リネン日記
ヒンズー教の影響
2018年11月07日
日本で神というと、人の力を超えた力を持つ存在を神と呼ぶところがあるけども、そのあたりが凄くインドのヒンズー教と似ている。ヒンズー教の祭りでは、石像が隠れているのでそれを鬼たちがなだめて(その鬼たちもまた神様だということだけど)、石像が出てきて人々が幸せになるようなことが行われていたりして、日本の神話と類似している。大麻にしてもヒンズーでは、シヴァ神の好物として、神の草として、貢物として供えられる。日本の鳥居がヒンズーの門と非常に似ていて、現地では日本の鳥居の起源であると説明されているという。
ヒンズーの影響があるのかという点、私は徐福の存在を信じているので、徐福がインド留学でヒンズーの儀式や仏教を学んで持ち帰ったと思う。徐福が童男童女3000人職工500人とともに、五穀を日本に持ち込み、階級社会を作り上げる基礎となったのが、日本の神道の儀式の起源ではないのかと考えるところ。日本の神道で苧麻ではなく、麻が大事にされるのも徐福が留学したインドの影響ではないかと思うのである。
大麻というのは日本の天皇が大嘗祭でお召しになられるアラタエと呼ばれるものが有名だが、天皇がお召しになられるアラタエは、本来は、鹿の皮でそれが織物に置き換わったとされている説があるが、それは微妙。粗妙とか荒妙で、シルクと区別して荒い妙であるというのが、本当だろと思う。鹿が3匹で、麤と書くアライは麁と同じ文字とされるが、シカが集まるときに離れている様だという。アラタエはニギタエの対語とされ、アラは素材を指すのではなく、状態を指すと考えるべきだろう。タエが共通ではなく、栲(カジノキ)と妙(シルク)なのだろう。タエというのは基本、布ではなく、綿を集積した物。多重ねるの意味だろう。
大麻も、織物として使われる以外に、繊維を綿状にしてタエとして使われていたこともあるようである。アラタエ、ワタタエが原料そのものを指すのではなく、実際は、見た目であるというのがポイントではないのだろうか。木を編んだようなものはアラタエ、真綿はコットンではなくシルクというのも不思議なことだが、シルクの一本の糸を引くのではなく、繭を打綿して伸ばして布状にしたものが本来のタエだったのであろう。綿は、本来は木綿と書いてモメン、コットンは棉と書くべきが妥当かとも思う。木から取れるワタなのである。布は、ヌウオが語源で、織物の原型の縫われた苧を指す。オを縫ったような状態が織物で、織るは折るがもととされるが、苧(オ)、麻(オ)と呼ぶところから、オを作業した物であるということだろう。
大麻がカラムシでないといわれるけど、カラムシしたら大麻もカラムシ。そのまま使えば太布であるという、本来の太布というのは苧にせずにそのまま編んだものだろう。つる草を編んだものとか、太布らしい感じを受ける。厳密に云々じゃなく、感覚的なもので、資材系に編まれたようなものが太布で、大麻は本来、カラムシされなかったのであろう。だからカラムシとは呼ばれない。でも、専門家もしらない部分かもしれないが、大麻も蒸して緒を取り出せば、カラムシなのである。緒にしても苧も同じ、紐というのがオなのである。苧麻にしてもカラムシして引き裂かなければ、見た目、太布になりうる。
頭でっかちに成分や原料分析の専門家になるよりも、織物の現実や一般的名客観的視点が古代の麻だけでなく、布を見る観点だろうと思う。シルクですらもまったく、織物じゃなく、真綿といわれる妙としてつかわれていた、妙というのが多重だと思うのも私だけのことだろうか。タエと聞いて、多く重ねるを想像するの日本人的な表現なのdが、それを失ってしまっては駄目、成分分析よりも、原始的な感覚こそが大事。
ヒンズーの影響があるのかという点、私は徐福の存在を信じているので、徐福がインド留学でヒンズーの儀式や仏教を学んで持ち帰ったと思う。徐福が童男童女3000人職工500人とともに、五穀を日本に持ち込み、階級社会を作り上げる基礎となったのが、日本の神道の儀式の起源ではないのかと考えるところ。日本の神道で苧麻ではなく、麻が大事にされるのも徐福が留学したインドの影響ではないかと思うのである。
大麻というのは日本の天皇が大嘗祭でお召しになられるアラタエと呼ばれるものが有名だが、天皇がお召しになられるアラタエは、本来は、鹿の皮でそれが織物に置き換わったとされている説があるが、それは微妙。粗妙とか荒妙で、シルクと区別して荒い妙であるというのが、本当だろと思う。鹿が3匹で、麤と書くアライは麁と同じ文字とされるが、シカが集まるときに離れている様だという。アラタエはニギタエの対語とされ、アラは素材を指すのではなく、状態を指すと考えるべきだろう。タエが共通ではなく、栲(カジノキ)と妙(シルク)なのだろう。タエというのは基本、布ではなく、綿を集積した物。多重ねるの意味だろう。
大麻も、織物として使われる以外に、繊維を綿状にしてタエとして使われていたこともあるようである。アラタエ、ワタタエが原料そのものを指すのではなく、実際は、見た目であるというのがポイントではないのだろうか。木を編んだようなものはアラタエ、真綿はコットンではなくシルクというのも不思議なことだが、シルクの一本の糸を引くのではなく、繭を打綿して伸ばして布状にしたものが本来のタエだったのであろう。綿は、本来は木綿と書いてモメン、コットンは棉と書くべきが妥当かとも思う。木から取れるワタなのである。布は、ヌウオが語源で、織物の原型の縫われた苧を指す。オを縫ったような状態が織物で、織るは折るがもととされるが、苧(オ)、麻(オ)と呼ぶところから、オを作業した物であるということだろう。
大麻がカラムシでないといわれるけど、カラムシしたら大麻もカラムシ。そのまま使えば太布であるという、本来の太布というのは苧にせずにそのまま編んだものだろう。つる草を編んだものとか、太布らしい感じを受ける。厳密に云々じゃなく、感覚的なもので、資材系に編まれたようなものが太布で、大麻は本来、カラムシされなかったのであろう。だからカラムシとは呼ばれない。でも、専門家もしらない部分かもしれないが、大麻も蒸して緒を取り出せば、カラムシなのである。緒にしても苧も同じ、紐というのがオなのである。苧麻にしてもカラムシして引き裂かなければ、見た目、太布になりうる。
頭でっかちに成分や原料分析の専門家になるよりも、織物の現実や一般的名客観的視点が古代の麻だけでなく、布を見る観点だろうと思う。シルクですらもまったく、織物じゃなく、真綿といわれる妙としてつかわれていた、妙というのが多重だと思うのも私だけのことだろうか。タエと聞いて、多く重ねるを想像するの日本人的な表現なのdが、それを失ってしまっては駄目、成分分析よりも、原始的な感覚こそが大事。