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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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2024年10月
リネン日記:5
2024年10月23日
高校生のころだったろうか、地元でお蕎麦屋さんがあって、そこの一人大将が先代の昔からの友人で先代もその方の商売が成功すればよいなあと応援をしていて、年末に年越しそばを頼んだ。年越しそばが12時を回っても届かないので、忙しいのだろうと思い、電話で事情をきくと、雪が降っていて道も凍っていてその中を自転車でそばを配達しようとして、自転車が倒れて、そばを作り直しているのだということ。

普通の家だと大みそかはテレビなんか見て一家団欒だろうに、商売をしていると商売のほうが優先で大晦日も仕事で、仕事をするとやはり問題なんかも起こったりも当たり前で、責任感を果そうと、またそば粉でそばを打ち直すところから数千円の注文の約束のために必死の作業。普通だと配達中に事故があったので今回はキャンセルですみませんということもあるだろうし、うちの家も、逆に気の毒なことでと思うけども。

昔から知っている間柄で、お蕎麦屋の開業にしても先代にも世話になっている部分もあったようで、律儀にそばを打ち直して届けるということを選ばれたことを今も覚えている。1時間、2時間かけてそばを打ち直すところからやっていたら、そもそも蕎麦屋の商売もそばを手打ちするような商売は、バブルのあとくらいで地道でなかなか成り立たないことなのに、田舎の年配の男の人たちというのはなかなか仕事が見つからない方も多かったし、仕事を転々と変えられておられる方も多かった。他の下請けで生活を成り立たせていくみたいなのが普通だった時代。

その方でもまだ外で雇われて働いておられた方だったから、外で働けるということで先代も林与の仕事とは関係を持つことはなかった。林与の親戚筋の方が林与の仕事に携わっていることは多かったけども、なかなか田舎の農家では、昭和の時代で食べていくのも難しく、集落の外で働く仕事が見つからなければ自営でもして家族をやしなっていかないとならない。

戦前、戦後あたりの話を聞いていても、集落の中で生活が難しいのが当り前だったりして、京都や大阪の親戚を頼って丁稚奉公にいったりして教育や仕事を教えてもらって田舎の母屋を支えたりとか、集落の親戚の中で困った家があったら親戚が預かって自分の子供と同じ様に成人まで面倒を見て嫁ぐまでまた家族を持てるまで願ってとかも普通で、林与のお爺さんのころも八重ばあさんとか勘一爺さんとかは、事情もあって与一爺さんと兄弟姉妹のように林与の家で育てられた方で、本家の与一爺さんとかは、ヨジヨモン爺さんから一番厳しく育てられ、他の親戚の面倒をしっかりとみられるように清水お婆さんとか西出お婆さんとかもすごく強い思いでいてくださって、今も世界の高級ブランドが憧れてくださるような近江上布絣の一つの流れが、林与の家を中心とした集落規模の親戚一同の仕事として戦後も存在していた。それは普通とはまったく逆の世界で、食べても行けない困った人たちをどうやって支えていくのかというところを当時から今でいうSDGs、サステイナブルを一貫してやってきたのが繊維業界で、そういうのは、インドの貧困を救うカーディー文化にも通じるところがある。

今のサラリーマン社会ではそれがブラックのように言われることがあるけども、貧困層の面倒をみようとしないで契約で縛って人間関係を切ってホワイトな金儲け主義、そういうのだと、貧困を助長するばかりで一人で何兆円の資産とかはもう繊維業界の貧富の差の典型で、そういう分かち合わないビジネスモデルが世界の貧困なんてものを救うことはできないし、ホワイト企業トップや国のトップが貧困層と同じくらいの質素な生活も享受し耐えられなければききょうレベルや国レベルでも貧困問題の解決も難しいだろうと思う。

