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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

近江

2024年01月25日

近江という言葉は、淡海(あわうみ)からきているとされ、淡海とは琵琶湖を指す。湖のある国という意味で、なぜそれが近江となったのかというと、奈良の都(のちには京都の都)から近い湖ということで、浜名湖を遠い湖として対比される。律令制の時代に近江国(チカツアワウミノクニ)は通称として江州(ゴウシュウ)と呼ばれ、遠江国(トオトアワウミノクニ)は通称として遠州(エンシュウ)と呼ばれた。湖の国が2つあったという認識で、滋賀県が近江(おうみ)、浜松の西部が遠州(エンシュウ)という名前の由来である。

今は琵琶湖は堰で下流域への放水を調整するような形で、もしその堰が作られていなかったらればの話をすれば、船が大阪湾まで行きかっていたかもしれない。水の都としての琵琶湖があったかもしれないのである。堰によって琵琶湖がダム化したということが言えよう。ダム化によって下流域の水量がコントロールされることで、下流域の地域の発達には貢献をしたと言える。

琵琶湖の水位の低下などが言われ始めているが、琵琶湖の赤潮被害などは子供のころのほうがひどかっただろうけども琵琶湖にはもっとたくさんの水資源があったと言える。琵琶湖に流れ込む河川の上流にはダムが出来、琵琶湖自体が川から巨大な池化したともいえるだろう。琵琶湖周辺も特に戦後は人口の増加を心配して、埋め立てが行われて水田化された。国家のための農業地化が行われたのである。戦後は、内湖的な大中胡なども埋め立てられ、大中の農地となった。

安土城のあたりも、安土桃山時代には安土山の周りは琵琶湖、彦根城の周りも琵琶湖が外堀形成していた。彦根の辺りで中山道は、左右を水辺に挟まれるような状態で、人々の往来を管理していたのである。また、愛知川等の川にしても、江戸時代までは、橋がついておらず、担ぎ手が人を担いで川を渡していたような話で、一つの関所となっていた。東円堂という村の人たちがその川渡しにかかわっていた名残が、昔は、愛知川の反対側の五個荘の中山道近辺の土地まで東円堂だったということで、昔は土地は開拓すれば自分のものだったようなところがあって、昔は東円堂村の人が農業水利にもかなり深く関係もしていて、中部排水といわれる川の周辺の土地も今も川上の水源までは東円堂の土地と認識がされているような話で、水源から水路をつくって田んぼに水を引いてきたというような歴史があるらしい。今は県の管轄にはなっているようではあるが管理の名残が残っているらしい。


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