リネン日記
フードロス アパレルロス
2022年01月03日
大量生産大量消費のほうが無駄が少ないという流れを作り出しているのが効率的にものを作って生産性を上げようとする日本の経済発展モデルとする日本の経済産業省の考え方とか。結局、売れない場合に在庫を持てば良いのだけど、食べ物の場合にはそれが難しいのだけど衣類の場合には1年2年の在庫は可能である。なぜ、アパレルで1年2年の在庫が難しいのかというと無理とモデルチェンジして、旧式に落とし込んで買い替え需要を促すという方法をどの商品でも取っているから。
モデルチェンジしなければ在庫することも可能になったりするので量産することも可能なのである。林与もベースとなる素材は受注に応じて作るのではなく自社で在庫をすることがある。また、糸なんかも定番の糸などは生産のために前もってまとめて買って持っていることも多い。日本の生活様式も自分で自分のものをつくることから必要なときに買ってという流れになってきた。
昔はよくあったヨビシといわれる呼び事もなくなって、やったとしても外に食べに親戚が集まるとかで済ませるケースが多くなった。お葬式なんかも家でせずにホールで行うという形になって来て、器や皿などをそれぞれの家が持つ必要がなくなった。それぞれの家に今は蔵なんてないだろうけども、昔の家には蔵があって家の行事に必要ないろんなものがそこにしまわれていたりした。あるいみ、何十年前のものが普通に何度も使われていたのが昔のスタイル。
洋服なんかでもおさがりなんかが普通で、それでいて行事なんかのときには余所行きみたいな服が必要だったりしたものである。たとえば中国もそうなんだが新年には新しい服を着るとか。あと日本の成人式の着物のためや結婚のため親がお金を貯めるとか。行事というのは人生で避けて通れないようなものだったりしたのだが、そういうのから解放されていまは行事に必要なものを持っている必要もなくなった。極論からすれば日本的な家制度みたいな縛りから解けて、家すらも守っていくような考えから解かれたというあたり。昔から火事が起きた時に一番になにをする必要があるのかというと、近所のものが家の裏を破って仏壇を運び出すということ、家は器みたいなものでしかなく、家の本体というか守るべきものというのはその家の仏壇であるという考え方、そういうのが今はなくなって、家が途絶えるというケースが普通になった。好きな場所にすみ、好きなことをする、新しい場所で新しいことをするみたいな、新しい出会いも多くいろんな経験も持つような生き方。そういうのが昔でいう人生の行事みたいなものに置き換わっているのだろう。
このコロナで衣類ロスというよりも、アパレル業界を削るみたいな、アパレルの在庫をというよりも、店舗自体を、ブランド自体を捨てるみたいなことが行われているのに、アパレルロスを議論するような状況でもないのかもしれない。商売が成り立たなくなっているアパレル業界にロスをなくしましょうみたいな考え自体が存続すらも難しくするよう商売観なさであったりもする。そういうスタイルでないと勝ち組としてやってゆけないような社会構造があるのである。
たとえば銀座にファストブランドのお店ができたときに、なににお金をつかっているのかというとおかれている洋服には1割も使われていないかもしれない、店舗の賃料や人件費、一番大きいのが広告費であろう。実際の洋服には上代の1割から良くて2割ほどの原価とかが普通。そして利益が上がった場合には在庫を処分することで現金が手元に残るという世界的な製造業での経営手法。これが悪いことのように思われるかもしれないけども、まだ買取式なので下請けの企業にとっては優しいシステム。
日本のジャストインタイムシステムといわれるのは、在庫を持たず在庫リスクを下請け企業に持たせるようなシステム。必要なだけを毎日朝に届けなさい見たいな殿様商売型。本社は在庫は捨てなくてもよいけども、それは在庫リスクを下請けに持たせる参勤交代を強いる江戸時代の徳川幕府に通じるようなものがある。そういう企業が大きな利益をあげることができるのは、リスクを外に背負わせて利益だけを独り占めするような構造。納品のトラックの駐車場もつくらず、納品時間前に会社についている必要があるのだけど敷地の周りの工場を納品時間までぐるぐると回って走らせるというような話まで。こういう企業だけが儲かる仕組みが今の崇められる日本型になりつつある。食品業界では逆が重要だったりして物流を自分で確保して毎日必要な量のパンを店舗に届けるような体制で業界全体を作り上げているような寡占状態もあったりする。