NEWSWEEKの海外記者がインドか中国への悲惨な状況ということで、働く本人が農業くらいしかなくて食べていけなくてTシャツ工場で12時間働いて生活が改善して満足していると行っているのに、そういう会社が最悪の会社だ見たいな、自分自身がその人を助手としても雇って家族の面倒も見ない人が、嘆いていても始まらないだろう。NEWSWEEKの記者レベルでも、自分が一人の人とも分かち合うもない感覚で、分かち合おうとしている生きるか死ぬかの困った人を救おうと雇った会社を叩いていて、浅すぎて残念だけども、そもそもその労働者を自分が支える気持ちもまったくなく、すごいことをやっているという感覚は恐ろしいホワイト感覚で、それこそが奴隷は奴隷の面倒を見る人の責任みたいなのが当り前で、面倒を見ている人を奴隷のような悪者にしてしまう。ホワイト感覚の階級構造自体を否定するべきだろうけども、そういう根本的なところから逃げてしまうようなホワイトSDGs、エシカルでは駄目だろうと思う。
2024年10月14日
合成繊維というのは、より安定していて糸も均一なのだけども、天然繊維よりも安い。なぜでしょうか? 

それは、合成繊維は天然繊維を安く生産するために作られたものだからです。レーヨンはシルクの半合繊バージョン。アクリルはウールの合成繊維バージョン。ポリエステルは綿やリネンの合成繊維パージョン。より均一で完璧なものだけども安い、実用性の面では合成繊維が勝ることが多く、安価な服の素材というのは一般的に合成繊維。

用途によっては、合成繊維のほうが適している場合があって、自動車のシートなどは、20年太陽に当たっていても、大丈夫なくらいに丈夫でないといけないので、ポリエステルなどが向いているようである。高級な車なら本革シートというものもあるけども、キズが付きやすいことがマイナスだろうと思う。本革の代用は、ビニールシートだろうか。ビニールシートは軽トラとかのシートに使われているけど、案外、ボロボロということが多いので、ビニールというのはそれほど丈夫ではない。
2024年10月14日
カラムシの語源は、古代の韓国の王朝加羅からの由来でモシが転じてという説や、茎を蒸すからカラムシという説などが一般的だけども、はっきりとしたことは分からないとされている。私自身、カラムシの加羅というのは古代韓国王朝ではなく唐(中国)のことだろうなあと感じるのは、唐糸(カライト)という言葉、それは絹の糸を指す。それが麻糸なら、唐麻糸と表現されたのではないかなあと思ったりする。カラマシというのが転じて、苧(オ)のことを、中国から糸ではいってきた麻糸(マシ)の場合、カラマシ、それは糸のことで、材料が苧麻だったから、中国からの苧麻がカラマシと呼ばれたことで、それが苧麻だったから、カラムシって訓読みが増えたんじゃないだろうかと、唐揚げとか唐紙とか、とおなじような流れを推測する。

カラムシは唐麻糸から来ているというのは、林与が思いついただけのことだけど、本当か嘘かは別にして、説明としては、それなりにまともに聞こえませんか。
2024年10月14日
社員に優しい優良企業と言うのはどうしても裏のある事が多く、まともなビジネスではなく。そういう大手は商社的になりがちで他の会社にほとんどの責任を追わせて自分はマイク増益増収だよよかいってるけど、自分がマイナスでも支える気持ちなくで、しごともことわるしかないし残念な話でお客さんが何千マンのおかねもまわすのが苦しくてというか10万円でも自腹を切る覚悟もないとか、ひとつのぷろじぇくとを行うときにまともなものを支えていこうと思う人もいるけど。底辺覚悟で働く気持ちもなく何億の大きな話ばかりで。地道に働いてそれを馬鹿にしてメイドインジャパンのこだわりとか、古代マフの再現でもないものを百貨店まで巻き込んで大丈夫なのかと心配する。

林与が商品をお客さんに語るときには、麻100%の世界最細番手のすとーるとかはただしいこちだというけど、古代マフの再現とか言うと。昔の太布というのはフニャフニャで嫌われたものを、現代のアパレル感覚で柔らかくて、最高のの古代麻布の再現と言っているだけで。昔の良い麻生地というには凄くハリもあってこうたくもあyてかただはあってしっかりとじていた。高級品というのは一張羅に見える必要があって。鎧用なハリと腰と光沢をともぬ神々しさが必要。それは日本だけでなくアジアの古代の王家の麻布に共通するような価値。シルクにしても古代のシルクは柔らかくふにゃふにゃでじゃなく。安里市が得るほどのセリシンも残った未精錬のもの。
2024年10月04日
麻糸は、苧績みしてつくられる。ひょんなことで昭和村を訪れる機会ができて、9月の半ばに昭和村の博物館で2時間ほど過ごした。なぜ昭和村で、麻の原料をつくることが大事に思われているのかというのが感じられた滞在で、これは、表現が悪いかもしれないけども、恵まれていない山村で、農村としても広い農地もなく、陸の孤島のような村の生活があったからだろうと思う。農家のできることが糸を績んだり、糸の原料を育てることで、長けた人がいたのだろう、より良質の原料を取れるためのカラムシを栽培する技術を村の生活の柱として培われてきた。

