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リネンや麻を織る日々をつづっています。
ホームリネン日記2022年8月
2022年8月
リネン日記:12
2022年08月29日
ここ数日徹夜モード、起きたら仕事、疲れたら眠る。涼しくなって仕事がやりやすくなった。6月末が結局一番暑かったということになる。太陽の日照時間とのラグがなくなってきたということは砂漠化がやはり進んでいるということだろう。夏至のころが一番太陽の日照時間が長く本来はその時に一番暑いはずなのだが、その暑さを自然が吸収できていると自然界が熱量を木々や草が生い茂ることに使って結局8月が暑いというのが今までだったんだろう。

暑さで体調が崩れてはいたので、めずらしく市販の漢方薬を飲んでみた。これが本当に良く効いたのか、頭がすごくすっきりとして眠気みたいなものが消えた。若い頃っていうのはそんな感じだったんだろうというような感覚に戻った。平気で3日でも徹夜とかできたのが、周りに合わせ始めるとそういうのが出来なくなってきて、自分の能力を最大限に発揮するというのは本当に大事なことだなあと思う。仕事というのは仕事の中に空き時間があるようなやり方で仕事するとすごく疲れる。機械待ちをしないようにフルに効率よく動けるかどうかが大事なところ。

織機が止まるのを待っているような仕事ぶりではいつまでも一人前の仕事は難しく、高度な織物にはつながらない。今、織っているものは昭和の時代には無理だったような織物が多く、当時私がそれを企画したとしても現場の人たちがそれを織ることは無理だっただろうと思う。織ってもボロボロで売るのが難しいというような問題だらけの結果にしかならないだろう。最初はそうでも経験でそれを乗り越えて問題を解決してゆくようなことが大事なのだけども、できない人にはできないものである。最初から出来る人というのがやっぱり大事でそれは人生観みたいなもの。
2022年08月20日
この週末は織機の一台を設置しようと動いてみたがうまく行かずで、来週に。かなり重めのビームを地元の友人に手伝ってもらって下す作業。友人は2回目の作業で、前回よりも重いビームなのでお疲れ。糸だけで80kgくらいか?ビームを入れると、130kgくらいだろうか。

織らないといけないものの縦繋ぎ縦繋ぎ、もう一個前のはタイイングマシーンで繋いだ、今回のは手で繋ぐのだけども。思い出すのがスタッフの子がまだ慣れていなくて糸を指の関節のところで扱うので指の関節の部分に糸が食い込んでそこが出血してテープを巻いて作業、可哀そうだけども、慣れて指の腹でそれほど力を使わずに扱うみたいな感じになるまではその状況が続いてしまう、そういうのは苦痛だろう。数をこなしして行けばコツをつかんでやり方も変わって力も必要なくなってくる可能性もあるのだろうけども、コツをつかむためには自分のやり方を変えようとする積極性みたいなものが必要だったりで、早くたどり着ける人もいれば時間が掛かったりたどり着くことを断念してしまうケースもある。

手で繋ぐ以外にもタイイングマシーンで繋ぐのもあるけども、それも何十年もやっている人でもできない人が多いし、出来る人は最初からやって出来るし、できない人というのはいつまでも出来なかったりが普通で経験の長さよりも毎回の仕事の深さみたいなものが最後の結果には大きく影響をしてくる。1回2回やってみて後は自分でできるくらいの人でないとこの仕事は難しいのかもなあと思う。出来る人は1回2回一緒にやるとその後は自分でどんどんと進めていける。手順など覚えないといけないし失敗しないように注意しないといけないし、いろんな理屈を分かって進めないと道具や機械が壊れたりするので、出来る人とできない人の差というものはあるだろう。

縦繋ぎで体を前かがみになって作業をし続けるので、最初はそこにも力が入ってしまうから、それも早めにコツをつかまないといけないのだけども、コツをつかむ前に作業を中断してばかりになってしまうと、コツをつかむところまでたどり着けないとかもある。忍耐力みたいなものがあるとそういうのを乗り越えやすかったりもする。そのうち自分との我慢との戦いが作業中にあるうちというのは大変だろうなあと思う。

織物の仕事をやっていない人でも、仕事経験の長い人というのは案外そういう作業でも初めから忍耐強く出来たりするから、他の仕事にも共通の要素だったりはするものだろうとは思う。指の動きの速さにしても手が小さく指の細い人のほうが器用なことは多いが、それよりも今までの仕事経験みたいなものがあるのかないのかと、実際に目の前に作業があるときにそれをどれだけ早く正確にこなそうとしているかが伸びしろ的な部分。
2022年08月17日
今、ビルゲイツ氏が来日、昔、ダイアナ妃が京都に来たときに、同志社高校2年のときのクラスメートの女の子3人が授業を抜けてダイアナ妃を見に行った。すごく大人しい女の子たち3人だったので、驚いたのだけども大問題になった、それは今となったらその女の子3人にとっても、逆に意味のあることだったりもする思い出だろう。大きなリスクとなっても心躍ることなんで一生でわずか数回だろう。

