リネン日記
サステイナビリティ
2019年11月30日
今日は大阪での繊維のイベントでの講演会の日。午前午後とお二人の方がサステイナビリティに関して講演された。成功されているあたりが私の考えと違う目線だからだろうなあと思ったのが、ミシンの自動化の話で、糸調子などコンピュータで自動的に管理するようなことができるとかの点。わたしからするとそれって、プロ用が進化すると素人用のミシンに戻る現象、結局、ものづくりがミシンメーカー依存になるのではないかと思える。自動で服が作れればよいのにと服をつくるのは素人の私が考える夢の世界なのかもしれないが、誰がつくっても同じになるとさらに日本の繊維が難しくなる気がするのだが。
ほかに、マイクロファイバーの問題で、マイクロファイバーがでない、丈夫で普遍な素材があればよいのにというお話。でも、そういう素材は、自然に帰らないので、やばやばな素材なのではないかと、最終、捨てることも処分することも難しい。求めないほうがよいのではないかと思う。やはり求めるべきは、普遍性ははないけども、自然に帰る天然素材という方向性が理想ではないかと思う。
なぜ、自然破壊が進むのかというと、作っている人たちの問題でないあたりも大きい。こういう世界的な基準もそうではあるけども、日本でも検査基準がある、たとえば、堅牢度の話になると、自然に帰るようなものというのは、堅牢度は悪いもので、堅牢度を上げるために何度も作り直したり、これしか認めない適な考えで廃棄するものが増えたりする。出来上がったものも品質は高いのではあるが、堅牢度がよいというものは基本自然に帰りにくいことを意味する。その分、長く使えるという要素がある。相反する概念なのは面白いところで、陰と陽というか、人間というのは自分が求めているのはまったく反対なのにそれが見えにくいというあたりがある。
私も品質の高いものという概念とエコな概念というのは製造工程は基本相反する部分があるだろうと思っている。野菜なんかでもスーパーに並ぶものは農薬や化学肥料を使ったものであって当たり前のグレード基準がある不揃いを許さない。一方でオーガニック野菜や道の駅の野菜は不揃い。どちらを求めるのかの世界なのである。オーガニックで高品位なものを求め始めるとどうしても基準を普通のものに近づけてそれをオーガニックと謳う薄っぺらさが出てきてしまう。
日本の国というのは昔のほうが捨てるものも少なくエコだったような気がする。環境関係の先生からすれば昔は無茶苦茶だったというけども、それは日本が海外のものまでをつくる側であって、それが今、日本が海外でモノを作らせる側となって、生産量は何十分の1になってしまったというだけの部分も大きい。
次に、生産に水をたくさんつかう問題にしても、これは規制基準を満たすためにはどこの国でもしかたないあたり、染色なんかで堅牢度を上げようとすると水洗が必要で、大量の水を使う必要がある。また排水も、何PPM以下に薄めないと環境基準をクリアできないから、大量の水を使うのである。どこかの国の皮の染色現場の様子、それぞれの色ごとに小さな棚田のような池が100くらいあってそこにつけて染めるみたいな状態。それは、ある意味、多くの観点において理想的でそこから外に害を広げないという意味ではよいのだけど、逆にそれそのものは土壌汚染、地下水汚染など一番の問題だったりする。日本だとまったく許されない染色スタイルだろう。
ほかにも、コットン栽培の農薬の使用の問題がオーガニックの世界では問題視され、枯葉剤や農薬不使用のオーガニックコットンの基準ができるとなにが起こったかというと、従来の自然農法的なオーガニックコットン栽培が激減させ、害虫の少ない、乾燥した場所、すなわち本来は生物が育つのに適さない砂漠のような場所でのオーガニックコットン栽培が主流となってきた。地下水をくみ上げて水を供給する大量の水を消費するオーガニックコットンが、地盤沈下や飲み水の渇枯をもたらす環境問題を生んでしまう。エコな基準が地球環境破壊につながるというあべこべな問題。同じく、CO2問題での原発推進も同じことで、オーガニックとかエコを語るときに、オーガニックとかエコの本質がみえなくなっては、オーガニックやエコも逆に地球環境破壊につながる。
国連の環境チームがが会議などして基準をつくって、日本の環境庁が動いているみたいだけど、CO2問題の時のように原発推進するような愚かなことを考えないでほしいなあと思えたりするところ。日本なんてもう生産をしているのかしていないのかわからない規模にまで落ちていて今の基準でも環境負荷も小さい。言うは易し行うは難しで、言うだけのひとが偉そうに良いことをしているみたいでも、実際に行う人間がその苦労を背負い込み解決して立つことも難しいふらふらの状態で成り立たせているだけのこと、ぜんぜんエシカルでもない話。また、基準をどんどんと遊びのように上げてゆくから、結局、スクラップアンドビルトな浪費モデルだったり、クリーンディーゼルのような悪質な消費者だまし企業が生き残るとか、10社やっているところが基準のふるいに掛けられ5社になり2社になるとか、今まで8社が消えてしまわないとならないような基準だったりして、自分が生きてゆくための地道に働く環境すらも締め上げられて、エシカル?環境?
