2019年12月05日
京都の知名度の高い染工場さんから代表取締役交代の挨拶状をいただいた、驚いたのは、後継者不足で株式を他の会社に譲渡される形を取られたこと。残すためにはそういう方法が選択肢の一つだと選ばれたのだろうが、知名度の高い特殊なことをやっておられる会社さんでも後継者がいない。
難しいのは特殊なモノづくりというのは設備や技術じゃなく、人の要素が大きいということ。同じ設備や技術でも実行する人が異なれば同じ結果が得られるとは限らない。特殊な織機を譲り受けてもその状態ではノークレームノーリターンのジャンクでしかないどころか、動いたとしてもまともなものがつくれなければまだマイナス。事業継承というのは本当に難しいものだと思う。
設備や技術があってもそれをどう生かすかというのが実績としてつくったサンプルだったり経験だったりする。設備や技術だけでなく、長年の経験のサンプルやデータが残っていなければ、その設備や技術の価値は生かすまでにまた何十年ものの積み重ねを必要とすることになる。
昨日も、いろんな織機の問題と遭遇、昨日だけでも3つくらいの問題を解決。異音がして動かなかった織機の原因究明、シャトルが挟む問題、送りハンドルを回しても送らない問題、飾りのロッドが一本だけ長くてはまらない問題。織りだしがダブついて織れない問題なんかもあった。織物を一つ織ろうとするといろんな問題にぶつかる、そのたびに手を油だらけに黒く汚して、織っている時間よりも修理している時間のほうが長かったり。まあ、それでも最後には解決して何の問題もなかったかのように動き出す。
誰が答えを教えてくれるでもなく自分自身で答えを見つけ出さないと織機はずっと止まったまま、自分自身で解決するから織物が織り上がる。力が足りなければ織物は織れないまま。たくさん織機があるので順番にひとつづつ問題を解決して織物を一つ一つ織ってゆく、それが仕事。新しい人が同じ経験をして織物をつくれるのかという問題。設備と技術という問題だけでなく、やる気みたいなものが相当ないと一つの工程も乗り越えられないだろう。しかも、人が少ないので総合的な力も必要となってくる。林与の場合、糸が届いてその糸を織りあげ、検反や修正、出荷、時には加工や染色、製品にするまでもを一人でできるようになることが基本、作家的なトータルな布つくり。
結局、必要なことそれがすべて仕事というのが仕事の原型ではないのかと思う。現場の職人というのは一つの作業に没頭できるので幸せだなあと思える、が一方で、体が覚えているだけの感覚だけで仕事をしてしまうため、新しいことに対応ができず、経験のないことに対しては分からないとかできないが増え、初心者ができることでも経験者ができないことが多かったりもするものである。たぶん、それは経営に関しても同じで、自分は経営で作業は他の者みたいな感覚に陥ると、ものづくりも他人事で落ちてしまうだろう。作業している人間の苦労くらいはへっちゃらでないと職人たちに良い方法を教えることもできないし、やればできることでも職人たちのできないわからないが限界となる。
ある意味、職人的の世界というのは作業が苦痛を伴わない体が道具になったようなあたりではあるけども、人が機械と違うのは柔軟性という部分で、柔軟性を欠いてしまうと、機械にも劣ってしまうのではないかと思う。機械を使うときは機械が仕事しやすいように人間が面倒を見ないといけない、たとえば、手でつなぐでなく、タイイングマシーン。人が物事をするときには自分の面倒は自分で見ることができるのである。それが他の人に面倒を見てもらう必要がでてくると他の人を使っているようで他の人に使われている状態なのだろうと思う。
こういう話は自分自身が何十年の経験者が難しいという作業を解決するのが普段の仕事だと思っているので後継もできるんだと思う。問題が詰まった状態でのバトンタッチ、解決する力がなければと思う。織物の会社、正しく織物が織れないと、海外で正しい織物が織れるのが当たり前になってくると、経験者でもそれまでできないわからないで通っていたものが、海外に追い越されてしまう話。後継者問題にしても自分たちの問題を年金のように次の世代に背負わせるのではなく、自分たちが次の世代の手本となれるように自分自身がほかに頼らず完結して仕事するのを見せる必要があるだろうと思う。どんな苦境でも腹くくって自分が受け一人でも背負って、何十年やってきたことでも間違ってる姿勢のものは間違ってるからちゃんとしなさいというような覚悟がないと、惰性的な気分では後継するというのは難しい。ちゃんと地道な作業にいそしんでいるうちは大きくはぶれないものである。職人的な気質もどんぶり勘定な経営者と同じで面倒が先にたつことが多く、それが外が見えない世界につながり、地場産業が衰退する要因の一つ。
地場産業衰退の要因を分析する大学の先生にも地盤産業衰退の本当の理由を教えましょうかというのもそのあたりなのである。同じ設備と技術があって人という要素が大きく、それは仕事の中でのことではなく、社会的な要素に振り回される。巨大文明が一瞬で消えてしまうのと同じで、基本を失って法律ができたりすると、それまでのことが軌道修正もできずに一代で終わるという話は、ひと世代ももたなかった年金制度に通じる。年金制度はその一代の自分たちの将来を面倒見るどころか生まれてくる赤ん坊たちに面倒を見させる制度。法律的には正しくても滅びゆくのも当たり前の緩慢な愚作そのもの。次の世代が働いて解決するのは海外での階級社会的な児童労働を超えた問題だろう。