リネン日記
世界際細番手の麻糸
2017年10月16日
私が作った麻糸は世界際最細番手じゃないかと思うくらい本当に細い。フラックスの単細胞繊維だと思う縦に伸びた一本を寄り合わせた麻番手で1000番手を超える糸、同様にラミーでも同じくらいの細い糸を作った。リネンもラミーも見極めがつきにくいほどに違いが無い。どこかにおいてしまうと目に見えないだけでなく、手に持っても空中を漂っているから。
リネンやラミーの繊維一本を繊維に繋いで糸にしたのは私が初めてではないかもしれないが、驚くべきはそれを織機の縦糸のうちの1本として繋いだら、織機がちゃんと動いたこと。そこが麻のすごいところで、シルクだと蚕の糸一本では織るのは難しいと思える。現状では私はやったが生糸は駄目だった。でもそれをシルクの世界のプロの方に相談したりして、成し遂げたいと思っているのが私。カシミヤも世界際細番手の織にに挑戦したいと思っている。
誰もやらないかもミクロンの世界を経験して(それもそんなに難しくないミクロンだと目に見えるのが今の私ごときの糸の素人クラスの技術で研究段階では到達できる、日本繊維のプロの研究とすればその先のナノの世界が必要で、航空関係では日本の技術としてそのレベル)、麻の世界最細番手の糸のすごさを感じる。それをハンカチ程度なら縦密度インチ300本X横密度200本くらいなら、手織りできるのではないかと思うのが、私の考えで、昔の人ならやってただろうと思う。私も状況が落ち着いたなら、本業とは別に趣味の範囲で挑戦をしたい。この文章を読まれて、勢いのあるかたなら私よりも先に挑戦をしてもらって、アマの最細番手とされる660番手を軽く超えていただきたい。
私が自分の手の中で見たものは、麻の究極の細番手の世界。ある展示会で、リネンの140番手を展示していると、ハンカチの会社では針の穴をスッと通る糸があるという話だが、1940年の手織りのリネンでは当たり前。本当に細い麻糸というのは目にも見えなく手にもてば天女の羽衣のごとく空中を当たり前に漂うから怖い話のが分かる。見えないものを無理やり見つけて持って、親指と人差し指でぎゅっと捕まえても逃げるように空中に漂う。人は浮き上がらなくても布は天に舞うように浮き上がっていたというのもありうるんじゃないのかと、天女伝説を読んで思う。たぶん、天女伝説は質量の重い麻ではなく、蚕の糸一本を織る技術が古代にはあったのだろうと思う。そのクラスなら絹の布が天に舞うのも不思議ない。
科学では解明できるのだろうけど、まだ、解明されていない神いるような世界が現実だったって、昔だったらありえたのかもしれないと思う。今の科学での子供だましな手品では神を語るには失礼すぎるだろうと思う。人が神のような力を持っていた昔、祖先が神的な存在だったのも現代につくれないようなものを祖先たちが自分を犠牲にしてつくっていたから、それを化学で騙してはちょっと違いすぎるのじゃあないかと思う。
古代麻布の再現に、大麻の名乗りを上げて、水溶性ビニロン混の意図を使うのが適切なのか思うと現代の最先端あるいは普通の化学技術で悲しく思うほど。誰がそういう路線を主導してしまったのか。覚悟決めて地道に守るべきが麻の道じゃないのかと思う。70過ぎるその麻布研究家のかたも、スポンサーのサポートがなければ辞めるという話。そこまでやって消費者に商品買ってもらってスポンサーがいなくなったら辞めとかは駄目というのがその方の肩書きを信じて買われた消費者の立場を守りたい私の役目。神とか持ち出すなよ。
日本で手広くやられているオーガニックコットンの協会の理事長も70過ぎているが同じように自分自身はオーガニックコットンじゃないものがオーガニックコットンとして売られてもそれをやった企業の責任で自分とは関係ないとまったく責任を感じる覚悟もない、手績みしている人やオーガニックコットンを栽培している人以上に人生の覚悟決めていないと70歳超えていようが実際に覚悟決めてやっている人から見ればトップですらもヘナタレそのもので駄目。実際話してみるとトップですら責任から逃げるだけの自分は責任ないと逃げるサラリーマン以下、高齢だからもう引退したいという理由も騙す理由にはならないし意味分からん。謳いが、百貨店でものを買う消費者の信じるものとは別の世界。私は専門家や認定するだけの商売の素人だから、現場では業者が騙しているだけみたいな逃げ口は通用もしない。
名誉欲、金欲の材料として、オーガニックとか、神が持ち出されるのは筋違いだろうと思う。あるオーガニックコットンの人たちは本当に心が優しく、大手のオーガニックコットンの理事長の権威主義とは待ったく異なる。そういう気持ちがあってオーガニックコットンを扱うべきだと思うのだが、電話でも、科学的に安全というだけにしてほしい、エシックスとかフェアトレードとかは面倒で嫌だといわれていた。人々を救うためと信じて高いお金払って買う消費者としたら厳しすぎないか。
