リネン日記
繊維の世界
2022年09月05日
繊維の世界というのは間口が広い業界だなあと思う。昔から現場は女性がメインの職場だったりもして、林与の場合も親戚の人たちが働いていたような現場で、学校をでるとかも必要なく、時代によっては最初の日に覚えた単純作業だけを一生するようなこともある。大きなボリュームでものが動いていた時代には、近年の中国の繊維業界と同じで、一つの作業さえできれば一人前。伝統工芸の世界というのもそういう分業の世界が当り前で、仏壇なんかも七人衆というような概念で多くの人の手作業で成り立つようなものづくり。繊維の世界も伝統工芸的な流れを組むのと、なぜか、海外の大量生産のライン仕事が同じような製造工程の世界。
今では希少になった伝統工芸品でもそれは昔は大量生産の流れ作業でのハイクラスなモノづくり。ものさしなんかは使わない、計算なんかはしない、目分量で、料理人が感覚で料理を作るのと同じくらいに手間を慣れで省いて最大限に正しいモノづくりで、大量に高度な品質のものを生むことができて広まった。
よくいわれるのが手作りじゃなくても大量生産でも同じ品質だと同じ価値だからという概念。でもそれは、熊本のアサリの世界で昔ながらの本場の産地でものづくりをしていると海外で作る何倍もの費用も掛かるが当たり前で、それを例えば産地偽装してしまえば前億のシェアの何割も取れる。それが林与が2000年以降にアイリッシュリネン糸がまったく手に入らないのに、巷では北アイルランドで紡績されたとされる糸を使ったものが流れていて、まさに熊本のアサリの産地偽装そのもので、結局は高品質な中国紡績の糸だったという話で、林与というのはそういう裏の世界を知っている立場だし、大事なのは消費者をだまして儲けるではなく、業界のプロとして正しい情報を消費者に伝えること。努力目標としては一つの偽装もないように動いて、誠意をもって対応をしていても謳いに関することに判別などが難しいこともあるので、その時には間違いがあったときには認めて返品などにも対応すること。
今の大手の日本の繊維業界がブラックボックスなのは昔から、大手ほど偽装に走りやすく謳いはすごいのだけど実態がないことが多く、5000エーカーの自社畑の話が最後は仕入れ先にまかせていただけで、詳細は分からないが繊維業界の大手の普通。本物か偽物か分からないような世界を自分が全部責任もってやってきたみたいな話で国内の消費者を説得して買わせても最後は、実態がないとかが日本の大手の繊維業界の普通。熊本のアサリの産地偽装そのもので儲けていて最後は逃げてしまうだけ。
海外が悪いのではなくて日本の国内の繊維業界というのは厳しい基準でやっているのに、大手はブラックボックスで出し抜いて実際が本当か嘘なのかを分からない話を安く仕入れて最高級。それはいくら海外でもカシミヤ偽装と同じ話で、大手にありがちな素人チックなサラリーマンの世界。車掌すらもがサラリーマンなのが大手の繊維業界で、不祥事で次から次へと社長が変わるような、もうどうしようもない日本の大手の繊維業界。
世界中の消費者を20年騙したVWのクリーンでぃぜる問題と同じことがGOTSでは駄目だろうと思う世界、GOTSの日本の認定委員が、私が天然繊維でもないものがオーガニックコットン認定されてますよねえというと、それは企業が勝手にやってるだけだから私の関係ないし責任じゃないと言う。正しい努力すらもないのが日本のGOTSの認定委員レベル。それで食べててプロ意識もなく何十万人、何百万人の日本の消費者騙すのはまさに熊本のアサリの産地偽装イカかもしれないよう日本の大手の繊維のブラックボックスな繊維の世界。消費者騙してなんぼで生きているのがオーガニックの理事長10年をあやむやに日本のGOTSの認定委員では困る。やめたくてもやめさせてもらえないんですよとか、エシカルなことが面倒なんですよとか、地道に働く気もないGOTSの日本の認定委委員。ドイツのクリーンディーゼル偽装そのものがGOTSじゃ、現場で働いているものはまともにまじめでもトップを自負するものがそのレベルじゃあ偽装物が流れまくり、消費者偽装そのもの。日本のオーガニックの認定委員でもサラリーマンとしてのプロ意識もない、やってる企業の責任ですよでラベルばら撒いているのが、エシカルを謳う世界。そういうのしっているから本当に日本の繊維業界というのは地道に屋てるんものよりもだまくらかしばかりを認定して儲け主義で末期だとは思う。
アサリでも別に中国産でも北朝鮮産でも韓国産でも正直に伝えればよいだけだけど、日本人が儲からないから偽装しているだけのことで、それがオーガニックを謳う団体が儲け主義でそのレベルだと終わる話。まさに熊本の漁協レベルで、淘汰されるのも当たり前。熊本のアサリと日本のオーガニックの世界というのは紙一重、その紙一重で安く大量に最高のモノを流して市場を何十年も奪うのが日本の大手の繊維の世界。大手の人と話すると安く買うことばかり自分が儲けることばかりで損得ばかりの話だから難しいとは思う。
