのが農業のB面で雪に包まれる里で織られたのである。戦前に関しては琵琶湖岸というのは漁業が盛んで実は水利の面であまり農業には向かない傾向にあった。戦後に湖岸や内湖を埋め立てをして巨大な農地が出来上がったのである。

基本麻織物というのは全国的に作られていたと考えてよいけども、江戸時代は流通は許可制あるいは免許制であったので、自分で着るものは基本自分の家で織ってそれを裁縫して家族の服としたのである。農家が現金収入を得る手段というのは限られていて、江戸時代は自給自足が基本で親戚の助け合いによって、衣食住が成り立っていたのである。今は避けられがちな田舎の祭りなども、たらふくご馳走を食べられたり酒を飲める唯一の楽しみだったりで、日々の質素な生活の中では許される贅沢の一つであった。

満足に食べられず、子供も5歳までになくなる確率も半分以上とか、そういうのが普通の農家の世界で、野麦峠なんていうのは、貧農の娘さんたちの憧れの世界であったが、今の価値観からすれば逆に取られたりで、貧農のものたちがチャンスを与えることを良しとしない働かずして成り立つ支配階級の目線ではないのかと思えるところもある。官製の富岡製糸に対しては私は否定的な目でみるのは、良家の娘さんを好待遇で集めて世界に日本の力をPRみたいな、搾取の上になりたつ支配階級的な思想で出来上がった工場だということ。良家の娘さんたちが良い環境の中で作る糸の品質は低く貧農の娘さんたちの作るものに敵うことなく富岡製糸場は廃業の道をたどった。私の感覚ではアリとキリギリスの世界に思えてならない。

今の日本の官製のプロジェクトも今なお同じ道をたどることは多い。プロジェクトの目的がそもそも搾取するところにあるからだろう、すごく有利な条件なのに大きな失敗して無責任にお金を失い、そのツケを他のものから取ってそれの繰り返し。成功して還元することよりも、失敗して失敗分をさらに吸い上げる構造が官製プロジェクトにはあろう。原発が爆発してさらに遮断壁の失敗で追い銭、そもそも遮断してどうなるものでもないというあたりも、今になって解決方法は無限希薄しか方法はないと専門家たちは結論付け初めている。惨事に対しても当たり前の神経が働かずにカネを動かすことばかり考えては駄目で、建前ではなく本質で対応しないといけない。なぜ、チェルノブイリと福島の被害の違いがあったのかは、地下から漏れ出したというところで、その漏れを止めることはチェルノブイリの悲劇に近づく。愚かな人間の不完全さが福島を救ったという辺りだと思う。国や東電が放射能漏れを隠匿したまま、地下から放射能汚染物質が海に流出していなければ、福島はチェルノブイリの半分くらいのダメージを蒙っていて石棺化は免れなかっただろう。

プルサーマルというものを推進している人々も風見鳥で、国民に対しては押し付けるけど、国際的に害と判断されると方向転換。国内の声は聞く耳持たずで虐げ、海外から批判されると変わり身の早さ。それがそもそもの諸悪の根源で、日本の江戸時代の身分制社会と明治の開国という100年以上前のままの日本の役人的な政治の部分。

村の案件でも、役所ばかりいた人間がやると高圧的で人間的なところがなかったりして、法律を盾にとり、自分だけが特別であるかのように民主主義的でない、殿様。責任が掛かると逃げるばかりが駄目なところで、役所以外の人間だったら、自分の甲斐性で偉そうにいうなら一番に責任を取るけどなあと思う。

ある案件でも、自分が機材も老人で出来ない家には一軒一軒自分がつけるからといってみんなの了承を得て、了承を得た次の会議では、つけるのは自分でやってと、手のひら返しでそれが60過ぎた人間の言葉かと思って親戚筋のおっちゃんだったけども、私が厳しい目をぶつけるのは、その場しのぎの役人的なやり方で空気が読めないそのもの、覚悟してやれと思うし、自分自身が覚悟もないなら言うなと思った一件だが、国の行政も議員も、辞任したら済むとか弊害は後々まで及ぶのだからそんな考えなら最初から役につくないい加減にしろとか思う。