私もアメリカでも語学プログラムで皆勤を目指すタイプだったけども、先生方の好意で、実践的な英語学習ということで、午前中、サンディィエゴのダウンタウンの劇場での演劇を見た後に、ルームメイトたちに誘われて午後は、授業を休んでウェイルウォッチング。午後のクラスには半分以下くらいの生徒しか出席していなかっただろう。でも、それがいわゆるピアプレッシャーであったりもするが、学校の授業よりも、生きた経験から学ぶ。語学プログラムというのは形式的なもので、自分自身が自由にアメリカの中で生きてゆくのが最終目的で、ウェールウォッチングもさらなるチャレンジで悪くないだろう。

サンディエゴの語学クラスにも16人のうち、私を含めて4人の日本人がいたけども、教室では話す機会はなかったし、プライベートでも3か月間一回くらいしか日本語で話をしなかった。4人ともなんの約束もしなかったけども、4人ともがその覚悟で、でも、最後のお別れ会が担任の先生のアパートであって、お別れだったので日本のどこから来たのとか始めて4人で日本語でしゃべったら、先生のルームメイトが日本人はいつも日本人ばかりで駄目だと注意されて、先生がこの子たちは違うのよと先生のルームメイトに説明くださってた。そんな良い先生を裏切って、ウェイルウォチングしたのも、良心の呵責にさいなまれながらも、林与にとっては結果としては良かった思い出。結局、学校の授業よりも実社会でも目的をもって行動に移せる人のほうが強いのも当たり前で、発表のために準備を一生懸命する人よりも、なにも用意せずにその場で自由に発表できる人のほうが何十倍も強い。

サンディエゴの語学プログラムではスペイン語圏やポルトガル語圏の人たちがスピーチしだすと30分でも40分でも止まらない人がいて、先生が止ようとしても止まらないくらいで、生徒のスピーチが長すぎて授業が潰れちゃったというような、もはや英語の語学の授業というよりも自分の主張をどこまでも伝えたいような世界。何もみずに1時間でも2時間でも自国の歴史を英語で話せる人がいたり、なんか語学云々以上に伝えたいことを盛りだくさん持っている人がいたりする。

なんかそういう自由な人たちに囲まれて生活したときには劣等感すらも感じたけども、そういうのが世界では普通のレベルなんだというような意識も生まれる。そういう能力はなくても、幸い私は海外ルームメイトはじめとする友達にも恵まれいろんな考え方や経験を積むことができた。数学でいうと最大公約数じゃなく最小公倍数的なところで生きてゆくのが良いのかなあという感覚。自分でできるできるを増やして行くが大事で、その考えというのは、林与が織物をする上でも他の織物業者さん以上に役立っていたりする。腕白でもいいたくましく育ってほしい丸大ハムみたいなのが結局よいんじゃないか。
2022年08月13日
台風というのは日本では大風(おおかぜ)と昔は呼んでいた。中国では台湾のほうからの風ということで台風だったらしく、それが持ち込まれて、日本でも台風と呼ぶようになったという説が有力というか、他にそれらしい説明がないのが台風。

日本だと大風(おおかぜ、タイフウ)で良いのだろうけど、中国文化というのは江戸自体までは日本の行政に大きな力を持っていたと思う。よく言われる科挙の制度なんてものは、今の日本の公務員制度の原型のようなところで、現代日本の理想とするモデルが古代の中国モデルであるのも階級社会的なものをどう維持してゆくかという、古代の中国の為政者が人々を強固に縛った中国の知恵が現代の日本の行政にも生きているのだろう。

そういう岩盤的な役人組織をつくって、それを支配することで、統治者が意のままにアンタッチャブルな世界で統治する。統治者というのは欲の塊でそういう岩盤的な役人組織をトップダウンで利用して、国民の切実な思いをくじいて国民を苦しめ意見も言えないほどに弱体化させ、従わせることで力を増して、自己の名誉欲とか権力を増して行く、それは歴代の王政でもよくある末期状態の階級社会。

日本の良いところは、宮中行事で稲作や機織りがあったりして、トップがそれを実践するところからという地道な日本の礎。今の政治家たちにはそういう礎を実践する気持ちもないどころか踏みつぶすばかりで、日本の人々が幸せになるという心の文化が政治家たちの欲によって失われてゆくのを感じる。

損得主義の浅い世界に身を沈めてしまうとそこから抜け出すことは本当に難しい、それが人間の一生の人生観だから、頭が良いとか賢いとかでほかのまともに働く気持ちを見下してそれにゆうどうすると、なにがおこるのかというとまったく成り立ちもしなくなったのに、今度はそういう成り立ちもしない人たちが欲にまみれて正しいと死ぬまで業界を食いつぶそうとするような世界が広がる。

