リネン日記
2℃
2019年03月08日
3月なのに、夜の温度はまだ2℃。滋賀県のこの地域が肌寒いのは仕方ないことなのかなあ。夏はかなり暑く、35℃を越える。四季の移ろいをモロに感じることができる場所なのであるとよいように解釈。気候の厳しい場所というのは世界的にも織物が発達する傾向にある。過ごしやすい南国では織物が簡単で雑であることが多い。
滋賀県で麻織物が発達した原因が、琵琶湖の湿気だという説があるけども、琵琶湖岸では葦などの荒い織物は多かったが、細番手の麻織物というのは織られていなかった。細番手の麻織物というのは山側で織られるというのは、織物というのが農業のB面で雪に包まれる里で織られたのである。戦前に関しては琵琶湖岸というのは漁業が盛んで実は水利の面であまり農業には向かない傾向にあった。戦後に湖岸や内湖を埋め立てをして巨大な農地が出来上がったのである。
基本麻織物というのは全国的に作られていたと考えてよいけども、江戸時代は流通は許可制あるいは免許制であったので、自分で着るものは基本自分の家で織ってそれを裁縫して家族の服としたのである。農家が現金収入を得る手段というのは限られていて、江戸時代は自給自足が基本で親戚の助け合いによって、衣食住が成り立っていたのである。今は避けられがちな田舎の祭りなども、たらふくご馳走を食べられたり酒を飲める唯一の楽しみだったりで、日々の質素な生活の中では許される贅沢の一つであった。
満足に食べられず、子供も5歳までになくなる確率も半分以上とか、そういうのが普通の農家の世界で、野麦峠なんていうのは、貧農の娘さんたちの憧れの世界であったが、今の価値観からすれば逆に取られたりで、貧農のものたちがチャンスを与えることを良しとしない働かずして成り立つ支配階級の目線ではないのかと思えるところもある。官製の富岡製糸に対しては私は否定的な目でみるのは、良家の娘さんを好待遇で集めて世界に日本の力をPRみたいな、搾取の上になりたつ支配階級的な思想で出来上がった工場だということ。良家の娘さんたちが良い環境の中で作る糸の品質は低く貧農の娘さんたちの作るものに敵うことなく富岡製糸場は廃業の道をたどった。私の感覚ではアリとキリギリスの世界に思えてならない。
今の日本の官製のプロジェクトも今なお同じ道をたどることは多い。プロジェクトの目的がそもそも搾取するところにあるからだろう、すごく有利な条件なのに大きな失敗して無責任にお金を失い、そのツケを他のものから取ってそれの繰り返し。成功して還元することよりも、失敗して失敗分をさらに吸い上げる構造が官製プロジェクトにはあろう。原発が爆発してさらに遮断壁の失敗で追い銭、そもそも遮断してどうなるものでもないというあたりも、今になって解決方法は無限希薄しか方法はないと専門家たちは結論付け初めている。惨事に対しても当たり前の神経が働かずにカネを動かすことばかり考えては駄目で、建前ではなく本質で対応しないといけない。なぜ、チェルノブイリと福島の被害の違いがあったのかは、地下から漏れ出したというところで、その漏れを止めることはチェルノブイリの悲劇に近づく。愚かな人間の不完全さが福島を救ったという辺りだと思う。国や東電が放射能漏れを隠匿したまま、地下から放射能汚染物質が海に流出していなければ、福島はチェルノブイリの半分くらいのダメージを蒙っていて石棺化は免れなかっただろう。
プルサーマルというものを推進している人々も風見鳥で、国民に対しては押し付けるけど、国際的に害と判断されると方向転換。国内の声は聞く耳持たずで虐げ、海外から批判されると変わり身の早さ。それがそもそもの諸悪の根源で、日本の江戸時代の身分制社会と明治の開国という100年以上前のままの日本の役人的な政治の部分。