リネンやラミーの繊維一本を繊維に繋いで糸にしたのは私が初めてではないかもしれないが、驚くべきはそれを織機の縦糸のうちの1本として繋いだら、織機がちゃんと動いたこと。そこが麻のすごいところで、シルクだと蚕の糸一本では織るのは難しいと思える。現状では私はやったが生糸は駄目だった。でもそれをシルクの世界のプロの方に相談したりして、成し遂げたいと思っているのが私。カシミヤも世界際細番手の織にに挑戦したいと思っている。
誰もやらないかもミクロンの世界を経験して(それもそんなに難しくないミクロンだと目に見えるのが今の私ごときの糸の素人クラスの技術で研究段階では到達できる、日本繊維のプロの研究とすればその先のナノの世界が必要で、航空関係では日本の技術としてそのレベル)、麻の世界最細番手の糸のすごさを感じる。それをハンカチ程度なら縦密度インチ300本X横密度200本くらいなら、手織りできるのではないかと思うのが、私の考えで、昔の人ならやってただろうと思う。私も状況が落ち着いたなら、本業とは別に趣味の範囲で挑戦をしたい。この文章を読まれて、勢いのあるかたなら私よりも先に挑戦をしてもらって、アマの最細番手とされる660番手を軽く超えていただきたい。
私が自分の手の中で見たものは、麻の究極の細番手の世界。ある展示会で、リネンの140番手を展示していると、ハンカチの会社では針の穴をスッと通る糸があるという話だが、1940年の手織りのリネンでは当たり前。本当に細い麻糸というのは目にも見えなく手にもてば天女の羽衣のごとく空中を当たり前に漂うから怖い話のが分かる。見えないものを無理やり見つけて持って、親指と人差し指でぎゅっと捕まえても逃げるように空中に漂う。人は浮き上がらなくても布は天に舞うように浮き上がっていたというのもありうるんじゃないのかと、天女伝説を読んで思う。たぶん、天女伝説は質量の重い麻ではなく、蚕の糸一本を織る技術が古代にはあったのだろうと思う。そのクラスなら絹の布が天に舞うのも不思議ない。
科学では解明できるのだろうけど、まだ、解明されていない神いるような世界が現実だったって、昔だったらありえたのかもしれないと思う。今の科学での子供だましな手品では神を語るには失礼すぎるだろうと思う。人が神のような力を持っていた昔、祖先が神的な存在だったのも現代につくれないようなものを祖先たちが自分を犠牲にしてつくっていたから、それを化学で騙してはちょっと違いすぎるのじゃあないかと思う。
古代麻布の再現に、大麻の名乗りを上げて、水溶性ビニロン混の意図を使うのが適切なのか思うと現代の最先端あるいは普通の化学技術で悲しく思うほど。誰がそういう路線を主導してしまったのか。覚悟決めて地道に守るべきが麻の道じゃないのかと思う。70過ぎるその麻布研究家のかたも、スポンサーのサポートがなければ辞めるという話。そこまでやって消費者に商品買ってもらってスポンサーがいなくなったら辞めとかは駄目というのがその方の肩書きを信じて買われた消費者の立場を守りたい私の役目。神とか持ち出すなよ。
日本で手広くやられているオーガニックコットンの協会の理事長も70過ぎているが同じように自分自身はオーガニックコットンじゃないものがオーガニックコットンとして売られてもそれをやった企業の責任で自分とは関係ないとまったく責任を感じる覚悟もない、手績みしている人やオーガニックコットンを栽培している人以上に人生の覚悟決めていないと70歳超えていようが実際に覚悟決めてやっている人から見ればトップですらもヘナタレそのもので駄目。実際話してみるとトップですら責任から逃げるだけの自分は責任ないと逃げるサラリーマン以下、高齢だからもう引退したいという理由も騙す理由にはならないし意味分からん。謳いが、百貨店でものを買う消費者の信じるものとは別の世界。私は専門家や認定するだけの商売の素人だから、現場では業者が騙しているだけみたいな逃げ口は通用もしない。
名誉欲、金欲の材料として、オーガニックとか、神が持ち出されるのは筋違いだろうと思う。あるオーガニックコットンの人たちは本当に心が優しく、大手のオーガニックコットンの理事長の権威主義とは待ったく異なる。そういう気持ちがあってオーガニックコットンを扱うべきだと思うのだが、電話でも、科学的に安全というだけにしてほしい、エシックスとかフェアトレードとかは面倒で嫌だといわれていた。人々を救うためと信じて高いお金払って買う消費者としたら厳しすぎないか。