リネン日記
エキスパート
2020年02月17日
今、ものづくりの世界で求められているのは、職人というよりは、何でもこなせるエキスパート。ものづくりには問題がつきもので、他の人ができない仕事、他の人がやりたがらない仕事がある、それをこなしていけるのがエキスパート。私自身、職人という言葉があまり好きじゃない、なんか、仕事に職域がないほうがよいと考えているからだろうか。プロモーションも必要だし、作家という表現のほうが、これからの時代には生きていける人たちだろうと思う。でも、作家という言葉も一人自分でやるイメージがあって、それよりも、他の人たちのできない部分を自分が代わりにやって助けるような力をもった広い視野の人が必要だろう。そういう実力のある人というのはどこでも欲しがっておられるわけで、頭だけでなく、体を動かし、他の人を助けて作業もできるような人。
織物の世界でそれをやれる人というのは、今までの経験の中では数えてみると10人くらいは出会ったと思う。もちろん、できないこともあるけどもできることを一生懸命にされて自分が動いて全体の問題を解決できるような人。そういう人というのは自分のためというよりは、他の人のために自分を犠牲にして仕事しているタイプの人、人柄的な部分とそれまでの体験みたいなものが大事で、物事に対して自分とは関係ないと自分とは関係ないみたいなそぶりを見せない人。
その逆というのが問題などの解決を人に求めまくる人。そういう人というのはすごく職域も狭くて、全体が見えていないことが多く足の引っ張り合いの中で生きていることも多い。自分が腹を決めてものごとをやれば、解決できることも多いのにと思うことも多い。最強なチームというのは、万能的なエキスパート集団。職域なんて小さなものにとらわれず全員が全力を出し切って助け合うみたいな形。そこには仕切り屋みたい存在も必要なく互いをフォローしあえるような力のある者同士。
繊維の世界というのは間口が広い世界なので、全体の工程が長すぎて、その分、自分の分担を自分の中で決めてしまう人が多いものである。これは私の会社の中だけでなく外も同じで、全体の工程の中に他人事な人が入ると、他の人の一生懸命が台無しになることが多い。やるならやるでなんでもやろうみたいな覚悟が大事。妥協がないのとみんながお互いの仕事内容を理解しながら助け合えるので、一人が申し送ってやっているようなものづくりとは別格のものができる。一つの工程もマニュアル化して誰でもできるようにしてしまうよりも、マニュアル化せずに常に工程を上げてゆくような高い品質を求めることも大事で、下手に最初から品質を求めてものづくりすると高いところまではいけないので、私がよくお客さんとモノづくりを話したときに提案することに、リスクや問題を減らすためには普通になるけど安全な企画でものを作ることを提案に終わってしまう。だいたいの場合そう。
ものづくりで別格のものをつくろうとすれば次の工程の人が普通だと扱えないことも多いので、やっぱり普通の布に近い形でお願いしますとなってくる。最後普通のものができたときにそれを評価できる最終の消費者がおられるのかというと普通の色違いの世界だったりもする。まわりまわって、普通のものづくりにたどり着くよくありがちな話でお客さんがそれに対応できるかできないかで変わってくる話だったりもする。中も同じで、作業をする人が対応できる人か対応できない人かでものづくりも変わってくる。
マニュアル化(標準化)された作業現場で働いたことがあるが、品質の安定を目指すもの。繊維の世界もどうも同じような方向に全体は動いているようだけども、特別な糸というのは誰もが使えるような糸じゃないことが多いものであったりする。すごく綺麗なんだけども、糸の微妙なフシがその分逆に目立ってしまったり、それがアイリッシュリネン140番手の糸とか、だから、整経するのに1台の整経機を6か月使いながら、時間を見つけては、すこしづつ糸のフシをひとつひとつ取り除きながら整経したりとか。織るのも1時間に30cmとか、150m織るだけでも時間を見つけながら実際の作業時間換算で2か月ほどは掛けている。
なぜ、アイリッシュリネン糸の世界が消えてしまったのかという問題の私の結論が、ヨーロッパにコットンが普及したこと、1960年後半のリネンの作柄の悪さ、為替変動、ウォーターレッティングの禁止、また、高速のレピア織機が普及して、高級とされてきた細い糸を織ることができなくなってしまったということだろう。他にも繊維産業以外に自動車機械産業が発達したことも優秀な人間が繊維に集中するのが当たり前ではなくなった。仕事していても、似たような局面は日本でもあって、日本で一番の規模だった近江湖東産地の麻織物が風前の灯状態なのも、そういう一つの問題に苦しみ、それが5つも6つも重なって、もう無理みたいなあたりだろうから、衰退するのもよくわかる話なのである。
販売や企画など縦の系列的な問題に絡んで利益率が低くなり、やっても成り立たなくなっていることが指摘されることが多いが、それは単に一つの要因に過ぎないと思う。ウォーターレッティングの禁止みたいなものも、今からすると自然を活用した製法で、オーガニックな製法の一つなのではあるけども、それの規模が大きければ川の水を汚染するということで禁止される。コットンなんかも湖を小さくしてしまったということで悪者扱いになっているけども、そうでなくても、日本では戦後、湾や沼地なんてほとんど埋め立てされてしまっている。東京も大阪も今栄えている場所はかつては海だったところを埋め立てただけであって、勝てば官軍的な要素で物事を判断しているだけのことではないかと思えたりもする。