林与にしても、私が先代の驕りの世界を封印して正常化で、先代の撒いた驕りの世界が私を食いつぶそうと来るのを、ほんと年だけ取って人間として駄目な人たちを、一人一人正していくようなところから。分かるのは自分の親でもそんなもので地道に働くを馬鹿にして儲け話ばっかりで逆に鴨的な田舎の旦那衆の典型。それが見えずにどんどん落ちてしまうのが田舎的な地場産業で本質すらも失いがち。

林与が産地偽装とか品質偽装をしたくないのはその辺りで、産地偽装、品質偽装すれば何億でも簡単だけども、損得ばかりじゃなくプロとしてまともな世界を守りたい。私は実際繊維の世界の人間でもないとう外からの目があるから、それは大手企業が繊維を見る目と同じ様なところで、一番くらいにそこに地場産業が価値を感じないと地場産業の価値すらもないんじゃないかと、先代や人世代前の人たちとでも喧嘩するも当たり前なのが林与という個人だったりする。ものづくりに関してとか働いて答えを出すということに関しては、働き始めた25年以上前から、ひと世代前以上の覚悟は当たり前でやってきたから、
看板商売を勧められる方も多いけども、林与が損得に走ったときには、何十年も熊本のアサリ規模の被害が広がる。熊本のアサリもほんの数%だったけども本物の産地産を守っているのがあるのが救いで、それがなくなれば地場産業自体が信じた地場産業なのに偽装とかではお話にもならない世界。

小さな世界なので、日本の麻糸の流れすらもすべてが教えてもらえるような麻の世界、偽装があったらすぐに分かるのだけども、偽装そのものが商売である業者さんも多い。半年以上在庫糸を持つなという業者もあって、営業マンに麻糸の販売をノルマ着せられて売らないとクビになるとかだと騙してでも機屋に売るのが仕事になる。そうするとすごい謳いの糸が素人な麻糸もしらない機屋さんに回ってアイリッシュリネンに化けたりで、関西はそれなりに昔からのまともな繊維な商売だけど、関西以外からはありえない話で林与でも2000年以降はいくら探しても手に入らないアイリッシュリネンが出回ってそれが、高値で最高のものとして売りさばかれた、林与はすべての裏を知っている存在なので本当にそういう麻業界の儲け主義に走るばかりの裏を正したいなあと思っていて、それはまさに熊本のアサリの儲け主義な産地偽装そのものな世界で、それが日本の麻業界ならリセットが必要な話。

産地偽装で儲けたい日本の麻業界の体質は消費者偽装そのもので、糸がどこで紡績されているとか、布がどこで織られているとか、本当の産地要件を偽装して消費者を騙して高値で売り抜けたい業者さんが多すぎるけど、それがその業者さんの商売なので変わることはない。林与は日本の麻織物の本場というだけでなく、本場で一番麻織物にこだわって来たという意味でそれが駄目ならもうつぶれたほうがマシなのじゃないかと思っていたりもする。それほどに、本場の産地産の本物志向を貫くのは難しい。

麻織物の歴史を本当に知っておられる方なら私との話も普通に出来たりもするのだけども、麻織物研究家レベルだとスポンサーがお金出してくれなかったら辞めるとかで、なんで70の爺さんが学生レベルで業界を支える気持ちもないのかと、林与のことも知られない話で、私におたくは誰の世界。麻織物の世界で林与をしらないのは、明治にさかのぼっても難しい話で、外村家、外与家さんなど、市田さん、伊藤忠さん、丸紅、森吾商店など、明治大正の時代の日本の麻織物業界の知識もないのが残念で、林与自身は、まだお付き合いが生きていたりしてそれは昔の歴史の話じゃなくて家やその後継者の方との日本の麻業界がゼニゲバにならないように昔ながらのお付き合いみたなところ。林与の家も旧の愛知川町の麻織物の歴史を書かせて頂いているような家だけども、私以外にそういう昔のことを知っているような人は、私の話することは旧の豊国村の近江上布の世界を育んだ織元の話として、非常に慎重に貴重な話と聞いてくださる。

5年ほど前に私にお会いされてその研究家の方も近代麻布的な麻織物の世界というのが、数軒の麻織物の織元によって生み出されていたのだということに気がつかれただろう。60番手クラスの大麻のプリント布を最高級と謳われていたのがすごく違和感で、組合にある100数十番手を超える絣の国宝級のものに目がむかいのが、麻布を見る目がまったく駄目で、柔らかいものがすごいというのは洋風テイストで、江戸時代などは硬いしっかりした麻布こそが高級だったというような基本的な麻布の価値感すらもなくでは本当に麻布の歴史を語るにも厳しい話。
2022年08月12日
昨日は京都から青土さんがこられ進行中の案件を煮詰めに、全員それなりに年配?なのでバブルのころを知っていて、そういう時代もあったよなあという不思議な感覚だったりするから、ある意味、みんな今の時代の感覚で生きているというような辺りを感じる。