エシカルなことというのは、本来、自分が考えてゆくことであって、誰かに従っていれば安心という問題でもない。エシカルナことを謳う人でもやはり、ビジネスとして成り立たなければ無理だというレベルが根底にはあったりする。私の立ち位置は別で、普通の仕事は仕事で、エシカルナことはエシカルナことでエシカルナことは持ち出しか、ほかの利益を回してするのもありじゃないかと思う。日本で一番大きなオーガニックコットンの協会も、実際に中身は、前理事長が理事長のときに電話でお話すると、「エシカルナことが面倒なんですよ」とか、「国際会議でなまった英語をきいてると眠いんですよ」、「偽装はやった企業の責任で私とは関係がありません」、みたいなのがその前理事長の口からでてくる本音、単に消費者を食い物にするビジネスモデルなのかで、謳いを信じている消費者が気の毒すぎる。若い人に理事長を譲られたようだが正していってほしい。
ほかに、マイクロファイバーの問題で、マイクロファイバーがでない、丈夫で普遍な素材があればよいのにというお話。でも、そういう素材は、自然に帰らないので、やばやばな素材なのではないかと、最終、捨てることも処分することも難しい。求めないほうがよいのではないかと思う。やはり求めるべきは、普遍性ははないけども、自然に帰る天然素材という方向性が理想ではないかと思う。
なぜ、自然破壊が進むのかというと、作っている人たちの問題でないあたりも大きい。こういう世界的な基準もそうではあるけども、日本でも検査基準がある、たとえば、堅牢度の話になると、自然に帰るようなものというのは、堅牢度は悪いもので、堅牢度を上げるために何度も作り直したり、これしか認めない適な考えで廃棄するものが増えたりする。出来上がったものも品質は高いのではあるが、堅牢度がよいというものは基本自然に帰りにくいことを意味する。その分、長く使えるという要素がある。相反する概念なのは面白いところで、陰と陽というか、人間というのは自分が求めているのはまったく反対なのにそれが見えにくいというあたりがある。
私も品質の高いものという概念とエコな概念というのは製造工程は基本相反する部分があるだろうと思っている。野菜なんかでもスーパーに並ぶものは農薬や化学肥料を使ったものであって当たり前のグレード基準がある不揃いを許さない。一方でオーガニック野菜や道の駅の野菜は不揃い。どちらを求めるのかの世界なのである。オーガニックで高品位なものを求め始めるとどうしても基準を普通のものに近づけてそれをオーガニックと謳う薄っぺらさが出てきてしまう。
日本の国というのは昔のほうが捨てるものも少なくエコだったような気がする。環境関係の先生からすれば昔は無茶苦茶だったというけども、それは日本が海外のものまでをつくる側であって、それが今、日本が海外でモノを作らせる側となって、生産量は何十分の1になってしまったというだけの部分も大きい。
次に、生産に水をたくさんつかう問題にしても、これは規制基準を満たすためにはどこの国でもしかたないあたり、染色なんかで堅牢度を上げようとすると水洗が必要で、大量の水を使う必要がある。また排水も、何PPM以下に薄めないと環境基準をクリアできないから、大量の水を使うのである。どこかの国の皮の染色現場の様子、それぞれの色ごとに小さな棚田のような池が100くらいあってそこにつけて染めるみたいな状態。それは、ある意味、多くの観点において理想的でそこから外に害を広げないという意味ではよいのだけど、逆にそれそのものは土壌汚染、地下水汚染など一番の問題だったりする。日本だとまったく許されない染色スタイルだろう。
ほかにも、コットン栽培の農薬の使用の問題がオーガニックの世界では問題視され、枯葉剤や農薬不使用のオーガニックコットンの基準ができるとなにが起こったかというと、従来の自然農法的なオーガニックコットン栽培が激減させ、害虫の少ない、乾燥した場所、すなわち本来は生物が育つのに適さない砂漠のような場所でのオーガニックコットン栽培が主流となってきた。地下水をくみ上げて水を供給する大量の水を消費するオーガニックコットンが、地盤沈下や飲み水の渇枯をもたらす環境問題を生んでしまう。エコな基準が地球環境破壊につながるというあべこべな問題。同じく、CO2問題での原発推進も同じことで、オーガニックとかエコを語るときに、オーガニックとかエコの本質がみえなくなっては、オーガニックやエコも逆に地球環境破壊につながる。
国連の環境チームがが会議などして基準をつくって、日本の環境庁が動いているみたいだけど、CO2問題の時のように原発推進するような愚かなことを考えないでほしいなあと思えたりするところ。日本なんてもう生産をしているのかしていないのかわからない規模にまで落ちていて今の基準でも環境負荷も小さい。言うは易し行うは難しで、言うだけのひとが偉そうに良いことをしているみたいでも、実際に行う人間がその苦労を背負い込み解決して立つことも難しいふらふらの状態で成り立たせているだけのこと、ぜんぜんエシカルでもない話。また、基準をどんどんと遊びのように上げてゆくから、結局、スクラップアンドビルトな浪費モデルだったり、クリーンディーゼルのような悪質な消費者だまし企業が生き残るとか、10社やっているところが基準のふるいに掛けられ5社になり2社になるとか、今まで8社が消えてしまわないとならないような基準だったりして、自分が生きてゆくための地道に働く環境すらも締め上げられて、エシカル?環境?
エシカルなことというのは、本来、自分が考えてゆくことであって、誰かに従っていれば安心という問題でもない。エシカルナことを謳う人でもやはり、ビジネスとして成り立たなければ無理だというレベルが根底にはあったりする。私の立ち位置は別で、普通の仕事は仕事で、エシカルナことはエシカルナことでエシカルナことは持ち出しか、ほかの利益を回してするのもありじゃないかと思う。日本で一番大きなオーガニックコットンの協会も、実際に中身は、前理事長が理事長のときに電話でお話すると、「エシカルナことが面倒なんですよ」とか、「国際会議でなまった英語をきいてると眠いんですよ」、「偽装はやった企業の責任で私とは関係がありません」、みたいなのがその前理事長の口からでてくる本音、単に消費者を食い物にするビジネスモデルなのかで、謳いを信じている消費者が気の毒すぎる。若い人に理事長を譲られたようだが正していってほしい。