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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

仕事のありがたさ

2017年11月24日

織物は分業でというのは、今の中国の工場をみていると、男性が織機を修理調整して女性が織たり検反補修というような分業がなされている。昔の日本もそんな感じで、一つの現場を一人が担当することが多かった。織物工場に来て、最初の数日で覚えたことが一生の仕事としてのパターンで、その仕事以外はできないのが当たり前というスタイルなのだが、今の日本ではその大企業型の量産システムを理想としては存続すら難しいだろう。

私自身、織物の仕事をしているけど、織物が好きだからというような単純な理由ではなく、織物の中に、仕事という基本の要素を感じているから。織物の仕事といっても織るだけが仕事ではないところ。仕事をしていると見えてくるものも見えてきて、仕事とは何かということも自分なりに意味が出てくる。仕事をやらされている状態だと見えてくるものも見えてこないだろう。仕事があって「ありがたい」という基本を感じていなければ、生産には自分の時間、気力、体力を使うので、うまく回らないだろう。

仕事があって「ありがたい」と素直に思える人がどれほどいるだろうかと思うと私はその点で仕事に向いていると思える。自分一人で業を成している人は若くてもそういうあたりもって仕事されている方が多い。組織の中に入ってしまって守ってもらえるような立場の人だと仕事に文句が出て、仕事しないことが自分の仕事みたいになってしまう人も多い。そうなってしまうと、ものづくりの問題をどうこう話す前に、人の問題がややこしすぎて仕事なんてしないほうがよいだろうと思う。精神とか責任感とか、心の問題の部分。

仕事をする気持ちでどんどん仕事していると技術が身についてくる、これは、ビデオをみて技術を修得するのとはまったく違うのである。自分がまず真似してやってみて、下手なのがなぜ同じようにできないのかしることも大事で、自分が自分の体を動かして、よい方法、悪い方法の区別をはっきりと分かることが大事で、たとえば、草木染するにも、公式的な薬剤の分量をしっていることは大事だが、それを間違うとどうなるのかも本当なら自分が失敗してその失敗を被って正しいことを身に着けるのだが、今の仕事にはそういうチャンスはないので、失敗してもあまり深く考えないで、また仕事があると思うのだろう。これも人の問題ということにつながるが、この部分が技術。

あと、自分自身がコンスタントに作業をできるのかは、技術とは別の部分で、こなしてゆけるかどうかという体力的な部分。仕事を教えてもらって仕事が理解できてもそれを自分自身では与えられてもこなせない。体力、視力、聴力、忍耐とか、集中力というのもここと関係をしてくる。

いろいろと偉そうに硬そうに書いていても、実際には目の前の一つに仕事をやるか、やらないかだけのことで、それは総合的な力が必要とされる。人が集まれば仕事がスムーズに動くかというと、逆のことも多く、仕事があって「ありがたい」と思えるような人が集まらないと仕事があって問題ばかりが増えるだろう。


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