リネン日記
ある機屋さんと
2018年12月03日
仲良くさせてもらっている機屋さんに電話したときに人が多くても大変なだけだという話があった。会社の中というのは出来る人もいれば出来ない人もいる、一番厳しいのは仕事するのも難しいとか、仕事というのはあるとかないとかでなくて自分で作ってやっていかないと本当に仕事をする力があるとはいえないもので、そういう人というのは本当に稀である。
私も仕事を教えてもらったのがそういう方だったので仕事をいつでも自分で生み出す力をもっている。別の人に仕事を教えてもらっていたら手抜きばかりになっていたかもしれない。仕事を教えてもらった方以上に、いろいろと工夫してよいものが出来上がるように詰め込んで私なりのものづくりの手法があるから、普通は難しいことでも失敗が少なく出来上がる。
何十年やっている人が一般的に仕事が上手かというと、産地で織物が衰退していることを考えると、田舎の商店街と同じ現象が現場にあったのではないかと思う。お客さんがこないから一日中店番みたいな雰囲気で、惰性で仕事をしていた。何か難しい仕事があってもそれを積極的にやるような人がいなかったとか。
経験の長い人というのは、問題の本質が見えなくなることが多くて、自分が問題を解決できなくて他の人が解決してしまうと面子が潰れてしまうところがある。綺麗に仕事を終えられた70歳の社長や、別の食品関係の機材をつくられている70歳の方、また、機械開発を電機メーカーでされていて引退後織物関係を手伝われていた方とかは、私が話をさせていただいていても、面子の張り合いみたいなものがなく、珍しいといえば珍しい存在で、そういう人が仕事が出来るのである。
ふた周りくらい違う世代の方でも、そういう先生のような人ばかりではなく、半分以上は相手するのもむつかしい方で、仕事をしようとしてもモーティベーションからして、分からんとか、分からない、できない、からはじまるので、用意と後片付けをすべてこちらが任され、こちらが高度なことをしようとしても、時間がある人がどこまでも時間を取ってしまう。母親がそのタイプで、ちゃんと説明しないから分からないのよと、説明しても自分がこの方法のほうがよいからと別の方法でやってしまって、毎回毎回そんなことばかりの典型で、食べられるところまで上手にならならず、1日来てくれるバイトの学生よりも仕事を頼むのが難しいとかも多い。そういう状況だと面子が先に勝って、簡単な仕事も我流が入って本当に正しくしてもらうのが用意ばかり確認ばかり駄目出しばかりで難しいのである。
産地の問題の本質はそこなのだ。いまや経験の浅い日本人が馬鹿にしがちな海外の繊維産業ほうが正しくものづくりできるようなのも当たり前なのである。仕事もしなくなって正しいものもつくれなくなって、それで産地が苦しいといっても仕方ないといえば仕方ない。人数の多い会社というのは、だらしない人が逃げ出すように規則などで細かく縛らないと成り立たない。私も世界最先端クラスの電子機器の工場の製造現場で働いたこともあるが、田舎の年配の人だと無理だろうなあと思う。一つの失敗も許されず、確認作業ばかり、一つでも失敗があると、改善書を書かないといけない。高卒のにいちゃんたちがそういう現場で普通に働いていて仕事こなしているけど、我流が多くなる年配の方では、言われたことを言われたとおりにすることができず、駄目だしされるのも嫌だろうし駄目だしするほうも嫌になるだろう。仕事で環境柔軟性は大事で、我流が勝ってしまう人はどうしても上達できず、自分はどうこうの話になってしまう。
町内の織ってもらっている工場のために、いつも間違いが多いので、全部糸を新しいビニール袋にいれてマジックでどれのどの糸かが分かるように渡して、次のときにいくとビニール袋を別の用途に使いたかったのだろう、ビニール袋は消え、糸がごちゃごちゃになっている。失敗も多いわけで、失敗してもへっちゃらなところがあるのが何十年の経験者で、どうしようもないから丁寧に準備までしても若い者にそういう失敗で困らせて平気だったりで、そういうのが普通なのが田舎の現場だったりするから、私もしたくはないけど、そういう人には引導を渡したり、鬼にならないと普通の簡単な仕事もこなすことが難しい。
