2023年10月14日
昨日は、夕方6時30分から集落のボーリング、だれもが10年ぶりくらいのボーリングだったそう。結局、綺麗に各区8人づつくらい参加者があったので声かけて調整もあったのだろうか、でも、気軽に参加ができるイベントなので頼みやすいとは思える。運動会からこういう軽いイベントに変わることで高齢の方でも参加がしやすいと思える。2区も80近い方も参加くださっていたし昔のボーリングブームを若いころに経験されているので上手だった。
ボーリングは15年ぶりくらいだったけども、結構流行っているようで、スタートの7時までも子供たちのグループがレーンを埋めていたし、スタートして貸し切っていたレーン以外の部分も他のグループがプレイされていて、貸し切ってた15レーンが終わった後も次のグループがイベントをされていたので、今はボーリングもかなりブームなのかなあ。来年は借りることができない可能性もあると言われていたりする。
若いころの思い出で思い出すのが、昔は、夏祭りも大学入った年とその次の年の二学年が担当をして準備していたが、1年目の祭りで一年上だった高校を卒業して農業やってたやんちゃだった人が、大学に行ってた私なんかよりも人をまとめるのが上手で大人社会のハーモニーを重視して、仲間外れや仲間割れになるようなことは一切くちにもせずに、毎回出て来てくれなくてもたまに1回でも出て来てくれた人に、ようきくれたありがとうとあいさつして迎え、誰でもが違和感なく一緒にものごとをできるように配慮されていたこと。あと他の人ができないことを裏で一人で動かれて解決されていた、次の年に祭りが引き継げるように私に託しておられたのだろう、すべての準備の細部を細かく私に説明して、その方が親が車を買ってくれないから自分で15万でセリカを買った話や、ガソリンが買えないので家の他の車から頂戴してとかのやんちゃなところの話とか気取らない大人の雰囲気があって現実社会に生きておられるのを感じた。学生のような後輩気分で命令して年下の者を使い走りさせず、大人が大人に頼むように礼儀をもって私にも物事を頼まれていたのが印象的であった。その2年くらい後に、夜中に居眠り運転のトラックに追突されて交通事故で亡くなられた。
2年目の夏祭りでなぜか、林与の先代の親たちが盛り上がりすぎて自分たちが主役であるかのような仕切りを見せたのが、林与の先代の一番あほな昔から村社会のボンで育った人。前年の祭りで親が口出しすることなどなかったのに、林与の先代のようなものがいると他の親も仕切られて裏での親たちの懇親が大事な行事になってしまう。あのへんな村社会的な雰囲気は林与先代の独特で、結局そいうのが自由にものを言えない、物事も出来ない社会を作り上げてしまう。夏祭りと親は関係がない行事で、ただ夏祭りのやぐらを建てるのに重機が必要だったりするのを手伝うだけのこと、でもそういう夏祭りを始めたのが先代の世代で彼らたちは好きにやってきたのに、いつまでも自分たちが主役気分が抜けなくて、ものごとのわきまえもなく若い者をお前らは駄目だみたいに仕切って来る。廃れるのも必然。
お調子者でボンだった先代が、作れば売れる時代に、ある業者の若い人におまえは1日10万稼げとか偉そうに言って、1日仕事に来れば10万小遣い上げる気分。それをその業者さんはヨシオ君先代は凄いんだよ僕に1日10万稼げっていったんだよと。先代というのは調子のよいときに浮かれすぎて豪語して説教までしているから引き下がれない状態で、先代自体が落ち目になってもまだその偉そうな感覚は抜けられないから典型的なよい時代の昭和の繊維業界の世界から抜けられなかったタイプで、50代でも現場作業の簡単な一つが何十年もやってないからまともにできなし、それ以前にやろうとしないのが先代、これやってくれあれやってくれと全部やってたから、私が一人でも織物工場みたいな状態で、先代の酒飲みの迎えに行って迎えにいくと遅いと説教したりするほどの末期は手が付けられないほどのどうしようもない人間になってしまっていて、最初からタクシーで帰って来ればよいのに、自分が他の人に声を掛けて息子に迎えに来させるとか、酒飲んでもまだ別の繊維業界の有力な人に私を関係させようとしていたりで、村社会的な有力者感覚の愚かさを林与の家の中で感じている。その方にも亡くなる前のある場所の正月の挨拶まわりで一緒になったときに、お前は若いころから酒ばっかり飲んで手どうしようもない一番駄目な奴やったと説教されたが、もっと若い時に説教をしてあげといてほしかったと思う。先代はずっとその方に認められていると勘違いして生きて来てたのにそれは厳しかっただろう。
