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リネンや麻を織る日々をつづっています。

リネン日記

野洲

2024年05月30日

滋賀県には、野洲川という川があって、その周辺では昔は晒加工が行われていて、林与の近くの愛知川の近辺の加工工場さんの一つも晒加工をされていた方の元は野洲のほうに由来があるという話を聞いたことがあって、愛知川の周辺では織物の加工工場が何社もあらられる。

林与が仕事に入った平成の初めころにおいても野洲川周辺で織物の加工工場を聞いたことがなく、その野洲川に祖先が由来のある愛知川近くに工場を持っておられる晒工場さんも、野洲川では織物加工が難しくなり愛知川に移られたのかなあと、今度お会いできたら尋ねてみようかとも思う。昭和の時代には、芝生でオゾン発生させて晒すみたいなこともやっておられたりと、白絣と呼ばれるマンガン加工も昔はあった。

野洲麻と呼ばれる麻の産地が栃木県にあって、滋賀県の野洲とのつながりがあるのかと想像もしたこともあったけども、下野と呼ばれていたのが野州(やしゅう)麻の語源らしい。滋賀県の野洲(やす)の語源は、江戸時代の安の国(ヤスノクニ)に、近代になって野洲という文字が当てられたのだろうと思う。日本の国の地名の原則として、国名は1文字、その下の地名は2文字という原則があって、2文字に変わったときに、草もいっぱい生えている場所で川もあったからそのような漢字が当てられたのだろうと想像する。

小千谷縮でのアカソに関しての返答をいただいて、昔から苧麻の青苧を使うということで、ただし、苧が茶色いものを昔はアカソと呼んで使っていたという糸商さんがいっておられるという情報もいただいたので、昔の小千谷縮で赤苧というと苧麻の織物を指していたと考えて良いんだろうと林与の中では結論に至った。

植物の苧麻と赤苧は、両方ともイラクサ科なので、植物のアカソにはいろんなタイプがあってとにかく枝が赤いものは植物としてはアカソみたいなほどに、なんとかアカソと呼ばれる草や木は多い。苧麻は青苧が基本で、葉の裏が毛が生えていて白いのが白苧と呼ばれる。苧麻の中でも茎が赤ければ苧麻であってもアカソと呼ばれていても不思議ではない。、

宮古上布の方がいっておられた青ブーと赤ブーは両方苧麻でとか、高品質な苧麻を栽培もされている福島県の昭和村のカラムシ織の里の方が言っておられた青苧を基本使うが、地元の方で自生しているカラムシをつかうと赤い繊維がとれて味のあるものを織っておられる方があるというのと、また、近江の産地に伝わるカラムシというのは野生のものをいうという話や、アカソ織物というのは近江湖東産地の特色的な織物というような記載などを見かけるに、どれも不整合な点はなく、上布の世界でいうところの赤苧織物は、苧麻の赤い茎のタイプから取り出した赤い苧を指していて、それが日本の昔の麻織物の上布の世界の定番みたいなアカソだったのだろうと思う。

林与の家の裏にも茎の赤い苧麻が勝手に生えていたりして、茎の青い苧麻もいろんなところに自生はしているけども、苧麻で茎の赤いのも生えているからそれを昔の人が活用しないということはないだろうと言える。林与も子供のころから家で昔に織られた絣の織物が、ご飯の上に掛けてハエを防ぐ布だったんだけども、それのベースが白ではなくてうすい茶赤っぽい色で、そこに茶色の縦横絣で、#みたいな模様だったが、今も記憶に残っていて、そのベースの色が苧麻の赤苧織物の色なんだろうと思う。天然の染が入っているような味のある色。植物の赤苧は、青苧を染めるのに使われているケースもあるとも教えていただいた。
赤苧大絣で丸紅賞をヨジヨモン爺さんが頂いているが、その賞状での赤苧に関してもそれは苧麻織物でベースが赤味がかった絣織物だっとということだろう。戦前と戦後で戦後に再開したラミー織物が激変したとは思えない。

昔の琉球王国で宮殿の役職のドレスコードに上級なものがアカソを着るというような記録もみたこともあって、それはたぶん赤ブーなんだろうなあと、いままでいろいろと疑問に思っていた、日本の麻織物の歴史の中に出てくるアカソという言葉にある程度の結論付けが自分なりにできてうれしい。太布織物のアンギンには植物のアカソを使っていた可能性もあるのかもしれないとも聞いた。

晒とかを考えると青苧からスタートするのがベストだろうとは思うから、雪晒とか天日晒とか、川の水や海水で晒したり産地ごとに特色はあるけども、晒すということが大前提にあるなら、青苧を使うのがベストな選択だろうとはいえる。江戸時代の西回り航路で近江商人が良質の糸を仕入れていたような記録や能登からも苧麻の糸を仕入れて織っていたということなども、江戸時代の近江上布と呼ばれたものが、原料からしても日本で一級の物を使っていたということがうかがえる。近江の産地は田んぼも豊かな土地だったので、苧麻を栽培するというよりは、ある程度織るほうに徹したいた感じがする。林与のどこの家でも南側にあたる前栽の縁側の入り口側が機場という家のつくり。

糸を績む作業というのは織る以上に労力を必要とする作業で、それを稲作などが難しい地域に任せて、商人たちが仕入れた糸を近江で織って藍染にしたり、絣織物にしたりが江戸時代だったのだろう。彦根も昔は彦根城の城下町として小京都のような雰囲気だったろうと思う。ゲストハウス無我さんの場所は、江戸時代の生地商らしく、どんな生地なのかというと金襴織物みたいな織物の資料をみせていただいた。彦根の歴史資料博物館では、シルクの織物ばかりで麻織物は展示されていなかったような気がして、麻生地商の商家の帷子などが最高の麻織物だったんだろうと思う。

昔から京都の祇園祭などの麻布は近江の産地のものだと言われていて、京都大阪の麻布は滋賀県の織物が定番だったんだろうと思う。京都で織られていたのは金襴織物で、絹織物は京都でも北のほうの丹後や与謝野が定番のような感じ。大阪は綿織物だろうか。県ごとに織物の住み分けみたいな特色があってそれはそれで面白い。滋賀県で長浜には浜ちりめんをあり絹織物、高島には綿織物がある。織物というのは雪深い地域が適している、林与の場所も雪国のように子供のころでも70cmくらい積もるのは普通のことで、農家の冬場の作業として身の回りの着物を自分たちで織ってこしらえた。それは日本中の農家の多くがそうだったと思うが、彦根藩が麻織物を藩の特産品として奨励したことが、なんやかんや影響して今も林与が麻織物を織り続けているのにもつながっているのだろうとは思う。林与の母親でも嫁いできた人なのに、7代から8代くらい前、200年くらい前の親戚関係を遡って言い伝えられてできるが、林与は何十回聞いても無理。お昔の家の葬式の時とか6代くらい遡り連絡しないといけなかったからそれはすごく大事なことだったのだろう。


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