リネン日記
寒さ
2022年12月01日
12月に入って年末までのカウントダウン。今日は篠山ターターンの渋谷さんとお話して、丹波篠山もコロナも落ち着いて観光客も戻って来た感じといっておられた。また、篠山タータンの布を春に向けて作りたいとのことで2月くらいに作るのを手伝いに来てくださる。篠山タータンも4つとか整経が必要となるとそれなりに月の半分以上の作業となるだろう。横糸の色数も5色とか6色とかなのでそういうのが案外大変だったりして、リネン生地の総先染め生地としてはなかなか見かけないクラスのデザイン性のある布。ほかではなかなか作れるところがみつからなくて林与がおつくりさせていただくことに。
林与は麻の先染めを得意としているものの、今は無地ライクな生地が増えてきて、私の代になってからはイッセイミヤケのイッセイミヤケブランドやプリーツプリーズのデザイナーさんの企画生地が、林与らしい先染め企画だったかなあ、色をいっぱい使って、コンピュータでシミュレされたものを、布というキャンバスで表現するみたいな。もちろん出来上がった布のほうが雰囲気もある。最近では、ミナペルホネンさんのキッチンクロスもシャトル織で耳までリネンの総先染めで作らせて頂いた。林与らしい特色のある麻の先染めの世界。
シャトルの4色使いというのは1枚1枚つくるのほんと疲れましたみたいな、一番上のシャルから1番下のシャトルへの移動のあるときは、シャトルを挟みやすくて、織る織機も選ぶんだけどもなかなかそのあたりが、しかも一つのシャトルが待機時間の長いデザインだったりして、全部のシャトルがまんべんなくいつも交換されて動いていたら良いのだけども、待機時間が長いとシャトルの位置が杼箱の中で移動して、しっかりと叩けなくなる問題が起こる。そうするとシャトルを挟んでしまう。見えないところでデザイン的に織るのが難しい問題が含まれていたりして、そういうのをクリアして、量産が成り立つ。シャトル織機で麻織物を織るのも林与の特色の一つ。
林与が今織らせて頂いているものは、普通じゃない生地が多くなりすぎて、織機を特価させていたりする。一つの会社さんのこの企画はこの織機を専用にしておくみたいな。今も耳までリネンで東屋さんのキッチンクロスも織らせて頂いているけど、そういうのもほんと地獄耳のような難しさがあって、耳さえ綿の耳ならパカパカ織れるだろうけど。耳までリネンは耳の1本2本が切れ易くて、その原因というのは織機の問題というよりも別の問題があったりもして、織物って奥が深いなあと思うどころか、そこまで注意しないと成り立たないのかと考えると、なかなか他の人に作業をやってもらうとかも難しかったり。耳までリネンも林与の挑戦の一つ。妥協が許される耳までリネンで織るみたいな麻へのこだわりを持ったお客さんのための麻100%。
織物というのは、正しく全部できると簡単な仕事だったりするのだけども、軽く考えてしまって途中問題などがあったときに正しく処理していかないと、織れなくなって最初からやり直さないといけないことになったりする。作業している人はやっぱり限界があって、私が言う正しくは面倒で繊細すぎる所があってそれは素人でも経験者でも同じで、自分が作業してどうしようもなくなったときに自分自身で解決する覚悟があるのかというと、それも素人でも経験者でも同じで時間に縛られてしまう。答えを出せるまでエンドレスな私だからそれなりに残れていたりするところがあって、今の日本では、たとえば、仕事は何時から何時までですかみたい質問から始まると、やめておいたほうが良いんじゃないのかとか、やれる気持ちを否定はしないので一度経験してみて自分が出来るかどうか試してみたらどうだろうかとか、教えてもらったらなんでもできますみたいな自信満々の方にも心配の気持ちが先だったりして。
もちろん、出来る人もいるし出来ない人もいる、それは人生観みたいなものと通じていて自分のために働くのか人のために働くのかみたいなような、ところとも関係がしてくる。私も若いころには自分のためばかりな感覚があってとくに勉強していると知識や情報だけに偏って、おいしいレストランを食べ歩いて評論家みたいになってしまう。実際の仕事というのは自分自身がおいしい料理を生み出して毎回毎回正しく料理をつくってお客さんに満足をいただくことなのだけども、そういうのは自分のためよりは人のために働ける人のほうが近い位置にいたりして、作業している意味なんかも、自分が興味あるかないかよりも、お客さんに喜んでもらおうとか、仕事だと割り切るとかそういうのがないと、理想と現実の間の迷いの世界から抜け出せないんじゃないだろうかと思う。
昭和の時代の繊維業界も理想そのもので、つくれば売れるような世界があって、つくればすべて売れるような、働いたらすべて評価されるようなら仕事は簡単。それは東日本大震災で仮設住宅が必要になってみたいな状況と似ているような、ものが足りないような状況。ものがあり溢れているような状況では、百貨店に並んでいる3000円のものでも、隙すらない完成度で見栄えするもの。それを自分が働いて1時間で作れるのかというとなかなか難しいだろうと思う。たぶん、1日掛かるだろうし、1日掛けても百貨店で並んでいる3000円のもの以上のものが、なかなか難しいようではプロとしては成り立たないというのを分かっているのがあたりまえでないと、日本での超えたようなものづくりの世界は現実的ではないだろう。