先代も自分で作り上げた村社会の中で心地よく偉そうに生きて本人自体が普通もできないようでは問題は広がるばかりで、亡くなる2週間前には気が付いて仕事の話などは一切しなくなって、偉そうなことも一切いわなくなったが、ほんとせっかく普通の人間関係があっても、それを自分が中心の親分子分をつくりあげようとするから、そんな気持ち悪い人間関係で先代と結ばれている相手とは、そんなつもりで仕事も人間関係もする気もない。
仕事始めた初めのころに、働くのを面倒がりながら自分たちの面倒見てくれな困るという50代の従業員たちとかもその感覚すらもが昭和の時代の末期の繊維業界を感じさせる。致し方のないところもあるのだろうとおもうのは、糸の在庫をおじさんとおばさんに計ってもらったときにも、木管1本が50gで箱は1kgで、総重量から、木管の重さと箱の重さを引いた、正味の糸の重量を帳面に描いてほしいと頼んで、木管が例えば10本なら計った重さから1.5kg引いてその正味の糸の重量を帳面にかいてほしいと3回ほど繰り返し説明しわかったことは・・・ でも、後で監査の時に計ると箱ごとはかりに乗せた総重量しか書いていない。若いから軽く考えられているというよりも、その計算ができないという現実がひと世代前の田舎の人たちで、その計算を一度も正しくできずに何十年も仕事をしてきただけだから面倒をみる人がいないと困るという村社会の現実で、人間関係だけに頼っての世界。昭和の時代でも、その程度の計算が出来ないとやはり仕事は難しいとは思う。伝統工芸士だった勘一爺さんでも糸をグラム単位に換算してアバウトには整経の糸割が成り立っていたが、正確にカウントで必要メーターを割るのを当たり前に最初の日からやりはじめたのが林与で、そういうの出来る人が現場で生まれないのも日本の繊維業界の難しさ。ドビーのパンチカードをつくるのも私の仕事だったし、ちょっと高度なことが他の人では難しい、田舎だと先代レベルの計算機で計算できるというのがすごいということになる。
打ち込みのギアの比率表がなくてもギア比の組み合わせで打ち込みを割り出すとか、糸の番手から糸量の計算をするとか、そういうのが当たり前に最初の日からできるかやろうとする人でないとなかなか一つの仕事すらも受けてこなすことは難しいだろうと思う。林与も中学生レベル位の数学は当たり前にできるのでそのあたりの計算ができるのが繊維の仕事に携わっている人の中では特殊に思われる一人だと思う。半日でもかけて教えようとしてもそれを実践で使える人というのは稀で、林与が仕事をできるのは基礎能力があるからで、また実際の仕事も目の前の仕事を計算しながら無数にこなしてきているから。昔米原のロビー展示で、林与の布の世界を見られて、ある年配の方があなたのような方がなぜこのような繊維の仕事をされているのか不思議だといわれるが、その方というのはトヨタの海外の工場長などやってられたような方らしい。私がどの仕事も同じような要素あると思う、コンピュータのプログラミングにしてもデバックは、生地のキズを直すのと同じような要素だし。織物のジャガード織機とかも、機械式計算機やコンピュータの原型になっていたりする。自動車産業や機械産業の前身も織機メーカーだったり。商いの部分にしても、糸を買うのも商社から買うことも出来るし、海外の紡績メーカーから直接買うような貿易商的なことも可能、また海外に生地を売るも可能だし、やろうと思えば、織物工場だけども、自分の生地を売るために商社的な仕事も自分の中では可能で、やるかやらないかだけのこと。
強みはやはり麻織物の本場で今も自分で織り続けていることでそれはほんと一番の強みで自分で麻織物を織り続けることが産地の本場産の麻織物を形成している部分は大きく、産地の麻織物の特色的な先染め、細番手などは林与が一番得意とするところで、こだわりの部分として出来る限り残して行きたいとは自分がそういうものを作ることで残せて行けたらなあと思う。なかなかブランドさんでもバリバリの細番手先染めは一般に流れる麻生地の何倍も高価なゆえに手が出しにくいということはあるだろうから、普通の採算を成り立たせるための仕事というよりも、高級ブランドさんに謳いが必要な時や余裕のあるときの贅沢で良いじゃないかと思う。日本のライセンス系の高級ブランドも総崩れ状態というのが実情でより量産型のところが受け皿になって名前が残る形が多く、高い素材というのは扱うのが難しい市況でさらには糸値の高騰もあって、作っている林与自身、本場のガチなものづくりを守るというのは余裕や余力がないと無理に思えたりする。コストが非常に掛かってしまう展示会受注形式のサンプルから必要なオリジナル生地などのものづくりというのが難しくなっているのも事実でそういうのには在庫の範囲で対応させて頂いていることも多くなってきて、あるいは、林与のベストを尽くした一発での量産のでたところでサンプル分と量産分をその範囲で100m、200mとかのスタイル。量産が100mで終るとかの場合、その前にサンプルがあると林与が成り立たないだけでなく染色工場さんや加工工場さんも成り立つことも難しく、川下にジャストインタイムを求められると、川上はジャストインタイムすればするほど成り立たなくなるような状況。