奈良の月ヶ瀬の大麻の苧績みも同じく、月ヶ瀬という場所が陸の孤島のような場所だったから、そういう技術が発達し、また残りやすかったということもあるだろう。沖縄の宮古上布にしても同じで、島という要素。工業化や機械化するという次のステップに行くこともなく、手仕事で生み出して行くのができることのすべて。

能登ももともと近江上布の原料の産地としていわれているのも、糸が能登で績まれていたのだろうと思う。糸を織る技術に長けていたのが近江で、その原料というのはもともと昭和村のような東北の地から、寄港地である能登に渡ってきて、そこで績まれた。能登という場所も、能登地震でこの一年は名前をよく聞くようになったけども、なかなか地震がなかったとしても、滋賀県からでも能登半島のてっぺんまで車で行くとしても覚悟が必要な話で、能登上布を育んだ背景みたいなものが分かれば、いろんな麻織物の謎の解決にもつながるだろうから一度は訪れて知っておきたいなあと思う。

昭和村にいったときも、昭和村に行く途中の田んぼの土手に立派な苧麻畑が自然にでいていて驚いた。1m近くの高さの苧麻が密集して自生していて、それは単なる雑草で使われないだろうけども、林与の周りではみることもできないようなつる草の世界が、苧麻で広がっているような光景。また、林与が興味があったのは、昭和村に行く途中の山道に自生している苧麻で、近江湖東地域とどう違うのかというあたりもとくに赤苧に関しての考察の検証的な面で、織物で言われる赤苧が、苧麻なのか苧麻でないのかというあたり。植物のアカソが山道に自生していて、真っ赤だったのも印象的。葉っぱも落ちて、真っ赤な茎だけになって、何百本も山の壁面に残っている。一方で、苧麻の茎が赤いものというのは、ないことはないけども、ほとんど、成長途中のものでは見かけない。

64種類の日本のいろんな苧麻や世界の苧麻を育てられている苧麻畑も参考にさせていただいて、日本の苧麻の歴史に関しての林与の持論的な考察とも整合する。近江上布に置いて、「きぬあさ」とよばれたものは何なのかというのも、自生しているカラムシなのかあるいは、福島産のような上質の物なのかという判断も、福島産のような白くて光沢のあるものが「きぬあさ」と呼ばれたものなのだろうなあと思う。

麻の着物の世界においても2ジャンルあったことはあまり言われないけども、そういう概念も大事で、味の世界と、品質の世界という2ジャンル、味の世界では、キビラのような粗にみえるものが評価をされて、品質の世界ではきぬあさとよばれるような世界が評価をされる。

奈良晒の最高峰みたいな織物も、林与が見る限りでは生平の世界のジャンルで、奈良晒なのになぜ生平なのとは思ったけども、晒す技術というのは今はもう残ってはいないというのが現実的なところなのだろうと思う。それを低く評価してはならないとおもうし、現実というものを受け止めて織物をつくるということを考えていく必要があって、晒す技術にしても今は禁止されているような技術ばかりだったりもして、昔だったら川や河原でできたことが、今の日本では許可が出たとしてもそんな許可を求めてやっているようでは成り立たないという問題もある。ほんと国が駄目だと規制ばかりで地道なものにしてⅯの自然破壊だとして、日本の伝統工芸にしても自然破壊で昭和の時代に規制され壊滅状態になりながら、今はそれを日本の宝として復活したいみたいな国レベルのご都合主義のだらしないどうしようもない感覚的な伝統感覚で、日本で産業がどんどんつぶれてゆくのもそのあたりのどうしようもなさ。関わらないでほしい、ほんと。