昔は日本の家電業界もそんな感じだった。物流というものが田舎にまでも簡単に毎日行き届くようになって、モノの価値は下がったのかも知れない。一方で、雪が降ったりして物流が止まったり原材料不足なんかが起こると、数日会社が止まるとか、大企業なのに、自分が自分で利益目的で脆くしているというだけのことなのに、今、国内に海外の半導体工場を日本のお金を使って作る話とか。今まで安く海外から仕入れるような形のスタイルで利益を上げながら、それが難しくなったら国に税金を投入して助けてもらえるというのは、国に助けてもらって生き残れる自動車業界というのも、そういう半導体が今度余って閉鎖の話になったらそこで働いている人たちはどうなるのかという問題なんてまったく考えずなんだろうなあと思う。名古屋近辺にできたりするんだろうけど、市町村規模どころじゃない税金が使われ雇用が生まれまた崩壊たときには税金で企業維持や雇用を補填する案件。ジャパンディスプレイも何千億使って、結局捨て値でアップルに土地代や工場の建物代にもならないほどのタダで差し上げたみたいな身売りが国営の商売なら最初からその程度のつもりならやめておいた方が国民の税金も世界のアップル製品を支えるために使われることもない、結果アップルのスマフォ液晶支援に税金、日本国民一人当たり一人5000円とか1万円とかだけども、それで世界経済が成り立つというのも政治3流といわれた昔以上に今は政治5流な日本だろう。
すごく甘く緩いものを現実の厳しさも分からずに他力で求めながら素晴らしいかんでやってるような高い理想をもった学生的な行政の思想。富岡製糸工場がなぜ貧農の娘さんを救わずに良家の娘さんを選んでまともなものも作れずに数年で立ちいかず民間の手で固定資産税や維持費用を負担させながら世界遺産なのかの問題にも通じる。京都のお寺でも国が見捨てて、小さなお寺がなんとか生活すらも切り詰めて残して国宝。国が切り捨てて、民間が育んで育んで残したものを良いとこどりみたいに国が認定で国宝とか、役人たちこそが上から目線で人々を食いつぶして滅ぼして行くような典型。
エジプトのピラミッド、秦の始皇帝の万里の長城、イースター島のモアイ群。壮大な建造物のほとんどが階級社会制度の名残で今の人権感覚では全くほめられたものでもないがそれが世界遺産の基本で、現代の先進国の行政にもいまだ通じる所だと何千年たっても解決してもいない問題抱えながらSDGSやエシカルを国や行政が生きてゆくすらも苦しんいる下層扱いの人々に負担だけを強いるのかの話だとSDGSの綺麗な理想さえもが邪悪すぎる存在。
モデルチェンジしなければ在庫することも可能になったりするので量産することも可能なのである。林与もベースとなる素材は受注に応じて作るのではなく自社で在庫をすることがある。また、糸なんかも定番の糸などは生産のために前もってまとめて買って持っていることも多い。日本の生活様式も自分で自分のものをつくることから必要なときに買ってという流れになってきた。
昔はよくあったヨビシといわれる呼び事もなくなって、やったとしても外に食べに親戚が集まるとかで済ませるケースが多くなった。お葬式なんかも家でせずにホールで行うという形になって来て、器や皿などをそれぞれの家が持つ必要がなくなった。それぞれの家に今は蔵なんてないだろうけども、昔の家には蔵があって家の行事に必要ないろんなものがそこにしまわれていたりした。あるいみ、何十年前のものが普通に何度も使われていたのが昔のスタイル。
洋服なんかでもおさがりなんかが普通で、それでいて行事なんかのときには余所行きみたいな服が必要だったりしたものである。たとえば中国もそうなんだが新年には新しい服を着るとか。あと日本の成人式の着物のためや結婚のため親がお金を貯めるとか。行事というのは人生で避けて通れないようなものだったりしたのだが、そういうのから解放されていまは行事に必要なものを持っている必要もなくなった。極論からすれば日本的な家制度みたいな縛りから解けて、家すらも守っていくような考えから解かれたというあたり。昔から火事が起きた時に一番になにをする必要があるのかというと、近所のものが家の裏を破って仏壇を運び出すということ、家は器みたいなものでしかなく、家の本体というか守るべきものというのはその家の仏壇であるという考え方、そういうのが今はなくなって、家が途絶えるというケースが普通になった。好きな場所にすみ、好きなことをする、新しい場所で新しいことをするみたいな、新しい出会いも多くいろんな経験も持つような生き方。そういうのが昔でいう人生の行事みたいなものに置き換わっているのだろう。