特別な生地を作れないこともないけども、相談を持ち掛けられるお客さんというのがそのリスクを覚悟してくださっていたらのことで、試作がうまくいかないときにもお金が払えるのかとか。P下をそのまま使うなんてだれが考えても無理ですよと忠告するのに問屋さんやっておられる方が大丈夫だからP下10mつくってと、それで林与が加工工場の社長と話すると当たり前にP下のまま使うなんて無理ですよ素人すぎるんちゃう林与さんみたいに言われるが、自分で加工指図もしながらP下の意味が分かっていない問屋さんに駄目なの見せてわかってもらわないといといけないから、林与がお金払うのでお願いしますと無駄を承知で頼み込んで、急いでP下を10m上げて、30cmだけ送ってとかもうほんと仕事の感覚が軽すぎて駄目、そのP下見て、駄目で使えないから残りを急いで再加工してとか。ぐちゃぐちゃのぐちゃぐちゃ。あとP下物性の悪さの危なさとかも分かってないやろうし、問屋さんというのは自分でお金使って解決した経験が無さ過ぎるから困る話で、そういう方というのもわかっていて取引の前に問屋さんというのは厄介なことが多いのでの話をしたときに、林与さんは問屋を軽く考えてますねみたいなことをいわれるけどもその通りの問屋さんで、自分が10mの生地すらも出荷もさせず、荷受けもできないならやめておいた方がよいと思う。指図通り作らせて30cmだけ送って駄目出しして残りを買わないという問屋は多すぎるから、そういう自分が買わない問屋商売の方とは取引はしないようにしている。
繊維業界の闇という問題では、平成の時代にビッグモーター的な繊維業界で飛ぶ鳥を落とす勢いの独り勝ち、繊維商社ビジネスの裏側というのが、利益の3分の1は会社、3分の1は株主、3分の1は営業マンという大手の生地商社、年収1億円営業マンを目指せとか。なにが起こってたかというと、営業マンが何千メートルの契約させて値段を下げさせて作らせて、機屋から買わない問題。機屋の何百万の資金が寝る話。契約違反で買取らずに売れただけ仕入れる話に変更するとか。そうやって機屋の資金を枯らせながら牛耳るやり口。何百万の仕事のつもりでその業界では急成長の超優良企業とされているその会社と取引すると、つくっても出荷させないので何百万もの資金が寝てしまって、売れたとしても値段も落とされている生地なので利益もほとんどない。契約と違うというと契約書を目の前で書き換えてこれで文句ないでしょうとか、もあったらしく、日本の繊維業界で一番、利益率も高くホワイトな経営に見えているところの裏側がそんな状態だったそうで。下請け保護の法律ができる切っ掛けにもなったそう。おそろしやおそろしやの日本の優良ホワイト企業。林与は取引関係一切なかったので良かったが、別の大手の商社とやって何百万かの作らせた生地を買わないはあって上場クラスというのも繊維業界はヤバいところが多い。大手の生地商社と仕事する時には気を付けないといけないという問題で、平成の時代に、日本の繊維業界の表面的な業績が優秀な優良企業というのはそういう裏面を持っていたりするところも多い。
一番の謳いが嘘であるということも多くて、熊本産あさりのような問題も繊維業界ではいつの時代人も常に付きまとう問題。着物の業者の人は、外国で作った着物の工房の銘の入った部分を切り取れば国産とは区別つかないと自慢げにいっておられたけども、それで国産として売って何倍にも化かすような商売が存在していたというのも事実だろう。京都の一番高いくらいの着物の呉服商が麻生地を探すときに産地に来て1000mとか以上でないと手織り出来ないと言われたそうで、呉服商なら老舗でなくても気がつかないと、それが手織りだとしたらそれはまさに海外もの、国内では手織りの麻の織り手すらも当時産地にいるかいないほど、そんなものを京都一の呉服商を名乗るお店が国産の手織りとして大量に売ってしまっていたらやばすぎるだろう。勘違いや間違いは誰にでもあるから正直な訂正は必要だろう。国内の着物の生地商のレベルもその程度だと本物か偽物か分からないものがほとんどで取引されてしまっているのだろうと思う。