吉野家が狂牛病のときに専用牧場のポスターを店頭に張り出したのもさすが吉野家と思ったが、あれも嘘だったのはすごかった。普通に大量にながれているショートプレートを使っていたというだけのこと。
今では希少になった伝統工芸品でもそれは昔は大量生産の流れ作業でのハイクラスなモノづくり。ものさしなんかは使わない、計算なんかはしない、目分量で、料理人が感覚で料理を作るのと同じくらいに手間を慣れで省いて最大限に正しいモノづくりで、大量に高度な品質のものを生むことができて広まった。
よくいわれるのが手作りじゃなくても大量生産でも同じ品質だと同じ価値だからという概念。でもそれは、熊本のアサリの世界で昔ながらの本場の産地でものづくりをしていると海外で作る何倍もの費用も掛かるが当たり前で、それを例えば産地偽装してしまえば前億のシェアの何割も取れる。それが林与が2000年以降にアイリッシュリネン糸がまったく手に入らないのに、巷では北アイルランドで紡績されたとされる糸を使ったものが流れていて、まさに熊本のアサリの産地偽装そのもので、結局は高品質な中国紡績の糸だったという話で、林与というのはそういう裏の世界を知っている立場だし、大事なのは消費者をだまして儲けるではなく、業界のプロとして正しい情報を消費者に伝えること。努力目標としては一つの偽装もないように動いて、誠意をもって対応をしていても謳いに関することに判別などが難しいこともあるので、その時には間違いがあったときには認めて返品などにも対応すること。
今の大手の日本の繊維業界がブラックボックスなのは昔から、大手ほど偽装に走りやすく謳いはすごいのだけど実態がないことが多く、5000エーカーの自社畑の話が最後は仕入れ先にまかせていただけで、詳細は分からないが繊維業界の大手の普通。本物か偽物か分からないような世界を自分が全部責任もってやってきたみたいな話で国内の消費者を説得して買わせても最後は、実態がないとかが日本の大手の繊維業界の普通。熊本のアサリの産地偽装そのもので儲けていて最後は逃げてしまうだけ。
海外が悪いのではなくて日本の国内の繊維業界というのは厳しい基準でやっているのに、大手はブラックボックスで出し抜いて実際が本当か嘘なのかを分からない話を安く仕入れて最高級。それはいくら海外でもカシミヤ偽装と同じ話で、大手にありがちな素人チックなサラリーマンの世界。車掌すらもがサラリーマンなのが大手の繊維業界で、不祥事で次から次へと社長が変わるような、もうどうしようもない日本の大手の繊維業界。
世界中の消費者を20年騙したVWのクリーンでぃぜる問題と同じことがGOTSでは駄目だろうと思う世界、GOTSの日本の認定委員が、私が天然繊維でもないものがオーガニックコットン認定されてますよねえというと、それは企業が勝手にやってるだけだから私の関係ないし責任じゃないと言う。正しい努力すらもないのが日本のGOTSの認定委員レベル。それで食べててプロ意識もなく何十万人、何百万人の日本の消費者騙すのはまさに熊本のアサリの産地偽装イカかもしれないよう日本の大手の繊維のブラックボックスな繊維の世界。消費者騙してなんぼで生きているのがオーガニックの理事長10年をあやむやに日本のGOTSの認定委員では困る。やめたくてもやめさせてもらえないんですよとか、エシカルなことが面倒なんですよとか、地道に働く気もないGOTSの日本の認定委委員。ドイツのクリーンディーゼル偽装そのものがGOTSじゃ、現場で働いているものはまともにまじめでもトップを自負するものがそのレベルじゃあ偽装物が流れまくり、消費者偽装そのもの。日本のオーガニックの認定委員でもサラリーマンとしてのプロ意識もない、やってる企業の責任ですよでラベルばら撒いているのが、エシカルを謳う世界。そういうのしっているから本当に日本の繊維業界というのは地道に屋てるんものよりもだまくらかしばかりを認定して儲け主義で末期だとは思う。
アサリでも別に中国産でも北朝鮮産でも韓国産でも正直に伝えればよいだけだけど、日本人が儲からないから偽装しているだけのことで、それがオーガニックを謳う団体が儲け主義でそのレベルだと終わる話。まさに熊本の漁協レベルで、淘汰されるのも当たり前。熊本のアサリと日本のオーガニックの世界というのは紙一重、その紙一重で安く大量に最高のモノを流して市場を何十年も奪うのが日本の大手の繊維の世界。大手の人と話すると安く買うことばかり自分が儲けることばかりで損得ばかりの話だから難しいとは思う。
吉野家が狂牛病のときに専用牧場のポスターを店頭に張り出したのもさすが吉野家と思ったが、あれも嘘だったのはすごかった。普通に大量にながれているショートプレートを使っていたというだけのこと。