林与の場合、先代にしても産地ではものづくりに長けていると定評はあるがアル中で、なにかにつけて面子が先に立ってしまって、お山の大将をやっているから、自分が仕事していないから結局仕事できない体質になって、良い時代が終わると一つの仕事もちゃんとできないので、仕事をすれば雑すぎて一つの仕事も助ける人が居ないと成り立たない半人前。先代でも、田舎で億の仕事を経営者としてこなしていた人だが、仕事が出来ない駄目な人と私が見切ったことで林与という会社が存続しているようなところもある。もちろん織物の基本や応用も理解できているが、実際に時間があっても必要に迫られても自分が作業しないし正しくも出来ないから基本的に仕事は半人前だろうと思う。
日本の繊維産業の好景気は、今となっては外部的な要因でつくられていたということなのである。繊維産業というのは自動車や電気機器とちがって、車検や修理が必要ないことが多いので、地球規模の自由競争にさらされやすい。戦後から昭和50年くらいまでは為替の関係もあって、国の成長を国の中での生産が支えた。それが、昭和50年代に円の切上げ、途上国通貨の切り下げが行われ、立場が逆転して、日本の繊維産業にとっては逆風。
新しく立ち上がった途上国の繊維輸出産業が日本をマーケットにして発展して行く。今は携帯電話の中の機器の製造が国を支える韓国も、日本の次の繊維の世界の中心となった。そしてそれが中国に移り、そしてそれがベトナムに移る流れ。
そういう量産型のモデルを日本で成功モデルとしてやろうとしても同じなら海外でやったほうが10分の1でものが出来上がってくる。日本という国ができることは、特殊な考えをもって特別なものをつくらないといけない。私自身は、日本の消費者のニーズとしては世界で一番その要求が高いので、流通さえうまくこなせれば織物の製造が一般と比べても悪い職業ではないと思える。
機械を使って人が働いてもどこの国でも同じものしか出来ないかというと、同じ材料、同じ機械でも、人が違えば完成度は変わってくるのである。それがマニュアル化してしまって、正しいものをつくるようになると、世界共通の同じ程度のものしか出来なくなる。マニュアルが無くても少しでも正しいものをつくろうとする取り組みが生きていれば良いものはできるのである。でもそういうのを否定して仕事が面倒から始まるのが今の現場だったりするから、人が多いほどに大変になるのだろう。仕事は困難が多くても当たり前だし、逃げないで前向きに楽しくやっていかねばと思う。
私も仕事を教えてもらったのがそういう方だったので仕事をいつでも自分で生み出す力をもっている。別の人に仕事を教えてもらっていたら手抜きばかりになっていたかもしれない。仕事を教えてもらった方以上に、いろいろと工夫してよいものが出来上がるように詰め込んで私なりのものづくりの手法があるから、普通は難しいことでも失敗が少なく出来上がる。
何十年やっている人が一般的に仕事が上手かというと、産地で織物が衰退していることを考えると、田舎の商店街と同じ現象が現場にあったのではないかと思う。お客さんがこないから一日中店番みたいな雰囲気で、惰性で仕事をしていた。何か難しい仕事があってもそれを積極的にやるような人がいなかったとか。
経験の長い人というのは、問題の本質が見えなくなることが多くて、自分が問題を解決できなくて他の人が解決してしまうと面子が潰れてしまうところがある。綺麗に仕事を終えられた70歳の社長や、別の食品関係の機材をつくられている70歳の方、また、機械開発を電機メーカーでされていて引退後織物関係を手伝われていた方とかは、私が話をさせていただいていても、面子の張り合いみたいなものがなく、珍しいといえば珍しい存在で、そういう人が仕事が出来るのである。
ふた周りくらい違う世代の方でも、そういう先生のような人ばかりではなく、半分以上は相手するのもむつかしい方で、仕事をしようとしてもモーティベーションからして、分からんとか、分からない、できない、からはじまるので、用意と後片付けをすべてこちらが任され、こちらが高度なことをしようとしても、時間がある人がどこまでも時間を取ってしまう。母親がそのタイプで、ちゃんと説明しないから分からないのよと、説明しても自分がこの方法のほうがよいからと別の方法でやってしまって、毎回毎回そんなことばかりの典型で、食べられるところまで上手にならならず、1日来てくれるバイトの学生よりも仕事を頼むのが難しいとかも多い。そういう状況だと面子が先に勝って、簡単な仕事も我流が入って本当に正しくしてもらうのが用意ばかり確認ばかり駄目出しばかりで難しいのである。