インドにいったときも、ある組合の人が手織りのインドの綿のスカーフだと言って見せてもらったが、どうみても手織りには思えない。経糸切れでボロボロのまま織っているから、そのあと会場でインドの織物業者の人と直接英語で話すと正直にドロッパーの無いセミオートのシャトル織機で織っているという話、普通にプロがみればおかしいなあと思うところに気が付いて確認をしないと、貿易組合いの方の話だけを信じてしまって、手織りのスカーフとして日本で安く売ってしまうようなことがあるなら偽装になる。その話をある組合の人に話すと全然気にもしておられないから、同じようにそういうものが日本国内で、インドの手織りスカーフで流通してしまっているケースは多いだろうと思う。日本人は高く売れればそれほど説明がいい加減でも気にしない傾向があって、日本で繊維に深くかかわっている人というのはもう少ないから、特に、売買で関わっている人というのは単にサラリーマンのことも多く、ノルマがあって、仕事として働いているだけだから働く時間も短く知識もアバウトなことが多く、安く買って高く売るのが問屋の商売の技術だと言われていた問屋さんもいて、そういう人は偽物をつかみやすい。取引はないけども方だったが、カシミヤてかいてあるとストールが高く売れるわといって、海外で1000円くらいで買ったものをネットで1万円くらいで売っておられた、それ偽物だよとヤバいよ伝えたが、カシミヤの意味もあまりわかっておられないだろうし悪気もないだろうしそれでも取り扱っておられる業者さんは多く、大手のネットショッピングモールに流れるお手頃なカシミヤの大部分がカシミヤライクである可能性は高い。
地場産業にしても、もう全力を出せるような環境すらがなくなってしまっていて、雇用していても時間に縛られ1週間40時間のプロでは、よほど出来る人でもそう深くまでの理解は無理だろう、ましてやとことんやったことの少ない人が週40時間だと分からないままがずーっと続いてしまう。仕事で失敗すると挽回できるようなチャンスがあるのかというと、その失敗をまず自分が解決することが大事なのだけども、織物の仕事での失敗となると結構大事で、たとえば、シャトル織機でシャトルを挟んで何百本もきれたとなると林与はそれでも普通に直すけども、それが坦々とできて、普通に織れるように戻してやっと仕事ができると思えるくらいでないと難しいだろう。
機を一から作るとかも最初のころから当たり前の作業の一つで、教えられなくてもそのくらいは普通のことに思っている人でないと難しいと思う。昼夜、2重織、刺し子など、当たり前に見るだけで理屈が分かるくらいで、なかなか上手にやってるやんくらいに思えないと自分がそういう技法を生かして行くは無理だろう。技法を知っていても自分が自分の手元にある糸でその技法を活用して織物を作り上げるのは別の話で、実際に織物を作り上げて、完成度が低いなら、さらに上の完成度を目指して作り上げるようなことが大事で完成までもっていって、売れる状態にまでもっていくことが大事。
一宮のある廃業された問屋さんが、おじさんが番頭さんとして仕事の面倒を見ておられた。しっかりとされた方で、ハサミの使い方も一か所ばかりを使っていると切れ味が悪くなるというあたりまでも気にして道具もつかわれていた。そういう方だとそれなりに失敗しても大きな失敗にはつながらないしアホなことも言わないから、その問屋の社長がたとえば、着分と本生産はまったく同じでないといけないとかいうが、具体的に色味が若干ブレているときでも現実な話もできたりで、経験豊富な人らしい解決の仕方をされていた。着分などは3mほどの生地を1kgの糸染めから着分用にやって再現性を持たせる。だが、染色においても欲比の問題もあるし微妙な色ブレの問題も生じるのが普通のことで、さらに加工でサンプルの時にいくつかの配色を3.5mづつつなげて加工すると色落ちの色などは布にほとんどつかない、あるいは色が混じって仕上がるが、反数の多い量産では色落ちした色が再度生地に付着する可能性は否めず、より鮮明に色が出やすい。とか、さまざまの避けられない要因で、色ブレというのはベストを尽くしても出てくる。また、織機の経糸のテンションの違いでも出てくるし、ビームの積極送りの大きさがビームが大きな時と小さな時では異なって来て、途中で送りのテンションを加減したりもするのだけども、そういうのも微妙な色味の違いに影響してくるし、反物も反末を本生産のサンプルとすることが多く、反末というのは加工でも一番揉まれすぎたりで一番色味も安定していない部分。