リネン日記
寒さ
2021年01月09日
寒さが本格的、工場の中もストーブ1個で寒い。本来なら動いて作業していると寒さも少しは和らぐのだが、年明けから4日間、本麻の黒の立ち上げ。これが本当に糸が細くて繊細で見えなくて壊れやすくてぐちゃぐちゃなのを1本1本直す作業。
こういう織物でも、ほとんどの場合はいつかは織れるという自信があるのだが、この本麻の縦黒は韓国の輸出で2年前に相当苦労した経験があって、あの時は縦が白と黒の1本1本で、織れるまでの相当の苦労。今回の糸も2年前に予備として作った糸で、糊付けに関してもそういう事情も説明して強めにつけてもらっている。
織物というのは一つキズがあったりするとなんでキズがあるのですかみたいな話があるけども、本来はまともに織れないような状態から二人掛かりで何時間もの手術をして普通に織れるような状態に持っていく話。一旦糸がきれると10本まとまって切れることなんてザラで、それをまた直して織ってゆく。スーパーロイヤルになてってからは経糸に使うのが難しくなっているのは事実で、その理由は想像するに単純な話なのであるけどもスーパーロイヤルという糸の目的がニットであることからして織物用途ではないので仕方あるまい。織物に適したラミー糸というのは繊細な毛羽でモヤーと覆われていることが大事で、スーパーロイヤルはスカッとしすぎているのである。
スーパーロイヤルという糸は麻糸としては着物用途にも使われる糸で高級な糸なのだがそれをアパレル向けに使うというのは贅沢といえば贅沢で、でも、今は基本的にそれ以外のチョイスというのが今はないのである。昔よりも糸の強度はかなり落ちて織物として織るのが限界に近いほどに難しくなってはきた。麻糸を縦に使う場合には白限定にする場合が多いと思うが、どうしても高級なイメージというのは、黒とか濃紺とか、絹麻と呼ばれるような光沢感を醸し出す色味が必要。
縦白を縦黒にするだけで、コストは2倍、織る難度は3倍から5倍くらい増す感じ。そういう中で本麻の濃色織物というのは生まれ、人目を一段と惹く織物として存在する。日本で織れるところはもう少ないと思う。需要にしても超高級織物向けなので流れる量も少ないので林与が細々と織っているくらいの量でも十分なのかもしれない。もう50年以上のロングセラーの林与定番のアイテムで、日本の麻織物の一角を代表するような顔の織物。損得度外視で、今もそういう織物を織っているだけでも麻機屋らしくてよいんじゃないかと思う。
今日はお昼時、スタッフの子が、近所のお家の水道が破裂して大変と連絡、たまにしか家の方が戻ってこられない空き家のお家で外部にあるお風呂のボイラーの配管が寒さで凍って破裂して水が噴き出していた。バルブを閉めるだけで水が止まったのでよかったけども、次に使われるときには配管の修理から必要でたまにしか戻ってこられないお家だけに気の毒ではある。まあ一本塩ビ管を直せばよいだけだろうと思う、メモを残しておいた。それなりに今年の冬というのは寒いということだろう。
留守のお家と言いながらも、その家に住まれていたおじいさんというのは亡くなられたけどもその家の仏壇の中におられて、代々の感覚からすれば家としては生きている。そこにそのおじいさんの居場所があり、家族の方がときどき戻ってこられるというだけでもその家の存在の意味はあるだろうと私は思う。私の家の周りには過疎化や高齢化が進み、そういう家が増えてきた。昔は栄えた集落であっても一旦その流れに向かい始めるとひと世代で過疎の村と化する。若い世代や次の世代に居場所のある集落づくりというのが大事なんだろうと思うが、先代なんかの考えをみていても、時代についていけなくなってもそれをそのまま次の世代に背負わせようとする風潮があったりするので、なかなか次の世代というのは真逆の価値観を両立させないと駄目なので成り立たせるのは難しいんだと思う。早めの世代交代というものも大事に思うのはそこで、一つの繁栄した時代を引きずっては逆に衰退に向かってしまうものである。田舎においても、二つの価値観を両立させるためには、田舎の家という概念と今風の時代にあった自由な生活というものが別にあったほうが両立はさせやすいであろう。お互いを尊重しあうことが大事という結論なのではある。
寒い中で何千本もの糸の問題を乗り越えているとちょっとした問題なんかは大したことのないように思えるが、人というのはどっちが正しいとかどっちが上か下かで争いがちで分かち合うことが大事なんだろうと思う。なかなか、年配の人でも、織物の仕事のような地道な作業をできる人はいないので、私が本当に自分自身の考えが一番爺さんに思えてしまって、年配の方々の言っていることのほうが軽く聞こえてしまい、もっと自分たちが覚悟決めてやったほうが良いんじゃないかと思うことも多い。若い人がちゃんと我慢して仕事できるのに年配のものが仕事を嫌がったりも普通だったりで、そういうところから改めていく必要もあるだろう。、
