リネン日記
再開
2024年03月24日
土曜日の朝に滋賀県に戻ったのだけども、高速道路で東京から出たとたんに渋滞がずーっと続いて、のろのろ運転モードで、これだったら一度サービスエリアで休んでから夜中出発にしようと、蛯名サービスエリアで休憩してから、滋賀県に戻る。さすがに疲れていて、滋賀県が寒い、寒い。東京に3日もいると滋賀県の寒さがきつくて、体が冷えまくり、とりあえず1日は体を休める。
体力も回復して、体を中から温めるために、ニンニク、ショウガ油、そして肉を食べて、体力も戻して、仕事を再開。4日か5日ほどぶりの作業だけども、なんか、遠い昔のことのように思える。浦島太郎が竜宮城に行って帰ってきたような感覚だろうか。東京は活気があって楽しかったし、5年ぶりくらいに昔から知っている方々にお会いできたことと、林与をネットなどで知ってくださって初めてお会いできた方とのお話も楽しかった。そして、また、現場で一人での作業が始まる。
仕事以外のことを考えるべきではないのだけども、高速道路ってなにもない山の中を巾15mとかの広い道幅で、何百キロも走っている。会社に戻って、思うのが、毎日生活する集落内の道路って、道幅3mで、そういうのが、何十年も変わることがないのが、田舎というものなのだろうなあというギャップ。また、車で混んでいなければ5時間で東京というのに、田舎に住んでいるだけで違う考え方を求められたりもするから、田舎で大きいことをするのは難しいんだろうなあと思う。
林与のやっていることも、田舎の小さな工場での作業に過ぎないけども、自分が作っている麻布をみなさんがすごく評価を下さって、期待も下さって、東京の展示会に行っても、そこがホームグラウンドであるかのように皆さんとお出会いができて、なんか、作っている布がそういうつながりを生み出してくれているんだろうなあと実感する。準備も半日くらいしかできずに飛び出して行ったFABRICa NIPPONでしたが、お会いしたみなさんから元気をもらいまた、作業を地道にやりつつも、余力ができたときには新しいプロジェクトや布を立ち上げたいなあと考えています。
林与自身は、こつこつ地道にというのを大事には思ってはいるものの、業務的な感じがすきじゃなく、普通は無理に思えるようなことやできないとかやらないことにでも挑戦して成し遂げたいなあと思う反面、そういうのって普通の何倍ものリスクと時間が係るので、きたいしてくださるお客様にも迷惑を掛けることが多く、反省することも多く、悩むことも多い。あと10年、ながくて15年くらいかもしれないが、思いっきりのスタイルを変えない形で進んでいこうと思う。
久しぶりに、会社に戻ると80過ぎた母親が、私が徐福に関する本を30冊以上も集めて持っているのを1冊借りて読んでいるらしく、私に徐福のことを説明し始めた。日本の歴史では名前も出てこない徐福だけども、母親が知りはじめたくらいだから、日本の歴史が解き明かされるのも近づいてきているのかもしれない。徐福のことが日本国内で封印されながらも、講師や孟子などの漢文が国語の教科書にも出てきているのに、国や国境という概念はまさに昔の人にとっては何の意味もないくらいに昔ほど国境を越えるにもパスポートも必要なかったようなやったもの勝ちの世界で、あまり小さな世界のルールを気にして押し込めないで、無茶苦茶なトランプよりも、もっと健全な精神をもった人が社会で自由に活躍してゆくべきだろうと思うが、ああいう無茶苦茶でないと、葬ろうとする力があるのが、権威主義的な、村社会に通じる構造で、そういうのを引きずってしまっていては、古い繊維業界や田舎社会もで、本当にやっている人たちが決断をできるようにしないと、覚悟も決めずにやってもいない人たちがいい加減にだらしなく偉そうにしているだけでは次の世代が食い物にされるばかりで可哀そう。
自分可愛さの年配者たちが若いものをいちびって食い物にしながら、自分たちの面倒を見てくれないと困るでは、それは自分が仕事して食べていくの覚悟もなく、何十年の経験者であろうがまじめな学生さん以下な、日本の行政の考えるホワイトで待遇を求めるばかりの公務員的な発想でそれが階級社会的な悪政のメカニズムで、行政が悪政を当たり前に考えて自分が国レベルの責任を背負う覚悟もない人たちが、権威主義で国民生活を食い物にして悪化させて苦しめているのが、一番世界でも駄目に思うような感覚でそういうのから人々は解放されるべきだと思うところ。頑張っている人に責任を負わせて、自分はできない分からない知らんという年配者が、できる限界も超えてやってても説教をされるような、覚悟決めている子供のほうがまともな、歪みすぎた村社会構造。そういうの早くなくなったほうが良いと思う日本から、世界で一番嫌われるような権威主義でアカン構造で、人にはできる限界もあって、求めるものが人の限界を超えすぎて、繊維業界や田舎が美しく見えるためだけに取り繕って、人々を苦しめているだけなら、そういう偽善は捨てないと、それはほんと善意あるものの一生懸命を利用しているだけのことで、守られている人たちが守られていない人たちを食い物にするだけのことに終わる。