私も倉庫にある手績みの糸を手織り機で準備して織ってみたいなあと思う思いがあって、経糸の件、横糸の件、その糸が使えるのがそれが普通なのか聞いたりもできて、できそうな感じなので、一度10月のイベントに向けて手織り機の1台を立ち上げてみようかと思う。

倉庫の手績みの糸は糊付けされて、昭和27年の新聞にくるまれて箱に入っている。昭和16年の戦争が始まってから、麻織物はぜいたく品として禁止されたので、戦前につくられた手績みの糸が行き所がなくなり、林与の与一爺さんが在庫をすべて買い占めたものではないかと思うほどの量。林与の戦後の絵絣の近江上布は紡績の糸を使っていたので、与一爺さんは江戸時代以前の上布の再現用に買い占めたのではなかろうかと思う。赤苧大絣とよばれるものが、赤味のある味わいのある色で、その世界に使う糸なんだろうなあと思う。

10月の大阪のイベントで織れたら楽しいなあとまた、10月末まで工場の中の仕事で手いっぱいなのに、また要らないことをやろうとしている林与がいたりする。そういうプロジェクトにしても、林与の夢的なものではあるけども現実性のある夢の一つ。なぜ当時の糸が今もよい状態で残っているのかというと、糊付けをして新聞紙にくるんであるからというあたり。

その倉庫の奥の押し入れの中で、林与の数万枚の戦後の近江上布のアーカイブも見つかった。技法的な部分がそのデザイン性を引き立たせていて、色柄の日本的ながらモダンな感じが林与の近江上布の特徴で、特に染に関しては色の深さなど林与らしい特徴がある。私でもいまその与一爺さんの世界に迫れるのかというのとその1枚にすらもなかなか及ぶことができない。

与一爺さんは、近所のそれなりの方がいわれるはキチガイだったと、それほどに怖く周りから恐れられていた人だったが、農村で農業しかなかった村で、近江上布を織ってもらうことで、大卒並みの現金収入をもたらした。与一爺さんの芸術的な要素と、勘平爺さんと勘一爺さんの愚直な仕事による染の要素、そして親戚を中心とした村の人たちの織の要素。厳しくないと日本の一番の売り場で通用するようなものは難しいから、その厳しさゆえに裕福な村は裕福になりえたのだろう。私が今みても林与の近江上布の完成度からして今の時代にはない厳しさが見て取れる。大島紬のち密さとは違うような、揺らぎの世界のなかに感じる厳しさみたいなもの、当時の人の人生観みたいなものが感じられるのである。

実際、展示会などのイベントなどでも、近江上布アーカイブを心が和むと見せてくださいと500枚ほど絵を2時間とかじっと1枚1枚眺めておられた方もいままで何人もおられた。布が語り掛けるような世界があって、私もその布が語り掛けるを感じることができるタイプなので、そのあたりが仕事をしているうえでも織物の技術だけではないデザイン的とか感性的な部分。林与の近江上布はぎれにしても残してあったのが奇跡みたいな資料ではある。それも与一爺さんのものづくりへの思いがあったから。林与ロゴも与一爺さんのつくったもので、林与の外の上の空いたカッコは、一で林与を囲んだデザインなのである。林与一という名前だから、林与ロゴができたのであって、他の名前だったら林与ロゴも存在しなかったかもしれない。
2022年08月10日
高齢で廃業される機屋さんを片付けておられる機料屋さんの話で、屑鉄の相場が60円から37円に下がったと。これは国内の問題ではなく、中国での建設需要が軒並み減ってきたということであろう。中国バブルの崩壊が実際に始まっているという話だろうと想像をする。

日本の場合の土地バブルと違うのは、中国の土地バブルは投機目的が多いといわれ、自分が住むのではなくて将来の値上がりを見込んで高く売るために買うという目的で、銀行に借金をして買うから、私のよくいう借金したら儲かる時代が中国に来たということで、それがすごく速いスピードで崩壊し始めているという感じだろうか。なんか日本のバブルと被り、早く分かって逃げたもの勝ちなのだけども、一度おいしい目をすると局面が変わってもそこから抜け出せないというのがよくありがちなパターン。