こういう織物でも、ほとんどの場合はいつかは織れるという自信があるのだが、この本麻の縦黒は韓国の輸出で2年前に相当苦労した経験があって、あの時は縦が白と黒の1本1本で、織れるまでの相当の苦労。今回の糸も2年前に予備として作った糸で、糊付けに関してもそういう事情も説明して強めにつけてもらっている。
織物というのは一つキズがあったりするとなんでキズがあるのですかみたいな話があるけども、本来はまともに織れないような状態から二人掛かりで何時間もの手術をして普通に織れるような状態に持っていく話。一旦糸がきれると10本まとまって切れることなんてザラで、それをまた直して織ってゆく。スーパーロイヤルになてってからは経糸に使うのが難しくなっているのは事実で、その理由は想像するに単純な話なのであるけどもスーパーロイヤルという糸の目的がニットであることからして織物用途ではないので仕方あるまい。織物に適したラミー糸というのは繊細な毛羽でモヤーと覆われていることが大事で、スーパーロイヤルはスカッとしすぎているのである。
スーパーロイヤルという糸は麻糸としては着物用途にも使われる糸で高級な糸なのだがそれをアパレル向けに使うというのは贅沢といえば贅沢で、でも、今は基本的にそれ以外のチョイスというのが今はないのである。昔よりも糸の強度はかなり落ちて織物として織るのが限界に近いほどに難しくなってはきた。麻糸を縦に使う場合には白限定にする場合が多いと思うが、どうしても高級なイメージというのは、黒とか濃紺とか、絹麻と呼ばれるような光沢感を醸し出す色味が必要。
縦白を縦黒にするだけで、コストは2倍、織る難度は3倍から5倍くらい増す感じ。そういう中で本麻の濃色織物というのは生まれ、人目を一段と惹く織物として存在する。日本で織れるところはもう少ないと思う。需要にしても超高級織物向けなので流れる量も少ないので林与が細々と織っているくらいの量でも十分なのかもしれない。もう50年以上のロングセラーの林与定番のアイテムで、日本の麻織物の一角を代表するような顔の織物。損得度外視で、今もそういう織物を織っているだけでも麻機屋らしくてよいんじゃないかと思う。
今日はお昼時、スタッフの子が、近所のお家の水道が破裂して大変と連絡、たまにしか家の方が戻ってこられない空き家のお家で外部にあるお風呂のボイラーの配管が寒さで凍って破裂して水が噴き出していた。バルブを閉めるだけで水が止まったのでよかったけども、次に使われるときには配管の修理から必要でたまにしか戻ってこられないお家だけに気の毒ではある。まあ一本塩ビ管を直せばよいだけだろうと思う、メモを残しておいた。それなりに今年の冬というのは寒いということだろう。
留守のお家と言いながらも、その家に住まれていたおじいさんというのは亡くなられたけどもその家の仏壇の中におられて、代々の感覚からすれば家としては生きている。そこにそのおじいさんの居場所があり、家族の方がときどき戻ってこられるというだけでもその家の存在の意味はあるだろうと私は思う。私の家の周りには過疎化や高齢化が進み、そういう家が増えてきた。昔は栄えた集落であっても一旦その流れに向かい始めるとひと世代で過疎の村と化する。若い世代や次の世代に居場所のある集落づくりというのが大事なんだろうと思うが、先代なんかの考えをみていても、時代についていけなくなってもそれをそのまま次の世代に背負わせようとする風潮があったりするので、なかなか次の世代というのは真逆の価値観を両立させないと駄目なので成り立たせるのは難しいんだと思う。早めの世代交代というものも大事に思うのはそこで、一つの繁栄した時代を引きずっては逆に衰退に向かってしまうものである。田舎においても、二つの価値観を両立させるためには、田舎の家という概念と今風の時代にあった自由な生活というものが別にあったほうが両立はさせやすいであろう。お互いを尊重しあうことが大事という結論なのではある。
寒い中で何千本もの糸の問題を乗り越えているとちょっとした問題なんかは大したことのないように思えるが、人というのはどっちが正しいとかどっちが上か下かで争いがちで分かち合うことが大事なんだろうと思う。なかなか、年配の人でも、織物の仕事のような地道な作業をできる人はいないので、私が本当に自分自身の考えが一番爺さんに思えてしまって、年配の方々の言っていることのほうが軽く聞こえてしまい、もっと自分たちが覚悟決めてやったほうが良いんじゃないかと思うことも多い。若い人がちゃんと我慢して仕事できるのに年配のものが仕事を嫌がったりも普通だったりで、そういうところから改めていく必要もあるだろう。、