体力も回復して、体を中から温めるために、ニンニク、ショウガ油、そして肉を食べて、体力も戻して、仕事を再開。4日か5日ほどぶりの作業だけども、なんか、遠い昔のことのように思える。浦島太郎が竜宮城に行って帰ってきたような感覚だろうか。東京は活気があって楽しかったし、5年ぶりくらいに昔から知っている方々にお会いできたことと、林与をネットなどで知ってくださって初めてお会いできた方とのお話も楽しかった。そして、また、現場で一人での作業が始まる。
仕事以外のことを考えるべきではないのだけども、高速道路ってなにもない山の中を巾15mとかの広い道幅で、何百キロも走っている。会社に戻って、思うのが、毎日生活する集落内の道路って、道幅3mで、そういうのが、何十年も変わることがないのが、田舎というものなのだろうなあというギャップ。また、車で混んでいなければ5時間で東京というのに、田舎に住んでいるだけで違う考え方を求められたりもするから、田舎で大きいことをするのは難しいんだろうなあと思う。
林与のやっていることも、田舎の小さな工場での作業に過ぎないけども、自分が作っている麻布をみなさんがすごく評価を下さって、期待も下さって、東京の展示会に行っても、そこがホームグラウンドであるかのように皆さんとお出会いができて、なんか、作っている布がそういうつながりを生み出してくれているんだろうなあと実感する。準備も半日くらいしかできずに飛び出して行ったFABRICa NIPPONでしたが、お会いしたみなさんから元気をもらいまた、作業を地道にやりつつも、余力ができたときには新しいプロジェクトや布を立ち上げたいなあと考えています。
林与自身は、こつこつ地道にというのを大事には思ってはいるものの、業務的な感じがすきじゃなく、普通は無理に思えるようなことやできないとかやらないことにでも挑戦して成し遂げたいなあと思う反面、そういうのって普通の何倍ものリスクと時間が係るので、きたいしてくださるお客様にも迷惑を掛けることが多く、反省することも多く、悩むことも多い。あと10年、ながくて15年くらいかもしれないが、思いっきりのスタイルを変えない形で進んでいこうと思う。
久しぶりに、会社に戻ると80過ぎた母親が、私が徐福に関する本を30冊以上も集めて持っているのを1冊借りて読んでいるらしく、私に徐福のことを説明し始めた。日本の歴史では名前も出てこない徐福だけども、母親が知りはじめたくらいだから、日本の歴史が解き明かされるのも近づいてきているのかもしれない。徐福のことが日本国内で封印されながらも、講師や孟子などの漢文が国語の教科書にも出てきているのに、国や国境という概念はまさに昔の人にとっては何の意味もないくらいに昔ほど国境を越えるにもパスポートも必要なかったようなやったもの勝ちの世界で、あまり小さな世界のルールを気にして押し込めないで、無茶苦茶なトランプよりも、もっと健全な精神をもった人が社会で自由に活躍してゆくべきだろうと思うが、ああいう無茶苦茶でないと、葬ろうとする力があるのが、権威主義的な、村社会に通じる構造で、そういうのを引きずってしまっていては、古い繊維業界や田舎社会もで、本当にやっている人たちが決断をできるようにしないと、覚悟も決めずにやってもいない人たちがいい加減にだらしなく偉そうにしているだけでは次の世代が食い物にされるばかりで可哀そう。
自分可愛さの年配者たちが若いものをいちびって食い物にしながら、自分たちの面倒を見てくれないと困るでは、それは自分が仕事して食べていくの覚悟もなく、何十年の経験者であろうがまじめな学生さん以下な、日本の行政の考えるホワイトで待遇を求めるばかりの公務員的な発想でそれが階級社会的な悪政のメカニズムで、行政が悪政を当たり前に考えて自分が国レベルの責任を背負う覚悟もない人たちが、権威主義で国民生活を食い物にして悪化させて苦しめているのが、一番世界でも駄目に思うような感覚でそういうのから人々は解放されるべきだと思うところ。頑張っている人に責任を負わせて、自分はできない分からない知らんという年配者が、できる限界も超えてやってても説教をされるような、覚悟決めている子供のほうがまともな、歪みすぎた村社会構造。そういうの早くなくなったほうが良いと思う日本から、世界で一番嫌われるような権威主義でアカン構造で、人にはできる限界もあって、求めるものが人の限界を超えすぎて、繊維業界や田舎が美しく見えるためだけに取り繕って、人々を苦しめているだけなら、そういう偽善は捨てないと、それはほんと善意あるものの一生懸命を利用しているだけのことで、守られている人たちが守られていない人たちを食い物にするだけのことに終わる。