日本と違うのはスピードの速さで、日本は30年掛けて土地神話が崩壊したけども、中国の場合は2倍3倍のスピードで、マンションバブルが広がった。中国国内の物価の上昇も激しくて、たぶん、上海だと日本の東京や大阪と逆転してしまっているだろうと思う。ローソン、ファミリーマート、セブンイレブンが日本と同じように中国全土に展開しており、ドリンクやアイスの値段はもう日本と同じか日本よりも高いのが普通で、10年前はまだ逆転していなかったが今は逆転状態。

逆にいうと中国での生産が内需に向けられ始めていて、世界的にみると中国での生産というのはコストメリットはなくなってきたということで、中国もサービス業へのシフトが進み、先進国として輸入大国に代わってゆく流れになって来る。繊維製品の95%以上が海外製品である日本の繊維業界というのは、繊維製品に関しては、ベトナムへやインドでの生産への移行が進んでいるようではある。繊維製品の特長としては日本的なものづりは中国国内でも生きるということ、中国のファッションも欧米というよりはアジアンテイストで日本テイストなファッションに私は思う。中国でSMAPが人気だったとかもファッションテイストの一つである。そういうところは若い人たちはインターネット時代で国境を越えて敏感なのである。
2022年08月09日
8月5日に三宅一生氏がなくなられたということ。林与も昔にお取引のあったブランドで、布文化を大事に思ってくださるデザイナーで、日本の布文化を世界に発信しておられた。バブル崩壊後も、他のブランドが勢いが落ちる流れのなかでも日本を代表するブランドとして強く存在をもっておられたのも、日本の布の文化に対する強い使命感を持っておられたからではないだろうか。

林与の生地にしてもパリのコレクションで使っていただいた時には、生地をどれだけ魅せるかというところがポイントだったらしく、縫製の方には申し訳ない話だけども縫製にお金をかけるよりも、生地を使うことにお金を掛けるというようなことを大事にしておられたと聞いている。普通はデザイナーだったら洋服や縫製へのこだわりとかだろうに、布を布のままみせるような、布を羽織っているだけの衣装でもよいというようなコンセプト。布をデザインすることに力を使っておられるブランドの代表格。

プリーツプリーズなどにも林与の生地を使っていただいたのだけども、林与の織物への意気込みに賛同くださって使っていただいた感すらあった。先染織物の場合に色の濃淡などで物性の違いなどが出てきてどう問題を解決するかとか物性的な問題で頭を悩ましながらも取り組ませて頂いていたのを思い出す。アパレル向けの生地を一から作るような先染めの織物工場にとっては仕事らしい仕事だった。

林与も40代前半までくらいのころにそういうのをやらせてもらっておいて人生経験としてすごく有難かったなあと思う良き思い出で感謝の気持ち。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
2022年08月08日
何もやらないで0よりも、何かやって終わってマイナスの方が結局意味があったりもする、と思うことは多い。何かやって終わってマイナスでも他の部分でプラスを作って成り立たせてゆけばよいみたいな考え方でいつもやっている。普通に仕事をこなす部分でプラスをつくって余力を作って、普通の仕事で生まれたその余力の分を普通の仕事とは違う部分に使うというやり方が一番理想だと考えている。

何かやるにしても、基本的な部分でプラスのことを軸にしていないと、夢を見ているようなことばかりに時間を使って考えていてもなかなか到達もしないし現実的でもないけども、新事業みたいな計画とかはそういうところを評価するようなところがあるので、それならそれでそれを一本に早めに実現してみる形をとるというのが良いだろうと思う。結果が悪かったら軌道修正してとりあえず目標に向かうとか。

林与の普段のものづくりもそんな感じで、お客さんの生地の企画をするときにも綿密な織物の機の規格なんてものを一生懸命議論しても仕方ない、織ってみて生機見てその生機がどんな感じなのかで判断するとかしないと、あと加工したり簡易的な洗いのテストをしたりとどんどんと現実に近づけてゆく。一つのアプローチだけでなく、いろんなアプローチを知っていることが大事で、それぞれの違いやどういう組み合わせがベストなのかを見つけ出すことが他と違うものづくりにつながったりもする。


林与の場合、やわらかリネンストールなんかでも市場最初に自社企画で作ったものなんか今も手元に残っているけどもそれが一番くらいに良い感じだったりもする。それも自分自身が家のなかで薬剤などを研究し洗いを掛けただけもものなのだけども、自分的には素敵に見えたりする。そういう生機を加工工場さんにお願いして量産向けに似たような仕上がりになる加工をお願いすると、そっくりとは違ってもそれなりに量産に向いたいい感じのテイストで上がってくればそれは一つの方法。

林与自身が柔らかリネンストールに没頭して、それまではリネンストールというと硬かったのだけども、柔らかいリネンストールを細番手リネンを使って生み出したパイオニアではあって、それが展示会を通じて全世界に広まったというような経緯もあったりする。ストールブームのピーク時には、ほとんどのリネンストールが柔らかいリネンストールの流れになった。

