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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

常に動くこと

2024年03月10日

林与は常に仕事を抱えているような状況でありがたいのだけども、2008年ごろのデフレの時には、高級な生地は売るのが難しくなって、1000円以下で買える生地を探しておられるところが多かったのだけども、林与は絶対に無理なので、安いものじゃなく、高くても麻100%のものをPRしようと思って、逆にアイリッシュリネンのプロジェクトを立ち上げた。

ちょうどそのころ、ストールブームがあったので、ストールを織ることを本格的に初めて、細番手の糸を使った柔らかいリネンストールを開発した。それまでのリネンストールというとシャリ感のある固いものだったり、ごわごわしたものが多かったが、柔らかいリネンストールを細番手の糸を使って作ろうと、薬剤を取り寄せたりしながら家の中で加工方法を考案した。

ストールブームの時には会社の中はすべてレピア織機だったので、出機さんで織るつもりだったのだけども、最初の見本を追ってもらうことが出来ず、自分で織らないといけないということになり、織機の入れ替えを行ってストールブームの生産に備えた。たまたま、遠州の機屋さんが周りが住宅街になって半年くらい織機が動いていないような話で機料屋さんに話をまとめてもらって、一切合切譲ってもらうことになり、12台のうち10台を工場内に移設できた。

林与の会社は、昔はシャトル織機だったのだけども、昭和51年ころにレピア織機に入れ替えてからは、自社工場の中は全部レピアだったので、林与自身は、その時が自分自身でシャトル織機を動かした最初で39歳のころ。動かしたと言っても、織るのは織り子さんがいてくれたので、織るじゃなく、修理や調整から。

サンプル時に10台のうち9台がまともに動かないトラブルも、奇跡的に量産前に原因を見つかった。もし、原因が見つかっていなかったらその年に量産に穴を開けてしまって、潰れていただろう。移設した織機を職人さんが電気が入る前に調整などしまってテンション管理の棒を抜いてしまったのが原因だったのだけども、10台のうち1台だけ固くてぬけなかったのだろう、その台だけがサンプルを順調に織れた。もし、その棒も抜けてしまっていたら、原因を見つけることはできなかっただろう。

出機さんでのストールの生産にそなえて廃業のあったシャトル織機の工場の職人さんにきてもらったのだけども、普段は太い糸を織られていたので、テンション管理の棒は、鉄と鉄が強く押し合うので摩耗するから外して使われていなかったから、不要だと判断され外されたのだろう。

ほとんど寝ずに2週間で、60縦を織りあげることができたのは、すごく器用なスタッフに恵まれたからで、まともに動いた、1台の織機で2シフトで、1日3縦、各5枚づつストールを繋いで織りあげるをこなしてくれた。一番最後のサンプルが、展示会にぎりぎり間に合う感じで喜んでいたら、突然、動かなくなって、2週間働き続けてても必死に原因を見つけようとしたのだけども、分からない。諦め、「みんなありがとう、最後の一つだけは諦め、お客さんにできなかったという」といったあとに、織ってくれていたスタッフの女の子が織機の下にもぐって、ここのネジが緩いからおかしいみたいなことを言う、林与はそんな簡単じゃないぞというものの、その緩んだネジを締めたら、なんとまたその織機が動き出して。

林与もシャトル織機はまだ2週間の素人だったけど、スタッフの女の子の自分が織機が動かない原因を探そうとしてくれただけでなく、原因まで見つけてくれたことには本当に驚いた。経験の長さじゃなく本気さが大事で、林与が2週間ほとんど寝ずにはたらいてヘトヘトだったので、代わりに織機の下にもぐって試行錯誤してくれた。若い人から学ぶことが多く、たとえ若くても一生懸命の人というのは、織物に関しては、数か月で何十年の経験者を越えてゆくというのをすごく感じた。

林与の場合はすなおに感心するけども、林与というのは働き始めた日から本気だったから経験者の人たちというのは抜かれていく恐怖みたいなものがあっただろうと思う。自分の会社で一番できない人間みたいに扱われていたのが林与だったのだけども、最初の日からもう超えてしまっているのが普通で、田舎のおっちゃんおばちゃんというのは先代も含めて、生きてきた世界が狭くて競争にさらされていないから、年を取るほどできなくなってしまっているのに、驕りだけが高くなり、年配の人たちが出来ないということも若い人がやれば出来たりするのが普通だし、できることだからやってもらうように用意して頼むのだけど、やる前から、できないと断る人は多く、その程度の壁をいつも乗り越えずにできないという判断では、働き始めた林与に面倒を見てもらわないと困ると言われても、経験のない学生ができることでも、何十年の経験者たちがやろうとせずできようとしないのが多いのは、仕事がいっぱいあっても頼めることが少ないし、普通以上だと思うことが頼めないような歯がゆさが、若いころの林与にはいたるところであった。自分でやれば、そういう高度なものづくりも出来たりするので、林与の中にシャトル織機を入れ戻したことは、自分自身の経験の成長につながったけども、仕事の世界では誰かが答えを教えてくれることもたまにはあるけど、ほとんどの場合自分で答えを見つけ出さないと、そこで仕事が終わってしまう。

そうやって、仕事を生み出そうと生み出してきた林与だから、普通のサラリーマン的だと、一つの仕事に集中して頑張ればよいだけで幸せに思えてしまうが、時間から時間のなかでどれだけ楽をしようかみたいな、できないといえば、自分しかできないと思っているけども、素人でもできることを頼んでもできないという経験者も多く、そういうのが昔の先代が育んでしまった甘さで、そこまで仕事を軽く考えていたら潰れるのも当たり前だろうと思う。全員が全員ではないけども、年配の世代というのは若いころの3分の1のスピードで、しかも正しくないものが出来上がってきて、それを本業じゃない人が直して問題解決みたいなのが普通のこと。

糸を巻いてくれるおじいさんは、林与のことを「にいちゃn」と呼んでくれて悪い気もしていないのいだけども、おばちゃんが、「社長さん」よと、別にどっちでもよい。出機さんの仕事が難しくなってきっていて助けるために連れて行って、スタッフが私御ことを社長と呼んだ時に、出機のおじいさんが大笑いしてたのだけど、70過ぎて人間として成長もしてないし、仕事もできなくなってるのも驕りから。若いできない人と同じ様な結果しか頼んでもないけども、丁寧に接していると田舎のおっちゃんおばちゃんというのは、ほんとどこまでも軽く考えてだらしない態度を見せてくることが多く、丁寧に対応していると、年配者がそういう横柄な素の考えをみせてもらえるのはわるいことではないと思う。ブレない人はブレないから。たとえば、子供のころに私にそれなりに厳しく剣道を教えてくださった先生方というのは、こちらが世話になったのに、大人になってからはすごく丁寧な言葉づかいで社会人として認めててくださる感じがするけども、それはその先生方が人格者であるという証だが、若い私に対してすごく丁寧に話してくださる。こちらが世話になっているのに、そういうのできる方というのは凄いなあと思う。


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