まず色味がズバリになるほうが奇跡に近いのだけども、林与はそれなりに許容範囲に持って行いくをやってはいたけども、そういう努力を理解していない人というのはズバリじゃないのがおかしいとかで、それなら最初に量産を入れてそこから着分を取る方法しかないのだけども、海外はその方法。売れ残ったら他に転売。海外の場合プリント物なども何千メートルと最初に量産してそれを売る形だからオリジナルの物を色を変えて作ろうとしてもそれは一切受け付けてくれない。もちろん版権の問題もあるだろうけども、最初から色を変える想定なんてなく数千メートルの効率の良い生産。日本のブランドさんというのは細かい注文で贅沢をいうというのが特徴で、量産が50m100mしか見込めないのにそれに対して着分サンプルが欲しいとかいわれても、多分足りるだろう100mくらいを着分時に林与がリスク仕手作ってしまうしかない話で、高級ブランドの高級な生地というのは高いがゆえに生産量も想定が少ないので、生地の面倒まで林与がみてブランドのオリジナルなものづくりを助けていたことも多い。ブランドさんで知らない方が林与に直接取引にこられると、今年はどこの問屋さんんも同じ柄の生地を提案してくると不思議がられているが、問屋さんごとに林与の新しいマス見本のなかから色を振り分けてバッティングしないようにしていたりもする。生地の出所は同じだったりして、日本のハイシニア
高級メンズというのは凄く狭い世界だったりもした。
不思議なもので、高級シルク糸の出所の長谷川さんも、林与というのは麻だったのでご縁が無かったのだけども、シルクのモール糸をアクセントに使うことが始まりでお客さんの立場だったのがハーベスト展では同じ出展者として親しくさせていただいて、今は廃業されてしまったが工業的な草木染では有名だった村田染工さんも草木染の件で相談にいったことがあり、のちにハーベスト展で出展され親しくさせていただいたりと、全国のそれぞれの分野でも有名な会社さんとも商売でのつながりはそれほど大きくないものの仲間意識でいろんなことを教えていただけたりとか。普段は田舎の工場にこもっている林与ではあるけども、展示会などでいろんな産地の皆さんと親しくさせていただいて、いろんな知識をまさにその方がその技術のトップみたいな方から雑談の中で教えてもらうことも多く、麻織物だけでなく、他の素材に関しても技法などに関しても、自分がネットなどで調べてもいまいち分かりにくいことなどがあったときには、そういう機会に雑談的にお尋ねして教えてもらうことも多い。
展示会場にいると麻のことを知りたい方や使いたい方が来られるけども、まず相手がどんなことをされていてどのようなことに麻布を使われたいのかというのを知るために相手の仕事の内容をおたずねして分からないことなど異業種のことであっても理解をしようとするので私自身の全然知らなかった業界のことでもいろいろと説明して教えていただけることが多い。麻のことはそれなりに十分に知識もあるので他の分野のことをいろいろと学ぶのも麻織物を応用しようとするときには参考になるし、私が自分が麻織物を使って製品までやろうとしていたことをその分野の方がやりたいと相談されるケースも多かったりで、応用の場のチャンスなのかなあと思うことも多く、同じような相談をいろんな方から受けることも多かったりもする。そうするとある程度その分野に関する知識も高まっているので、自分自身で試作やテストもしやすく、商品としての問題点なども自分で克服してお客さんに提案出来たりもする。
物性検査などに関しても収縮率や、引き裂き強度などは実用面で自分でテストしたりとかが、普段からしているので、アパレルさんなどにも検査数値ばかりでなく、実際にミシンで布を合わせて縫ってみて試して見られたらどのくらい大丈夫なのか分かりますよと説明をすることも多い。湿摩擦堅牢度などにしても検査数値以上に実際はどうなのかが大事で、自分で試してみることも大事。藍染やインディゴ染めのストールなんかもよいかんじだけども、念のために白いシャツやTシャツで汗をかくと色移りする可能性はあるというお話はさせていただいて提案する。反応染料のものを選ぶのか、こだわった藍染やインディゴ染めのものを選ぶのかの選択はお客様次第だと思っている。白いシャツやTシャツに藍染やインディゴ染めのストールってかっこいいとは思う。藍染やインディゴ染めのブルーの持つ化学染料にはない雰囲気が好きだったりもする。