リネンハニカムなども今は普通になったけども、林与がPRに取り組んだプロジェクトの一つで、4枚ドビーでのリネンハニカムに取り組んで、PTJでPRすると、すごく簡単にリネンハニカムブームが生まれた。最後サンプル用にに取っておいた2mも、私の友達が欲しいと言われて譲ったが、その時は次に1年もあれば量産できるだろうと思っていたけども、なかなか作る時間を作るのが難しく、もう10年くらい経ってしまっている。海外輸出もできたリネンハニカムで思い出は多い。

またリネンの藍染プロジェクトも、それまではリネンというのは色落ちも激しいので藍染は案外避けられていたりもして、くすんだ藍染などが多かったのだけども、紺久さんとの取り組みで、リネンの140番手アイリッシュリネン本藍染ストールをお披露目した。それというのは奇跡的な一品で今もう私の手元には1枚もない。これはサンプルだから売れないといったのだけど展示会で海外のデザイナーの方が自分用に売ってほしいと懇願くださって、この人に使ってもらうのが良いのかもと思ってお譲りした。まだ再現できる自身の有った頃で、今はそういう夢的なリネンプロジェクトにしても、それよりも今の林与のお客様の仕事を優先して地道に作業していくのが大事。

林与の中でとりわけリクエストの多い十文字絣にしても、設備はあっても私にしか織れないような織物で、それも糸も完璧ですべてが整っていないと、ああいう芸術的な麻織物の世界というのは作り出せない。最後に織った100mほどでも、キズが多かったので、キズの箇所を減らすために私が数百倍の顕微鏡画面を見ながら、縫って5か所6か所を1週間ほど掛けて修正したりもした。将来日本であのクラスの麻織物が作れるのかと言おうと難しいだろうなあと思う。

リネンデニムなんかも、海外への輸出実績も頂いて、中国の第一回目の国際テキスタイルコンテストで総合の第3位を受賞出来て、リネンデニムもそれまでは難しいと言われていたものを量産に成功したのが林与で、世界中に広めた。尖閣諸島の問題の有った2週間後ことで、受賞したタイミングとしてはあまりよくなかったのだけども、授賞式も楽しみに出席して中国的な壮大な国家事業的なテキスタイルの式典を経験できた。

昔の林与の近江上布柄をプリントで再現する、林与ジャパンプロジェクトみたいのもやってみた、最初20柄は凄くうまく行ったのだけども、そのあとデータ作成する人が変わったりプリント工場の社長が亡くなられたりと、次の20柄は最初の20柄とは雰囲気が変わってしまって断念、仕事というのは人というのが大事でやっぱりいろいろとあるなあと実感である。

アイリッシュリネンハンカチプロジェクトも壮大なプロジェクトではあった、謎だったアイリッシュリネン紡績が来たアイル乱でにまだ存在するのかという問題の答えを出したプロジェクトで、倉庫で見つけた1970年代に購入したアイリッシュリネンの糸を織ってみたプロジェクト。

そこそこ良い感じの個性のあるものを作っただけでは、不発に終わることも多いのだろうけども、応援くださる方もたくさんいてくださって、つくればメディアに取り上げていただいてそれが日本の麻業界のトレンドの一つとなったり話題になったりで、応援くださる方に恵まれていたなあと感じることも多い。最近は、自分自身よりも次の人に譲って同じような経験を若いうちにしてもらいたいという気持ちではいたりするが、世の中にないような麻織物の一つのジャンルを作ったりするとかは、日々の仕事以上に超えた力が必要だったりもするので、普段の仕事の作業に意味を感じてできる人でないと、新しいジャンルの世界をクリエーションしたとしてもそれは普段の仕事の作業以上に何倍も重い仕事で、それを普通の仕事としてするのが高度なレベルの仕事をやってるということだろう。

林与の今のリネン織物の場合、定番のソフト仕上げシリーズを除いては、どれもが普通よりも少し以上は高度な仕事。定番のソフト仕上げシリーズも生成となるとシャトルで織るので色ムラの問題をなるべく出さないために高度な仕事の要素もあったりしてそういうの普通にできないと定番のソフト仕上げシリーズですらも織れない。そういうのが林与の織る人によって同じ織物で答えが違ってくるようなあたりのモノづくり。
2022年08月07日
左腕の触ると痛いのは更年期障害というやつだろうか、よく年配の人が節々が痛いみたいな症状が、私の左腕に出てきているのか、左腕というと子供のころから剣道やってて一番使っていた部位ではある。それが今、仕事でもモノを運ぶときくらいしか力を使わなくなって、筋肉なんかも衰え始めているのが影響をしているんだろう。

逆に仕事が目の前にあっていろいろと重いものを運んだり、作業したりを当たり前にやっているうちというのは、大丈夫だろうと思う。そういうのやり続ける人とやらない人の差というのは大きいだろうなあと思う。