今、滋賀県でも、知事選挙。元知事が選挙にでるようだが、私は否定的。この方は県のイベントにしても気がないのだ。なぜ、自分のときに立ち上げたイベントなのに、知事でなくなったら一般市民として参加しないのかの問題。一般市民の気持ちもないのが知事としては失格そのもの。私はそのイベントにも彼女が知事だったときからずっと参加して応援の気持ちでいて、地元を応援する気持ちでいるのに。そういう人間が長に立っても自分の立場だけで、右に左にフラフラで応援する気持ちの人の気持ちも捉えておらず長としては難しい。滋賀県知事をしていたものが自分が知事でなくなったからとして、一般県民として滋賀県の行事に普通に参加して支援もできないようなら知事としてはまったくもって失格なのである。

たとえば、これは町長に対しても同じ、町民の責務を果たせないような町長なら町長の資格無しで、最低限町民の責務を果たして町長や町会議員を名乗るべきで、その目線というのは本当に大事で、私も含め一般の人々はそういうところ見ているもので、長続きする人と続かない人の差だと思う。政治家の対立する主張が会社が違うだけで本当の目的が利己なら駄目で強制される国民、県民、町民の立場で、自分と違う主張も受け入れて強制を受け入れやらないと、自分たちの強いていることすらも見えまい。
2019年03月07日
本当に情けない日本の電機メーカーの意識の低さとして、PCBの危険性が認識されたあとも、低濃度のPCBを使いながらその情報を隠す体質があること。どのメーカーも隠してしまうというのが日本のメーカーの怖さで、自分の作った製品にPCBが使われているのかどうかも自信をもって答えることができないのである。混入の危険性があるとか言う言葉までもが飛び出てきて、行政のいい加減な答えそのものに似ている。使っている側にPCBの情報が正しくメーカーから出てこない状況を国も作り出しているのである。製造工程の中での混入だと完全にメーカーの責任だろうけどもそういうのすら認めず使ったものの責任というのもメーカーがPCBの危険性に対する意識が無いままなのである。

PCBの危険性をメーカーが認識していない意識でものづくりをしているということの証ではないのかと思えるような対応。自分の作った電気製品にPCBが使われているのかどうか分からない、検査費用は買って使っているものの責任だみたいな、日本の大手メーカーにPCBに対する危険意識すらなく、情報すら隠匿してしまう体質は、原発と同じで非常に日本的なのかもしれないと思える。共通しての隠匿体質は行政がらみの指導が裏で働いている可能性も高いが、そういうところがPCBに関して指導する行政からしても一番駄目な体質である。

カネミ油問題で、行政が動きもせずに国の責任が問われたが同じ体質が今も国にはあって、知らずに油を使ってしまったものの責任というだらしない対応。50年たっても同じ体質なのが今の日本の国で、原発の放射能漏れすらも隠してしまう体質となんら変わらない連中がPCB問題を扱って、さらにそういう連中はカネ儲けまで考えてしまう情けなさ。カネミ油問題は今も日本の行政を含め現在進行形なのである。なぜメーカーに情報を公開させないのか、カネにならないからなのである。再充填で混入の危険性があるとかメーカーのまさにだらしないPCB管理の責任までも使うものに負わせるからカネミ油事件はまさに国の責任なのである。

PCBの危険性が取りだたされながらも使用を許可し続けた国、まさに国の判断が誤りだったことが、今のPCB廃棄物の問題を生み出してしまっている。国の担当とメーカーの癒着が一番の問題であろう。ダイオキシンでも口から入ると、触れるとではその差は大きい、放射能でも同じで口から入った場合にはその汚染は何千倍といわれるのだが、そういうのを想定しないで安全を謳っていると、福島原発の所長のようにガンを発生しても原発爆発との関連性はないという形で終ってしまう。所長のようなケースが、一般であったとしても関連ないとあしらわれてしまうのかと思うと、PCBとかの問題も国の責任に追求が及ぶと国は逃げるだけのこと、カネミ油症の問題は今のPCB機器の破棄の問題とも絡んで続いている問題である。