このコロナで衣類ロスというよりも、アパレル業界を削るみたいな、アパレルの在庫をというよりも、店舗自体を、ブランド自体を捨てるみたいなことが行われているのに、アパレルロスを議論するような状況でもないのかもしれない。商売が成り立たなくなっているアパレル業界にロスをなくしましょうみたいな考え自体が存続すらも難しくするよう商売観なさであったりもする。そういうスタイルでないと勝ち組としてやってゆけないような社会構造があるのである。
たとえば銀座にファストブランドのお店ができたときに、なににお金をつかっているのかというとおかれている洋服には1割も使われていないかもしれない、店舗の賃料や人件費、一番大きいのが広告費であろう。実際の洋服には上代の1割から良くて2割ほどの原価とかが普通。そして利益が上がった場合には在庫を処分することで現金が手元に残るという世界的な製造業での経営手法。これが悪いことのように思われるかもしれないけども、まだ買取式なので下請けの企業にとっては優しいシステム。
日本のジャストインタイムシステムといわれるのは、在庫を持たず在庫リスクを下請け企業に持たせるようなシステム。必要なだけを毎日朝に届けなさい見たいな殿様商売型。本社は在庫は捨てなくてもよいけども、それは在庫リスクを下請けに持たせる参勤交代を強いる江戸時代の徳川幕府に通じるようなものがある。そういう企業が大きな利益をあげることができるのは、リスクを外に背負わせて利益だけを独り占めするような構造。納品のトラックの駐車場もつくらず、納品時間前に会社についている必要があるのだけど敷地の周りの工場を納品時間までぐるぐると回って走らせるというような話まで。こういう企業だけが儲かる仕組みが今の崇められる日本型になりつつある。食品業界では逆が重要だったりして物流を自分で確保して毎日必要な量のパンを店舗に届けるような体制で業界全体を作り上げているような寡占状態もあったりする。昔は日本の家電業界もそんな感じだった。物流というものが田舎にまでも簡単に毎日行き届くようになって、モノの価値は下がったのかも知れない。一方で、雪が降ったりして物流が止まったり原材料不足なんかが起こると、数日会社が止まるとか、大企業なのに、自分が自分で利益目的で脆くしているというだけのことなのに、今、国内に海外の半導体工場を日本のお金を使って作る話とか。今まで安く海外から仕入れるような形のスタイルで利益を上げながら、それが難しくなったら国に税金を投入して助けてもらえるというのは、国に助けてもらって生き残れる自動車業界というのも、そういう半導体が今度余って閉鎖の話になったらそこで働いている人たちはどうなるのかという問題なんてまったく考えずなんだろうなあと思う。名古屋近辺にできたりするんだろうけど、市町村規模どころじゃない税金が使われ雇用が生まれまた崩壊たときには税金で企業維持や雇用を補填する案件。ジャパンディスプレイも何千億使って、結局捨て値でアップルに土地代や工場の建物代にもならないほどのタダで差し上げたみたいな身売りが国営の商売なら最初からその程度のつもりならやめておいた方が国民の税金も世界のアップル製品を支えるために使われることもない、結果アップルのスマフォ液晶支援に税金、日本国民一人当たり一人5000円とか1万円とかだけども、それで世界経済が成り立つというのも政治3流といわれた昔以上に今は政治5流な日本だろう。
すごく甘く緩いものを現実の厳しさも分からずに他力で求めながら素晴らしいかんでやってるような高い理想をもった学生的な行政の思想。富岡製糸工場がなぜ貧農の娘さんを救わずに良家の娘さんを選んでまともなものも作れずに数年で立ちいかず民間の手で固定資産税や維持費用を負担させながら世界遺産なのかの問題にも通じる。京都のお寺でも国が見捨てて、小さなお寺がなんとか生活すらも切り詰めて残して国宝。国が切り捨てて、民間が育んで育んで残したものを良いとこどりみたいに国が認定で国宝とか、役人たちこそが上から目線で人々を食いつぶして滅ぼして行くような典型。
エジプトのピラミッド、秦の始皇帝の万里の長城、イースター島のモアイ群。壮大な建造物のほとんどが階級社会制度の名残で今の人権感覚では全くほめられたものでもないがそれが世界遺産の基本で、現代の先進国の行政にもいまだ通じる所だと何千年たっても解決してもいない問題抱えながらSDGSやエシカルを国や行政が生きてゆくすらも苦しんいる下層扱いの人々に負担だけを強いるのかの話だとSDGSの綺麗な理想さえもが邪悪すぎる存在。