昔、中国で新幹線に一人で乗ったときに全部指定席だって、通路を隔てた隣が20代くらいの女優のような女性で、その横が子供をつれたお母さんだった。子供をつれたお母さんは子供がその女優のような女性の席を取ろうとしているのを取ってしまったら得だと考えているようなお母さんで、どうなるんだろうと見ていたら。

20代のくらいの女優のような女性は子供に自分の席をあげた。全席指定席だから自分が座るところがなくなるのだけども、嫌な顔も見せずにもめもせずに立ち上がって、子供はその席に座って勝ち誇ったようである。乗務員が来て注意でもするような感じでもないだろうはその女性はたぶん、空いた別の席をもめずに買うつもりだろう。
2022年08月05日
今日はこの半年ほど気になっていた織機の問題を織機を分解して解決。どこが原因かまず分からなかったので、織機のそれぞれの部分がその問題と関係あるのか見て行って、見えないところは分解して確認して見て問題がないか判断。そうやっていくうちに問題の箇所が見つかってそこを直したら直った。

ずっと気になっていた問題がようやく解決してその織機を使うのも注意せずに、他の織機と同様に扱うことができるようになった。ほんと時間がなくて、そういう問題もじっくりと見ている時間がないのである。次々とやらないといけないことが迫ってきていて、どこまでやれるかとの戦いみたいなところがある。考えている暇がないので、直線的に作業に打ち込む。

今日は朝は、空腹感の中での仕事、体も軽くて次々とものごとが進んでゆく、お腹がすくというのは煩悩的なことの一つでそれを我慢して克服した状態だと他の暑いとかも消え去って、ただ目の前の物事を前に進めることだけに集中ができる。

私が苦手なのが、不毛な会議とか、企画会議しているくらいならベストそうなアイデアを試しにやってみてそれが駄目なら改善していくということが結果が分かりやすい方法。昔から、私が考えても、何十年の人たちでもその考えたことを言った通りにはやってはくれないということが多く、それは私の親とかでもできないような話で、私が私自身で作業するとその思っているものができるのだが、他の人には同じように同じものを作ることができないことが多い。

頭で考えたことをそのまま形に出来る人というのは少ないのである。それはまず理解できないという問題もあるだろうし、理解したくないという問題もあるだろうし、特に年配のひとだと若いものに指導されるみたいなことが嫌だったり、できないところを見られるのが嫌だったり。私がミシンを習ったのも最初2時間若い人からで、シャトル織機の修理は最初から自分でやったが織るのは若い人から1時間習った。縦繋ぎも30分ほど。若い人も私がすぐになんでも覚えるのでびっくりして私が能力あるって分かるけども、私がそういうのを見せないと私が仕事ができないで偉そうみたいに思われたりもする。

年配の人というのは若い人に教えることはあまりなく、触るな触るなと偉そうにいうひともいるけども、そういう人は大したことをやっているわけでもなかったりする。そういう偉そうにいっている人ができれば任せるができないから、織の専門でもない私が解決しないといけないことも多かったのである。当たり前に問題を問題のあるまま進めてしまうようなくらいなら後で大きな問題になるから仕事は無理な世界なのである。
2022年08月02日
長栄座のイベントもプレゼントのキッチンクロスを作るだけでも時間を使ってしまって、夜中から手織りの整経を初めて織機の準備をしたりと、ぎりぎりのぎりぎりの作業。キッチンクロスを洗って乾かしたりにもこだわりがあって、植物系の天然の薬剤しか使わないナチュラルな加工で仕上げ、アイロンも掛けずにリネンの良い雰囲気そのままを見てもらって選んでもらう。

今回ブースのディスプレイには時間がなかったので、他のブースよりはブースのみたくれがわるかったけども、手織り機2台と、テーブルの上の山積みのキッチンクロスが、そして若い女の子二人がブースを盛り上げて、たくさんの方に林与の存在を知ってもらえた。

そしてキッチンクロスは、2年、3年とお家で使ってもらえ、日本の麻織物の本場、近江の特産品の麻織物の良さを実感してもらえる。リネンが好きな方は大喜びしてくださるし、リネンが初めての方も林与のキッチンクロスで麻のふきんとしての良さを味わっていただけたらと思う。

林与のキッチンクロスは、案外、洗って干すのを楽しみにしてくださる方も多く、使っていくうちに段々と柔らかくなって馴染んでくる。汚れたりもするけども、使えば使うほどに捨てるのがもったいないとおっしゃってくださる方も多く、一度お買い上げいただくとヘビーローテで使っていただいても長持ち。