メーカーがPCBを使用しなくなっても、PCBを使用している油を再補充しているような重過失レベルのメーカーの正規メンテナンスがあったとすれば、行政の指導で厳しく保安会社が入って検査してメンテナンス記録も残っているのに日本の電力行政のあり方、そもそもが形だけで無意味にすら近かったということ。なんかそこそこの量でそんな失態があるそうで、メンテナンスすると逆に何をいれられているか分からないというような怖さ。再生油に混入してPCB不使用を謳いながらも新品でもPCBが含まれるケースというのもあるという。今の新しい機器であろうがありうると考えるとメーカーはPCBを使用していないということは今後の新製品であろうが基本謳えないという結論か。

PCB廃棄の問題でも、一番の利用者は、電力会社と鉄道会社。これらが一般と同様に高い費用を払って検査ならびに処分するのかというとたぶんありえない話で、一番大量に危険性が疑われる事業者の処理がお手製で一般からはブラックボックスなのである。天下りが処理機関をつくりその抜け道もできあがっているのがPCB。
2019年03月07日
さすがだなあと思うのは、現場の力。今、量産の一つの件でリカバーしないといけない案件があるのだが、微調整が必要で、糊付けの1回目がうまく行かなくてそれを同じ工程をもう一度行うことでリカバーする。なんとなく専門ではないけども、私は専門職の人にも常に口出しをするほうで煙たがられることがあるけども、ある社長の力量を信じてお任せした。最初の1回目の糊付けで普通よりは甘くしかついていないことも感覚的に判断されて最初の糸を持ってこられたときにも、糊の付きが甘い辺りを言っておられた辺りがさすがだなあというところ。

通常だと薄い糊を2回目は付けそうだけど、糸のコンディションを考えて、1回目と同じ強めの糊を付けてくださって、それが私が糸のコンディションを考えて強めにつけて欲しいと頼みたかったことと同じことで、そういう微調整をマニュアルではなく、今の問題をリカバーするために動いてくださる。本麻の先染めのアパレル用の広幅のチェック柄、日本でももうできるところはほとんどなくなっていると思う。というのも、弊社が織れるかどうかというだけでなく、糸のチョイス、染色、糊のチョイス、加工でのチョイスを考えると、着物の世界の布と同じ工程で幅が広い分、ほとんど3倍費用が掛かってしまうので、1回でうまく作らない限りにはトラブルも多く合わないのである。アパレル向けでは値段も合わなくなっているので本格的な本麻の先染織物というのは手がけるところは本当に少ない。

林与は本麻の先染めの道では一番くらいを自負するところがあり、それも、一緒に取り組んでもらえる、同世代の地元の染色工場、糊付工場、加工工場があるというのが強みそのもので、林与だけの力でなくて、日本の麻織物の本場の産地を謳える強みだったりする。ぎりぎりのものづくりかも知れないけどもそういうものづくりが世界でもできないということで評価は高く壁も高くで、やりがいのある仕事の一つなので問題があるからといって手放したくなく、納期も含め海外のお客様を説き伏せてでも日本の本場の麻織物の産地の布に満足してもらいたいと考えている。

産地で私が取り組ませていただくのが現場の職人というのではなくて、現場を現場の職人以上に知った社長の皆さん。今回のトラブルの件でもみんなが動いてくださり、普通だと何ヶ月も掛かるリカバーをこの生産の時期に押し込んでの協力いただき、織だけでない日本の麻織物の本場の布をお使いいただきたい。こんなに苦しむことは何年振りだろうけども、これが高い壁で自分が乗り越えて行かないと諦めれば次に同じ壁にぶつかったときに乗り越えようとはしないだろう。

今の若い人たちが業界に入ってきても日本の市場ではこういう壁からスタートする。素人が一番難しいところを担当するのである。でも、素人だから何十年の職人を越えて行ける部分も多い。要は、目の前の仕事をどれだけこなすかだけのことで、素人も経験者も差は無い。もちろん経験者のほうが経験があるので問題などの予測ができて有利な面はあるけども、人というのは毎年能力は落ちて行くもので、若いときのほうが仕事というのは何でも上手に出来やすいものである。