産地の問題の本質はそこなのだ。いまや経験の浅い日本人が馬鹿にしがちな海外の繊維産業ほうが正しくものづくりできるようなのも当たり前なのである。仕事もしなくなって正しいものもつくれなくなって、それで産地が苦しいといっても仕方ないといえば仕方ない。人数の多い会社というのは、だらしない人が逃げ出すように規則などで細かく縛らないと成り立たない。私も世界最先端クラスの電子機器の工場の製造現場で働いたこともあるが、田舎の年配の人だと無理だろうなあと思う。一つの失敗も許されず、確認作業ばかり、一つでも失敗があると、改善書を書かないといけない。高卒のにいちゃんたちがそういう現場で普通に働いていて仕事こなしているけど、我流が多くなる年配の方では、言われたことを言われたとおりにすることができず、駄目だしされるのも嫌だろうし駄目だしするほうも嫌になるだろう。仕事で環境柔軟性は大事で、我流が勝ってしまう人はどうしても上達できず、自分はどうこうの話になってしまう。
町内の織ってもらっている工場のために、いつも間違いが多いので、全部糸を新しいビニール袋にいれてマジックでどれのどの糸かが分かるように渡して、次のときにいくとビニール袋を別の用途に使いたかったのだろう、ビニール袋は消え、糸がごちゃごちゃになっている。失敗も多いわけで、失敗してもへっちゃらなところがあるのが何十年の経験者で、どうしようもないから丁寧に準備までしても若い者にそういう失敗で困らせて平気だったりで、そういうのが普通なのが田舎の現場だったりするから、私もしたくはないけど、そういう人には引導を渡したり、鬼にならないと普通の簡単な仕事もこなすことが難しい。
林与の場合、先代にしても産地ではものづくりに長けていると定評はあるがアル中で、なにかにつけて面子が先に立ってしまって、お山の大将をやっているから、自分が仕事していないから結局仕事できない体質になって、良い時代が終わると一つの仕事もちゃんとできないので、仕事をすれば雑すぎて一つの仕事も助ける人が居ないと成り立たない半人前。先代でも、田舎で億の仕事を経営者としてこなしていた人だが、仕事が出来ない駄目な人と私が見切ったことで林与という会社が存続しているようなところもある。もちろん織物の基本や応用も理解できているが、実際に時間があっても必要に迫られても自分が作業しないし正しくも出来ないから基本的に仕事は半人前だろうと思う。
日本の繊維産業の好景気は、今となっては外部的な要因でつくられていたということなのである。繊維産業というのは自動車や電気機器とちがって、車検や修理が必要ないことが多いので、地球規模の自由競争にさらされやすい。戦後から昭和50年くらいまでは為替の関係もあって、国の成長を国の中での生産が支えた。それが、昭和50年代に円の切上げ、途上国通貨の切り下げが行われ、立場が逆転して、日本の繊維産業にとっては逆風。
新しく立ち上がった途上国の繊維輸出産業が日本をマーケットにして発展して行く。今は携帯電話の中の機器の製造が国を支える韓国も、日本の次の繊維の世界の中心となった。そしてそれが中国に移り、そしてそれがベトナムに移る流れ。
そういう量産型のモデルを日本で成功モデルとしてやろうとしても同じなら海外でやったほうが10分の1でものが出来上がってくる。日本という国ができることは、特殊な考えをもって特別なものをつくらないといけない。私自身は、日本の消費者のニーズとしては世界で一番その要求が高いので、流通さえうまくこなせれば織物の製造が一般と比べても悪い職業ではないと思える。
機械を使って人が働いてもどこの国でも同じものしか出来ないかというと、同じ材料、同じ機械でも、人が違えば完成度は変わってくるのである。それがマニュアル化してしまって、正しいものをつくるようになると、世界共通の同じ程度のものしか出来なくなる。マニュアルが無くても少しでも正しいものをつくろうとする取り組みが生きていれば良いものはできるのである。でもそういうのを否定して仕事が面倒から始まるのが今の現場だったりするから、人が多いほどに大変になるのだろう。仕事は困難が多くても当たり前だし、逃げないで前向きに楽しくやっていかねばと思う。