村の案件でも、役所ばかりいた人間がやると高圧的で人間的なところがなかったりして、法律を盾にとり、自分だけが特別であるかのように民主主義的でない、殿様。責任が掛かると逃げるばかりが駄目なところで、役所以外の人間だったら、自分の甲斐性で偉そうにいうなら一番に責任を取るけどなあと思う。
ある案件でも、自分が機材も老人で出来ない家には一軒一軒自分がつけるからといってみんなの了承を得て、了承を得た次の会議では、つけるのは自分でやってと、手のひら返しでそれが60過ぎた人間の言葉かと思って親戚筋のおっちゃんだったけども、私が厳しい目をぶつけるのは、その場しのぎの役人的なやり方で空気が読めないそのもの、覚悟してやれと思うし、自分自身が覚悟もないなら言うなと思った一件だが、国の行政も議員も、辞任したら済むとか弊害は後々まで及ぶのだからそんな考えなら最初から役につくないい加減にしろとか思う。
今、滋賀県でも、知事選挙。元知事が選挙にでるようだが、私は否定的。この方は県のイベントにしても気がないのだ。なぜ、自分のときに立ち上げたイベントなのに、知事でなくなったら一般市民として参加しないのかの問題。一般市民の気持ちもないのが知事としては失格そのもの。私はそのイベントにも彼女が知事だったときからずっと参加して応援の気持ちでいて、地元を応援する気持ちでいるのに。そういう人間が長に立っても自分の立場だけで、右に左にフラフラで応援する気持ちの人の気持ちも捉えておらず長としては難しい。滋賀県知事をしていたものが自分が知事でなくなったからとして、一般県民として滋賀県の行事に普通に参加して支援もできないようなら知事としてはまったくもって失格なのである。
たとえば、これは町長に対しても同じ、町民の責務を果たせないような町長なら町長の資格無しで、最低限町民の責務を果たして町長や町会議員を名乗るべきで、その目線というのは本当に大事で、私も含め一般の人々はそういうところ見ているもので、長続きする人と続かない人の差だと思う。政治家の対立する主張が会社が違うだけで本当の目的が利己なら駄目で強制される国民、県民、町民の立場で、自分と違う主張も受け入れて強制を受け入れやらないと、自分たちの強いていることすらも見えまい。
滋賀県で麻織物が発達した原因が、琵琶湖の湿気だという説があるけども、琵琶湖岸では葦などの荒い織物は多かったが、細番手の麻織物というのは織られていなかった。細番手の麻織物というのは山側で織られるというのは、織物というのが農業のB面で雪に包まれる里で織られたのである。戦前に関しては琵琶湖岸というのは漁業が盛んで実は水利の面であまり農業には向かない傾向にあった。戦後に湖岸や内湖を埋め立てをして巨大な農地が出来上がったのである。
基本麻織物というのは全国的に作られていたと考えてよいけども、江戸時代は流通は許可制あるいは免許制であったので、自分で着るものは基本自分の家で織ってそれを裁縫して家族の服としたのである。農家が現金収入を得る手段というのは限られていて、江戸時代は自給自足が基本で親戚の助け合いによって、衣食住が成り立っていたのである。今は避けられがちな田舎の祭りなども、たらふくご馳走を食べられたり酒を飲める唯一の楽しみだったりで、日々の質素な生活の中では許される贅沢の一つであった。
満足に食べられず、子供も5歳までになくなる確率も半分以上とか、そういうのが普通の農家の世界で、野麦峠なんていうのは、貧農の娘さんたちの憧れの世界であったが、今の価値観からすれば逆に取られたりで、貧農のものたちがチャンスを与えることを良しとしない働かずして成り立つ支配階級の目線ではないのかと思えるところもある。官製の富岡製糸に対しては私は否定的な目でみるのは、良家の娘さんを好待遇で集めて世界に日本の力をPRみたいな、搾取の上になりたつ支配階級的な思想で出来上がった工場だということ。良家の娘さんたちが良い環境の中で作る糸の品質は低く貧農の娘さんたちの作るものに敵うことなく富岡製糸場は廃業の道をたどった。私の感覚ではアリとキリギリスの世界に思えてならない。