琵琶湖も同じ、今風に湖岸が綺麗に整備されたりするけども、滋賀県というのは江州と呼ばれて、入江が豊富だった場所。行政の主導で大きく住みやすい環境が整備されてゆくが一方でそれが環境破壊そのものだったりもする。人の生活を重視するのかそれとも自然を重視するのか、経済発展を重視すればおのずと自然は破壊されてゆくもので、経済発展を目指さないことが自然保護には役立つのである。今よりも便利な生活をもとめないことが環境の保護には役立つのだろうが、便利なものを生み出すなら自然の材料の中から生み出す程度に止めよというのが、今のサステイナブルな流れ。
織物の世界でそれをやれる人というのは、今までの経験の中では数えてみると10人くらいは出会ったと思う。もちろん、できないこともあるけどもできることを一生懸命にされて自分が動いて全体の問題を解決できるような人。そういう人というのは自分のためというよりは、他の人のために自分を犠牲にして仕事しているタイプの人、人柄的な部分とそれまでの体験みたいなものが大事で、物事に対して自分とは関係ないと自分とは関係ないみたいなそぶりを見せない人。
その逆というのが問題などの解決を人に求めまくる人。そういう人というのはすごく職域も狭くて、全体が見えていないことが多く足の引っ張り合いの中で生きていることも多い。自分が腹を決めてものごとをやれば、解決できることも多いのにと思うことも多い。最強なチームというのは、万能的なエキスパート集団。職域なんて小さなものにとらわれず全員が全力を出し切って助け合うみたいな形。そこには仕切り屋みたい存在も必要なく互いをフォローしあえるような力のある者同士。
繊維の世界というのは間口が広い世界なので、全体の工程が長すぎて、その分、自分の分担を自分の中で決めてしまう人が多いものである。これは私の会社の中だけでなく外も同じで、全体の工程の中に他人事な人が入ると、他の人の一生懸命が台無しになることが多い。やるならやるでなんでもやろうみたいな覚悟が大事。妥協がないのとみんながお互いの仕事内容を理解しながら助け合えるので、一人が申し送ってやっているようなものづくりとは別格のものができる。一つの工程もマニュアル化して誰でもできるようにしてしまうよりも、マニュアル化せずに常に工程を上げてゆくような高い品質を求めることも大事で、下手に最初から品質を求めてものづくりすると高いところまではいけないので、私がよくお客さんとモノづくりを話したときに提案することに、リスクや問題を減らすためには普通になるけど安全な企画でものを作ることを提案に終わってしまう。だいたいの場合そう。
ものづくりで別格のものをつくろうとすれば次の工程の人が普通だと扱えないことも多いので、やっぱり普通の布に近い形でお願いしますとなってくる。最後普通のものができたときにそれを評価できる最終の消費者がおられるのかというと普通の色違いの世界だったりもする。まわりまわって、普通のものづくりにたどり着くよくありがちな話でお客さんがそれに対応できるかできないかで変わってくる話だったりもする。中も同じで、作業をする人が対応できる人か対応できない人かでものづくりも変わってくる。
マニュアル化(標準化)された作業現場で働いたことがあるが、品質の安定を目指すもの。繊維の世界もどうも同じような方向に全体は動いているようだけども、特別な糸というのは誰もが使えるような糸じゃないことが多いものであったりする。すごく綺麗なんだけども、糸の微妙なフシがその分逆に目立ってしまったり、それがアイリッシュリネン140番手の糸とか、だから、整経するのに1台の整経機を6か月使いながら、時間を見つけては、すこしづつ糸のフシをひとつひとつ取り除きながら整経したりとか。織るのも1時間に30cmとか、150m織るだけでも時間を見つけながら実際の作業時間換算で2か月ほどは掛けている。
なぜ、アイリッシュリネン糸の世界が消えてしまったのかという問題の私の結論が、ヨーロッパにコットンが普及したこと、1960年後半のリネンの作柄の悪さ、為替変動、ウォーターレッティングの禁止、また、高速のレピア織機が普及して、高級とされてきた細い糸を織ることができなくなってしまったということだろう。他にも繊維産業以外に自動車機械産業が発達したことも優秀な人間が繊維に集中するのが当たり前ではなくなった。仕事していても、似たような局面は日本でもあって、日本で一番の規模だった近江湖東産地の麻織物が風前の灯状態なのも、そういう一つの問題に苦しみ、それが5つも6つも重なって、もう無理みたいなあたりだろうから、衰退するのもよくわかる話なのである。
販売や企画など縦の系列的な問題に絡んで利益率が低くなり、やっても成り立たなくなっていることが指摘されることが多いが、それは単に一つの要因に過ぎないと思う。ウォーターレッティングの禁止みたいなものも、今からすると自然を活用した製法で、オーガニックな製法の一つなのではあるけども、それの規模が大きければ川の水を汚染するということで禁止される。コットンなんかも湖を小さくしてしまったということで悪者扱いになっているけども、そうでなくても、日本では戦後、湾や沼地なんてほとんど埋め立てされてしまっている。東京も大阪も今栄えている場所はかつては海だったところを埋め立てただけであって、勝てば官軍的な要素で物事を判断しているだけのことではないかと思えたりもする。
琵琶湖も同じ、今風に湖岸が綺麗に整備されたりするけども、滋賀県というのは江州と呼ばれて、入江が豊富だった場所。行政の主導で大きく住みやすい環境が整備されてゆくが一方でそれが環境破壊そのものだったりもする。人の生活を重視するのかそれとも自然を重視するのか、経済発展を重視すればおのずと自然は破壊されてゆくもので、経済発展を目指さないことが自然保護には役立つのである。今よりも便利な生活をもとめないことが環境の保護には役立つのだろうが、便利なものを生み出すなら自然の材料の中から生み出す程度に止めよというのが、今のサステイナブルな流れ。