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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

神功皇后

2023年06月22日

卑弥呼は神功皇后ではないかという説があるが、今は通説とはされていないが、多分、それが歴史的事実なんだろうなあと思う。江戸時代までは卑弥呼は神功皇后であったとされているが、国学者の本居宣長も卑弥呼は神功皇后であるとしていた。明治になって卑弥呼が別にいたほうがよいような事情が出て来たのだろうと思う。中国の魏志倭人伝で、卑弥呼というような蔑称で記録が残っているのも、日皇女というような記載だったら、別の存在は必要なかったかもしれない。文字を読めなかった江戸時代と、文字を読み書きできるようになった明治時代とでは、事情が異なってきたのかもしれない。

皇后が巫女としての役割を果たすというのも理に叶ったことで、弥呼(ミコ)というのは、巫女を指し、皇女もミコと読む。日皇女とは、日本の女王という意味になるのだろう。幡神として、知られている神功皇后ではあり、地元の豊満神社も幡神の言い伝えが残っている。本居宣長は、邪馬台国をヤマトコクと読んだということで、邪馬台国をヤマタイコクと読まないといけない事情も明治になって、同じような理由であったのだろう。国民に邪馬台国と呼ばれていたものが大和朝廷の歴史では示しがつかない。

魏志倭人伝のような文献に残ってしまっていて消し去ることもできないし、別物として存在させる方向で、日本の歴史とした可能性もある。幡神の旗は、秦、機、幡、畑など共通のものであり、秦の始皇帝の時代の渡来したものたちが秦氏を形成した。五穀と同様に織物の文化も、秦の時代の最先端の織物を徐福一行が持ち込んだと思われる。日本の古来のたたら製鉄の技術も、徐福一行の職工たちのうちに含まれていたであろうと。

アサの語源がヌサであるというのも、奴佐であろうとされるところも興味深いところで、中国への献上品を、中国が奴佐と読んだことで、その代表的なものだった麻の繊維がヌサと呼ばれるようになって、日本神道では、「幣」という漢字が当てられたのだろう。日本は本来、大麻の麻もオと呼んだのである。苧と同じ。神道の貢物が大麻だったので、大麻はアサ、ヌサと呼ばれる。幣にするには大麻がいい太さだろう。アラタエ、ニギタエも本来は、妙で、織物ではなかったであろう。打綿して妙状にしたものを指したであろう。それには絹や大麻が適切である。逆に苧麻は繊維がしっかりとしているので、打面してもフェルト化はしにくい。のちに織物になってからは、アラタエには大麻だけでなく苧麻も使われたであろうと思う。打綿したものは妙、織ったものは布という。ヌノというのは、縫うというのとオを掛け合わせたもので、ヌウオが布であるという説がある。もともと地機というのは、腰機のことではなくて、地面に縦糸であるオを水平に張って、それを横糸のオで縫うようにして織ったものが織物の始まりであろう。アンギンという経糸を掛けるようにして横糸を縫って作る方法も古代の織物の技法のひとつだが、垂直に経糸を張るのと水平に糸を張るのとの違いがある。昭和の時代までは、稲の藁ですらもが繊維として大活躍していた。藁を編んで草履をつくったり、傘や蓑をつくったり、傘子地蔵の世界からすれば、繊維というものは人の手作業から生まれるもの。

アラタエの鹿服みたいに書いて、アラタエと読むのがあるけども、あれは、木を三つ並べて森という字のように、鹿を3つ使って粗いという意味の漢字から来ている。粗という字の美称が、鹿が散らばっている様を表す、アラタエなのである。アラタエが本来は、鹿の皮だったという説には疑問を感じる。

なぜ、日本の神道で大麻を供えるのだろうか、そこに徐福の存在を感じるのである。徐福は7年間インドに留学して、ガンジス川などにももちろん行って、ヒンズー教では神の草と呼ばれる大麻文化に触れただろう。またアショカ王の仏教にも触れただろう。持ち込んだ五穀の一つが大麻だった可能性も高い。というのも、中国の大麻もかなり無毒化された大麻で、日本の大麻も中国から持ち込まれた可能性が高いのである。それでも多少の毒性は残っており、神事などの占いで、燃やした煙を吸うことで麻酔し、巫女が陶酔したような状態で口からこぼれる言葉が占いとなったのであろう。また、インドの寺院の鳥居なども、日本神道の鳥居の起源ではないかと思われるのである。


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