リネン日記
泥臭さ
2020年09月15日
日本の政治をみているとどうしようもない泥臭さがあって、死ぬまでわしが、わしが、いうこと聞かんと干すぞみたいなのに縛られているような気がする。世代交代をせんと、そういうのに巻かれないと生きてゆけない若い世代はつぶされてゆくだろう。
昔、中国に秦の始皇帝がいたけども、後世からみれば偉大な事業をしたようにみえるけども、多くの人たちが奴隷状態で国のためじゃなく秦の始皇帝のために奉仕ばかりの人生。真の始皇帝は自分が不老長寿の薬で永遠に皇帝であろうとした。日本の典型的な政治家の人生観みたいなものはそれに近いのではないだろうか。国家統一とかは人の欲程度の愚かなものでしかない。支配欲にまみれた政治家と関わらない、影響を受けない人生があっても良いだろう。
織物の世界にいても、わしがわしがの人は多い、自分がやっていれば別に構わないけども、仕事する側で人を使いたいばかりの輩はどうしても他の人を働いた分を食う側にしか回れない。アメリカファーストのようなトランプ的な政治だけは目指さないでほしいと思うが、政治家がトランプみたいなのに憧れていると、それを実際に支える底辺的な階級がどうしても必要になってしまう。逆に自分で働いでてもないものがトランプの相手をしているのも、虚構にしか思えない。なぜ、働いて支えているものを悪いことをしているように見下すのだろう。古着を着るとかリメイクするとか簡単なことじゃなく、コットンを育てて、紡いで服を作るとかのレベルまで行ってほしいなあと思う、きっと見えてくるものがあるだろうと思うが、そういう作業を見下しているようではいつまでも他の困っている人を支えられるような人間性は生まれないだろうと思う。
なんか、エシカルナ賞で1000万とかが副賞とか、どれだけ金満で救える人も救わない世の中なんだと思う。それで何百人もの食べるものもない命が救えたりするけども賞や式典や審査委員の権威が大事なのかと思えたりする。ノーベル平和賞も同じことで、実際食べるものもない人間に1憶をばらまいたほうが現実的には命を救えるが、賞というものに権威主義的になって、上から目線になってしまうと存在自体が主催者たちの権威ためという愚かなところになってしまう。
ノミネートに力を使うくらいなら、貧しい人々の命を救う活動にその労力をと思うが、手を汚したくない人間が運用していると、それは絶対に無理な話。
私が滋賀県の行政がボランティアしてますか、みたいな上から目線の基準。公務員というのは搾取的な部分が多く、責任もないボランティアなんてものは簡単なこと。ボランティアじゃなく、人を雇用して成り立たせていくという本質を大事にしてゆかないか。それを支えている人たちを叩いてもしかたない、支えているものは支えられる側よりも覚悟を決めて働いているのに、それを見るものがその覚悟もなく、為政したいレベルだと傲慢な搾取的な考え方を理想に思うレベルでしかないんだろうと思う。それはボランティアとは逆の反ボランティアの行動そのもの。
国際的なリーダーを養うという大学を中心とした団体がある。主旨には賛同をするけども、結局が、企業がすべて負担して面倒を見なさいというようなレベルだと、感覚自体が学生のアルバイトレベルでしかなく、逆に、求めるばかりで搾取的なリーダーが増えるだけではないのかと思う。取るばかりのリーダーを育ててどうするのと思うが、リーダー養成機関ですらもそれがビジネススタイルでアカンだろう。学生自体のインターンシップが現金すぎて成り立たないのだろうけど、本当のリーダー経営者を育てていくには難しいだろう。日雇いのアルバイトのほうが覚悟があったりして、本職というのは本質的にはそういう日雇いのアルバイトの人以上の覚悟で他の人を育てて面倒も見ていくくらいでないとサステイナブルでもないだろう。リーダーがまず自分の待遇を求めるところから始まるという、養う側のリーダーが養われる側の世界。大学の先生たちの軽い感覚あるとそれは学生にも影響を及ぼして、結局、自分自身が食べてもいけない学生をリーダーとして育てている学校教育に終わってしまう。それなら、学校で勉強しなくても、コンビニでバイトして現実社会を味わったほうが大学以上のリーダー教育の価値がある。
人を支えていくということは、自分がじゃなくの世界で、昔の家族が食べていけないから自分が頑張って働いて家族を支えていくの世界。国民が食べていくのが難しいから自分が働いて国民を食べさせていくみたいな覚悟が政治家にも必要だろうけど、与党にも野党にもそういう覚悟はまったくないだろう。カネがすべてで、政治はカネの取り合いだけに終始。政治がそれじゃあ一番駄目な政治だが、それが普通の政治になってしまっているのが末期状態で、政治家の政治の仕事のほとんどが自分たちが責任から逃れ待遇を享受するというのが普通の政党のスタイルでそれが国民からの搾取で成り立っている。政治家はせめて、日雇いの底辺以上に現実的に働く覚悟もなければ、人々の面倒を見る政治家も目指すべきではないだろうと思う。
トランプでもアメリカファーストといいながら、政権が交代すれば、まったく、国政には協力しないだろう。私が本当に残念に思うのは、滋賀県知事をやった知事の人が、自分が立ち上げた事業に、知事が終わったら個人として、費用負担して見に来ることもないこと。それが政治家の現実で、最初に開催された時には、自分があいさつに来て、そのあと引き継いで行われているイベントでも、あいさつにきて大事なイベントといっている元知事ですらも顔を見ることがない。知事の政治的な食い扶持に人々の本気が社会を支えていく気持ちが使われては本当に困る話。自分が数千円の観覧費用も負担できず、見に来る覚悟もないイベントをバックアップして立ち上げて政治とは、地元行政が本当に情けないのである。