何か月も掛けて一つの物を作ってそれが百万円とかで売れるならそれはニッチェな特化した特別の世界として成り立たないこともないだろうけど、それが量産品のような需要があると考えるのは、理想が高い世界なんだろうと思う。普通に週40時間働いて特別な世界の先生や、他の人からあこがれてもらえるような立場になりたいみたいな。草間さんやバンクシーみたいな理想はおおいけども、それは世界で100人いるかいないかn世界で、繊維業界何億人の中の特別な100人のうちのピンな世界。そういう憧れだとそういう世界にはたどり着けずにそういう世界の情報を楽しむだけの憧れるお客さんの一人。
自分自身がそういう特別な世界を支えるような気持ちや感覚が無いとブランドの世界の高級なイメージというのは生み出せなかったりする。課題が与えられた時に覚悟を決めてとことんやるようなイメージがないと好き嫌いでやっているようだと、自分以外の他の人に自分のやりたいことを求めているようではそれは、他の人の求めていることも自分が解決していくことは難しいだろう。他の人の求めていることを受けて喜んでもらえるような結果も出せないようなら、業として自分が作ったものすらも世間一般の評価を受けることは難しかったりする。
子供のころに感じた、1分が過ぎるのがすごく長く感じるような寒さみたいなもの、その世界というのが一番自分との戦いのなかでの最初の戦いだったりして、そういうんを乗り越えられるか乗り越えられないか、乗り越えた人だと次のステップがあって、乗り越えられないとその辺りでの戦い。日本で使うものを作っている人たちを見下すような考え方があるけども、それは本当に間違いで、それを安く手に入れて幸せを手にしていながら働いて作っている人を見下していては、一番駄目なのはだれなのかというところ名上流階級思想。救えるのも救えないのも、階級思想てきな考え方があって、自分たちは作業をするひとじゃない指揮する側だみたいな感覚。それって奴隷社会の感覚と同じで、末端のものがすることくらい普通にできなければ、高い地位も難しい。戦争で前線に一番下っ端が放り込まれて、戦争を指揮するものは一番安全なところにいるみたいなお笑いな話。戦争を起こし指揮するものが前線に立てないようなら戦争はやめとけ。と思う。愛国煽りながら自分が一番かわいいような年寄りたちが、若者を前線に送り犠牲になるのが何百年も続いている。人類は動物としても、自分可愛さに次の世代を守る本能すらもないあたりがイースター島の部族争いみたいなもの。;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
林与は麻の先染めを得意としているものの、今は無地ライクな生地が増えてきて、私の代になってからはイッセイミヤケのイッセイミヤケブランドやプリーツプリーズのデザイナーさんの企画生地が、林与らしい先染め企画だったかなあ、色をいっぱい使って、コンピュータでシミュレされたものを、布というキャンバスで表現するみたいな。もちろん出来上がった布のほうが雰囲気もある。最近では、ミナペルホネンさんのキッチンクロスもシャトル織で耳までリネンの総先染めで作らせて頂いた。林与らしい特色のある麻の先染めの世界。
シャトルの4色使いというのは1枚1枚つくるのほんと疲れましたみたいな、一番上のシャルから1番下のシャトルへの移動のあるときは、シャトルを挟みやすくて、織る織機も選ぶんだけどもなかなかそのあたりが、しかも一つのシャトルが待機時間の長いデザインだったりして、全部のシャトルがまんべんなくいつも交換されて動いていたら良いのだけども、待機時間が長いとシャトルの位置が杼箱の中で移動して、しっかりと叩けなくなる問題が起こる。そうするとシャトルを挟んでしまう。見えないところでデザイン的に織るのが難しい問題が含まれていたりして、そういうのをクリアして、量産が成り立つ。シャトル織機で麻織物を織るのも林与の特色の一つ。
林与が今織らせて頂いているものは、普通じゃない生地が多くなりすぎて、織機を特価させていたりする。一つの会社さんのこの企画はこの織機を専用にしておくみたいな。今も耳までリネンで東屋さんのキッチンクロスも織らせて頂いているけど、そういうのもほんと地獄耳のような難しさがあって、耳さえ綿の耳ならパカパカ織れるだろうけど。耳までリネンは耳の1本2本が切れ易くて、その原因というのは織機の問題というよりも別の問題があったりもして、織物って奥が深いなあと思うどころか、そこまで注意しないと成り立たないのかと考えると、なかなか他の人に作業をやってもらうとかも難しかったり。耳までリネンも林与の挑戦の一つ。妥協が許される耳までリネンで織るみたいな麻へのこだわりを持ったお客さんのための麻100%。