普通の綿パイルのタオルや、綿の布巾とは違う、リネンのキッチンクロス。林与の工場の中の旧式のシャトル織機で1時間に2mくらいのスピードで織っておりまして、近江湖東産地の老舗の麻機屋の一品です。ばたばたしながらも来場者の方々に楽しみを感じてもらえるようなロビー展示になったこと、また多くの方が林与のキッチンクロスをお使いいただけること、林与自身すごくうれしかったです。
2022年08月01日
長栄座のロビー展示で、地元愛荘町のお客様から、旧秦荘町の蚊外にある金剛苑さんが閉館されたというお話を初めてお聞きして驚いた。川口織物さんが運営されていたのだけども、観光バスで他県からもこられてお昼ご飯を食べてもらうのだというお話を、川口織物の社長が林与にみえられたコロナ前のころにお聞きしていて、6月とかに毎年生地の特別セールをやったりもするとか、地域の拠点づくりにも昔から動いておられて実際のお客様対応や広い敷地の管理など大変だろうなあと思っていた。

川口織物さんも若社長が現場で本麻織物を織っておられるというお話を聞いていて、私の若いころの苦労と同じで大変だろうなあと思うばかり。もう年配のベテランの現場の方も引退されたのではなかろうか。本麻関係の需要規模も相当小さくはなっているけども、若い世代のひとが引き継いで産地に残して行くというのは産地全体としても大事なことだと思う。そういう麻織物の文化がどういう形で産業的に残っているのかというと、それぞれの会社が現実的な織物の仕事をすることで産地の特色が残って来たし残ってゆくだけのことだろうと思う。

林与は今は地元の麻関係の組合には所属していないので、地元の業者さんのことも知らないことが多かったりで、それでも織物の業界の同世代は一つ前の世代の拡大期で羽振りが大きかっただけに、その後の片付け的な縮小期での仕事人生ですごく苦労されているので、その分気の毒だなあと思う。林与なんかは先代が亡くなったときに、途方に暮れるでなく、昭和的な繊維産業の感覚からの脱皮で会社の立て直しから、これからは自分がやると割り切ったのが正解で、やれることはすべてやってみようという姿勢でそれに共感してくださったのは、全国の人々また海外の人々。

自分が布を見る目があるのかないのか、それって本当に大事で、それは私が作った布が展示会などでハンガーラックに私が良いと思うものと普通のモノを一緒に200点くらい掛けておいて、私の良いと思うものをどのくらいのデザイナーさんや素材の発掘のプロが選んだかというのが参考になる。テックスワールドパリでは、林与のブースは一番小さかったけどもクールで高級なイメージだったと自分では思った。

2012年のパリの展示会でも、初日の最初初日旭化成の方と30分くらい話していて、次は繊維ニュースの記者の方、ホントの最初のお客様が外でじっと外で待ってくださってるファッション系の学生さんなのかなあと想像する。服を自分でつくっていると、自分の今年のコレクションブックを私にこんな服をつくってるんですと見せてくださる。ナチュラルテイストな良い感じの作風。その方が言われるには、ヨーロッパには良いリネンがないから、今日は良いリネンがみれて本当に幸せだと言ってくださる。アイリッシュリネン生地をすごく気に入ってくださってでも値段が高すぎるので無理だと、なんか、誰か分からなかったけども、すごく林与のアイリッシュリネンことを気に入ってもらえたので、1枚だけディスプレイ用に持って行ったアイリッシュリネンのハンカチを記念にプレゼントした。当時ベルギーで一番有名位な天然素材系の人気のデザイナーで日本でもブランド展開されていたソフィードールさんだった。私もヨーロッパでのアイリッシュリネンのことを知りたかった調査的な展示会出展だったので、いろいろと聞いたけどももうヨーロッパには良いリネンはないというようなお話だった。

私自身が麻布にもつ良い感じというのは、それが林与の麻布のテイスト。布というのは言葉みたいなもので、デザイナーたちに語り掛ける。布がデザイナーたちに語りかけるものは多いと思う。林与の中にヨーロッパが失ったリネンの良い感じが残っていたりもして、ブランドの古参の方や重鎮の方が他の方に紹介してくださり、林与のブースを見てくださるケースも多い。私のものづくりだったり、先代のものづくりだったり、おじいさんの近江上布のものづくりだったり、と日本の近代以降の麻業界の歴史を凝縮したようなものづくりを海外のかたに見てもらえるのが林与の海外でのプレゼン。今の生地をかってもらうよりも日本の織物のものづくりの世界を知ってもらうというのも展示会に来られた方にとっては意味のあることではないのかと思う。そういうのが林与の本当に強いところで、林与のものづくりがリネンの本場ヨーロッパの方にも評価してもらえるあたり。JETROの商談会でもロンドンの生地やさんが、林与の近江上布のはぎれをみられて、アイリッシュリネンなんて忘れたほうが良いといわれ、林与の近江上布のはぎれを宝もののように思ってくださるとか。