昔、中国に秦の始皇帝がいたけども、後世からみれば偉大な事業をしたようにみえるけども、多くの人たちが奴隷状態で国のためじゃなく秦の始皇帝のために奉仕ばかりの人生。真の始皇帝は自分が不老長寿の薬で永遠に皇帝であろうとした。日本の典型的な政治家の人生観みたいなものはそれに近いのではないだろうか。国家統一とかは人の欲程度の愚かなものでしかない。支配欲にまみれた政治家と関わらない、影響を受けない人生があっても良いだろう。
織物の世界にいても、わしがわしがの人は多い、自分がやっていれば別に構わないけども、仕事する側で人を使いたいばかりの輩はどうしても他の人を働いた分を食う側にしか回れない。アメリカファーストのようなトランプ的な政治だけは目指さないでほしいと思うが、政治家がトランプみたいなのに憧れていると、それを実際に支える底辺的な階級がどうしても必要になってしまう。逆に自分で働いでてもないものがトランプの相手をしているのも、虚構にしか思えない。なぜ、働いて支えているものを悪いことをしているように見下すのだろう。古着を着るとかリメイクするとか簡単なことじゃなく、コットンを育てて、紡いで服を作るとかのレベルまで行ってほしいなあと思う、きっと見えてくるものがあるだろうと思うが、そういう作業を見下しているようではいつまでも他の困っている人を支えられるような人間性は生まれないだろうと思う。
なんか、エシカルナ賞で1000万とかが副賞とか、どれだけ金満で救える人も救わない世の中なんだと思う。それで何百人もの食べるものもない命が救えたりするけども賞や式典や審査委員の権威が大事なのかと思えたりする。ノーベル平和賞も同じことで、実際食べるものもない人間に1憶をばらまいたほうが現実的には命を救えるが、賞というものに権威主義的になって、上から目線になってしまうと存在自体が主催者たちの権威ためという愚かなところになってしまう。
ノミネートに力を使うくらいなら、貧しい人々の命を救う活動にその労力をと思うが、手を汚したくない人間が運用していると、それは絶対に無理な話。
私が滋賀県の行政がボランティアしてますか、みたいな上から目線の基準。公務員というのは搾取的な部分が多く、責任もないボランティアなんてものは簡単なこと。ボランティアじゃなく、人を雇用して成り立たせていくという本質を大事にしてゆかないか。それを支えている人たちを叩いてもしかたない、支えているものは支えられる側よりも覚悟を決めて働いているのに、それを見るものがその覚悟もなく、為政したいレベルだと傲慢な搾取的な考え方を理想に思うレベルでしかないんだろうと思う。それはボランティアとは逆の反ボランティアの行動そのもの。
国際的なリーダーを養うという大学を中心とした団体がある。主旨には賛同をするけども、結局が、企業がすべて負担して面倒を見なさいというようなレベルだと、感覚自体が学生のアルバイトレベルでしかなく、逆に、求めるばかりで搾取的なリーダーが増えるだけではないのかと思う。取るばかりのリーダーを育ててどうするのと思うが、リーダー養成機関ですらもそれがビジネススタイルでアカンだろう。学生自体のインターンシップが現金すぎて成り立たないのだろうけど、本当のリーダー経営者を育てていくには難しいだろう。日雇いのアルバイトのほうが覚悟があったりして、本職というのは本質的にはそういう日雇いのアルバイトの人以上の覚悟で他の人を育てて面倒も見ていくくらいでないとサステイナブルでもないだろう。リーダーがまず自分の待遇を求めるところから始まるという、養う側のリーダーが養われる側の世界。大学の先生たちの軽い感覚あるとそれは学生にも影響を及ぼして、結局、自分自身が食べてもいけない学生をリーダーとして育てている学校教育に終わってしまう。それなら、学校で勉強しなくても、コンビニでバイトして現実社会を味わったほうが大学以上のリーダー教育の価値がある。
人を支えていくということは、自分がじゃなくの世界で、昔の家族が食べていけないから自分が頑張って働いて家族を支えていくの世界。国民が食べていくのが難しいから自分が働いて国民を食べさせていくみたいな覚悟が政治家にも必要だろうけど、与党にも野党にもそういう覚悟はまったくないだろう。カネがすべてで、政治はカネの取り合いだけに終始。政治がそれじゃあ一番駄目な政治だが、それが普通の政治になってしまっているのが末期状態で、政治家の政治の仕事のほとんどが自分たちが責任から逃れ待遇を享受するというのが普通の政党のスタイルでそれが国民からの搾取で成り立っている。政治家はせめて、日雇いの底辺以上に現実的に働く覚悟もなければ、人々の面倒を見る政治家も目指すべきではないだろうと思う。
トランプでもアメリカファーストといいながら、政権が交代すれば、まったく、国政には協力しないだろう。私が本当に残念に思うのは、滋賀県知事をやった知事の人が、自分が立ち上げた事業に、知事が終わったら個人として、費用負担して見に来ることもないこと。それが政治家の現実で、最初に開催された時には、自分があいさつに来て、そのあと引き継いで行われているイベントでも、あいさつにきて大事なイベントといっている元知事ですらも顔を見ることがない。知事の政治的な食い扶持に人々の本気が社会を支えていく気持ちが使われては本当に困る話。自分が数千円の観覧費用も負担できず、見に来る覚悟もないイベントをバックアップして立ち上げて政治とは、地元行政が本当に情けないのである。