織物というのは、正しく全部できると簡単な仕事だったりするのだけども、軽く考えてしまって途中問題などがあったときに正しく処理していかないと、織れなくなって最初からやり直さないといけないことになったりする。作業している人はやっぱり限界があって、私が言う正しくは面倒で繊細すぎる所があってそれは素人でも経験者でも同じで、自分が作業してどうしようもなくなったときに自分自身で解決する覚悟があるのかというと、それも素人でも経験者でも同じで時間に縛られてしまう。答えを出せるまでエンドレスな私だからそれなりに残れていたりするところがあって、今の日本では、たとえば、仕事は何時から何時までですかみたい質問から始まると、やめておいたほうが良いんじゃないのかとか、やれる気持ちを否定はしないので一度経験してみて自分が出来るかどうか試してみたらどうだろうかとか、教えてもらったらなんでもできますみたいな自信満々の方にも心配の気持ちが先だったりして。
もちろん、出来る人もいるし出来ない人もいる、それは人生観みたいなものと通じていて自分のために働くのか人のために働くのかみたいなような、ところとも関係がしてくる。私も若いころには自分のためばかりな感覚があってとくに勉強していると知識や情報だけに偏って、おいしいレストランを食べ歩いて評論家みたいになってしまう。実際の仕事というのは自分自身がおいしい料理を生み出して毎回毎回正しく料理をつくってお客さんに満足をいただくことなのだけども、そういうのは自分のためよりは人のために働ける人のほうが近い位置にいたりして、作業している意味なんかも、自分が興味あるかないかよりも、お客さんに喜んでもらおうとか、仕事だと割り切るとかそういうのがないと、理想と現実の間の迷いの世界から抜け出せないんじゃないだろうかと思う。
昭和の時代の繊維業界も理想そのもので、つくれば売れるような世界があって、つくればすべて売れるような、働いたらすべて評価されるようなら仕事は簡単。それは東日本大震災で仮設住宅が必要になってみたいな状況と似ているような、ものが足りないような状況。ものがあり溢れているような状況では、百貨店に並んでいる3000円のものでも、隙すらない完成度で見栄えするもの。それを自分が働いて1時間で作れるのかというとなかなか難しいだろうと思う。たぶん、1日掛かるだろうし、1日掛けても百貨店で並んでいる3000円のもの以上のものが、なかなか難しいようではプロとしては成り立たないというのを分かっているのがあたりまえでないと、日本での超えたようなものづくりの世界は現実的ではないだろう。
何か月も掛けて一つの物を作ってそれが百万円とかで売れるならそれはニッチェな特化した特別の世界として成り立たないこともないだろうけど、それが量産品のような需要があると考えるのは、理想が高い世界なんだろうと思う。普通に週40時間働いて特別な世界の先生や、他の人からあこがれてもらえるような立場になりたいみたいな。草間さんやバンクシーみたいな理想はおおいけども、それは世界で100人いるかいないかn世界で、繊維業界何億人の中の特別な100人のうちのピンな世界。そういう憧れだとそういう世界にはたどり着けずにそういう世界の情報を楽しむだけの憧れるお客さんの一人。
自分自身がそういう特別な世界を支えるような気持ちや感覚が無いとブランドの世界の高級なイメージというのは生み出せなかったりする。課題が与えられた時に覚悟を決めてとことんやるようなイメージがないと好き嫌いでやっているようだと、自分以外の他の人に自分のやりたいことを求めているようではそれは、他の人の求めていることも自分が解決していくことは難しいだろう。他の人の求めていることを受けて喜んでもらえるような結果も出せないようなら、業として自分が作ったものすらも世間一般の評価を受けることは難しかったりする。
子供のころに感じた、1分が過ぎるのがすごく長く感じるような寒さみたいなもの、その世界というのが一番自分との戦いのなかでの最初の戦いだったりして、そういうんを乗り越えられるか乗り越えられないか、乗り越えた人だと次のステップがあって、乗り越えられないとその辺りでの戦い。日本で使うものを作っている人たちを見下すような考え方があるけども、それは本当に間違いで、それを安く手に入れて幸せを手にしていながら働いて作っている人を見下していては、一番駄目なのはだれなのかというところ名上流階級思想。救えるのも救えないのも、階級思想てきな考え方があって、自分たちは作業をするひとじゃない指揮する側だみたいな感覚。それって奴隷社会の感覚と同じで、末端のものがすることくらい普通にできなければ、高い地位も難しい。戦争で前線に一番下っ端が放り込まれて、戦争を指揮するものは一番安全なところにいるみたいなお笑いな話。戦争を起こし指揮するものが前線に立てないようなら戦争はやめとけ。と思う。愛国煽りながら自分が一番かわいいような年寄りたちが、若者を前線に送り犠牲になるのが何百年も続いている。人類は動物としても、自分可愛さに次の世代を守る本能すらもないあたりがイースター島の部族争いみたいなもの。;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;