今の日本の官製のプロジェクトも今なお同じ道をたどることは多い。プロジェクトの目的がそもそも搾取するところにあるからだろう、すごく有利な条件なのに大きな失敗して無責任にお金を失い、そのツケを他のものから取ってそれの繰り返し。成功して還元することよりも、失敗して失敗分をさらに吸い上げる構造が官製プロジェクトにはあろう。原発が爆発してさらに遮断壁の失敗で追い銭、そもそも遮断してどうなるものでもないというあたりも、今になって解決方法は無限希薄しか方法はないと専門家たちは結論付け初めている。惨事に対しても当たり前の神経が働かずにカネを動かすことばかり考えては駄目で、建前ではなく本質で対応しないといけない。なぜ、チェルノブイリと福島の被害の違いがあったのかは、地下から漏れ出したというところで、その漏れを止めることはチェルノブイリの悲劇に近づく。愚かな人間の不完全さが福島を救ったという辺りだと思う。国や東電が放射能漏れを隠匿したまま、地下から放射能汚染物質が海に流出していなければ、福島はチェルノブイリの半分くらいのダメージを蒙っていて石棺化は免れなかっただろう。
プルサーマルというものを推進している人々も風見鳥で、国民に対しては押し付けるけど、国際的に害と判断されると方向転換。国内の声は聞く耳持たずで虐げ、海外から批判されると変わり身の早さ。それがそもそもの諸悪の根源で、日本の江戸時代の身分制社会と明治の開国という100年以上前のままの日本の役人的な政治の部分。
村の案件でも、役所ばかりいた人間がやると高圧的で人間的なところがなかったりして、法律を盾にとり、自分だけが特別であるかのように民主主義的でない、殿様。責任が掛かると逃げるばかりが駄目なところで、役所以外の人間だったら、自分の甲斐性で偉そうにいうなら一番に責任を取るけどなあと思う。
ある案件でも、自分が機材も老人で出来ない家には一軒一軒自分がつけるからといってみんなの了承を得て、了承を得た次の会議では、つけるのは自分でやってと、手のひら返しでそれが60過ぎた人間の言葉かと思って親戚筋のおっちゃんだったけども、私が厳しい目をぶつけるのは、その場しのぎの役人的なやり方で空気が読めないそのもの、覚悟してやれと思うし、自分自身が覚悟もないなら言うなと思った一件だが、国の行政も議員も、辞任したら済むとか弊害は後々まで及ぶのだからそんな考えなら最初から役につくないい加減にしろとか思う。
今、滋賀県でも、知事選挙。元知事が選挙にでるようだが、私は否定的。この方は県のイベントにしても気がないのだ。なぜ、自分のときに立ち上げたイベントなのに、知事でなくなったら一般市民として参加しないのかの問題。一般市民の気持ちもないのが知事としては失格そのもの。私はそのイベントにも彼女が知事だったときからずっと参加して応援の気持ちでいて、地元を応援する気持ちでいるのに。そういう人間が長に立っても自分の立場だけで、右に左にフラフラで応援する気持ちの人の気持ちも捉えておらず長としては難しい。滋賀県知事をしていたものが自分が知事でなくなったからとして、一般県民として滋賀県の行事に普通に参加して支援もできないようなら知事としてはまったくもって失格なのである。
たとえば、これは町長に対しても同じ、町民の責務を果たせないような町長なら町長の資格無しで、最低限町民の責務を果たして町長や町会議員を名乗るべきで、その目線というのは本当に大事で、私も含め一般の人々はそういうところ見ているもので、長続きする人と続かない人の差だと思う。政治家の対立する主張が会社が違うだけで本当の目的が利己なら駄目で強制される国民、県民、町民の立場で、自分と違う主張も受け入れて強制を受け入れやらないと、自分たちの強いていることすらも見えまい。