私の親戚のおじさんも、来ていただいている職人さんもいっておられるが、60も過ぎれば20代の、昔の3分の1くらいの仕事にできることは少なくなっている。私も50歳でも学生のころと同じ気分で、現場の問題も乗り越えて行けるのだろうと思う。
2019年03月06日
昨日午後、私の中学時代からの友人が来て話している中で、その友人は専門の人に任せて分業で行うタイプ。私の場合はまったく逆でなるべく自分でやってしまうタイプ。同じく朝に電話で話した方も友人と同じような、専門分野で割り振ってチームワークでいくのが理想系のタイプ。林与という会社も私が会社に入った先代の頃は、昔は問屋さん向けが95%くらいで、先代も、完全に分業のタイプだと思う。

糸の仕入れなんかでもある糸商さんともめたこともあった。10年ほど昔、リネン100番手以上の糸が手に入りいくいから私自身が動いて海外から糸を自分で引っ張ってくるということをやった。結局それは反対もあったけども、糸商さんでできないことは自分がやらないと仕方ないという単純な結論。もちろん、糸商さんにほかの件では頼むこともあるが、垣根を意識していたらできることもできないで終るだけのこと。その糸商さんは別に悪い糸商さんでもなかったけど、先代タイプの仕事の考え方だったので、先代タイプが通用しなくなったときには違うやり方も必要にはなってくる。一つの物事を成功させるために、できないに同調していてはできることもできず普通でおわってしまってやったとしても評価は低い。苦労もするが自分が使いたい糸を思う存分に試してみることができたのは経験としてはすごく幸せであった。

繊維業界の年配の経験者が無理ということでも、私がやるとできることも多いのは考え方がまったく違うからだろう。経験者のもつ概念的な経験というのがなく、新しい感覚で最後のゴールを目指して新しいものごとをやろうとするのでボトルネックになる精神面での限界があまりなく、できることが多いのであろう。そうやって生まれたものが業界の新しい流れを形成して行くことも多いのではないかと思う。

2019年03月05日
縦糸の糊がうまく付かなくてとか横糸の色が加工すると薄くなってとか、予期せぬ問題がいろいろと起こってベストは尽くしていてもなかなかうまくは行き難い。数メートル織るのにも2週間とかときには1ヶ月とか掛けていたりがある。普通だと1日2日で諦めてその仕事は無理だと判断するんだろうけど、織れると信じて織機を調整する。

これが本当は良くない話で、動いていた織機に糸の問題で調整を掛けるので、織機の調整としては逆に良くないことが起こりやすい。私の場合には、調整した箇所というのは覚えていて、最初の状態に戻せるように考えてはいるが、10数箇所の織機の調整を加えるとそれをまた元に戻すのは相当の労力が必要であったりする。厚い物、薄いものでは織機の調整が異なってくる。

その理由は、前の巻取りと後ろの送り出しのバランスが、厚いものの場合には後ろの送り出しを沢山送らないといけない、ほかにも、厚いものを織る場合には、密度を上げるためにテンションを張らないといけない煽りを少なくする必要もあったり開口を広くする必要があったり開口のタイミングを変えたり、一日中の調整が30cmもまともに織れないままに1週間、2週間つづく、織機をみているようだけど、実際に見るのは糸。

職人さんが麻織物を織れなくなっているのは糸を見ることができないからだろうと思う。親戚のおじさんにしても何十年も仕事をしてきたけども糸の苦しいよみたいな声は聞こえなかったのかもしれない。私自身は、整経という作業を麻を整経させたら日本一、世界一くらいに自称であるがしてきたので、糸一本のテンションの加減も一瞬で感覚で相対的にだけではなく絶対的にも伝わってくるのでそれが麻織物を織るためにも役立っている。大丈夫かの絶対的な感覚が必要で、それは経験でしか生まれないものだと思う。

修羅の道ではあるけど、本麻で総先染めアパレル向けに織れる会社として残れればと願っている、それが林与のデスマッチにつながるのかも知れないけれど。やってみれれば本望で、それに付いてきてくださるお客様と仕事したいなあと思っているばかり、昨日もコンバーターさんを軽く見る話をして喧嘩になっても、一日に数時間でカバー範囲を織物全体に広げて糸から製品まで最後お客さんが買ってもらって喜んでもらえるところまで、うまくいくように動きたいと思うところも多いのであるが、本当になかなか難しいことも一つの問題で起こりうるのは十分承知で出来る限りの思いで動いている。