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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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2018年10月07日
昨日は12時過ぎに富士山駅近くのゲストハウスに滞在。12時過ぎにチェックインで、一番最後のお客。階段を上がって行くと宮浦さんのところの新しいスタッフの女性もここのゲストハウスにお泊りで、覚えていてくださってこんばんわとなる。新しいゲストハウスで快適そのもの朝8時くらいまで滞在して朝食はどこもやっていないので車でロイヤルホスト。10時に会場に戻ると昨日だけの出展の方のスペースが今日は使われないので使うことができ、生地を横方向に拡張して見てもらいやすく配置する。

お昼に櫻井にうどんを食べに行くも、定休日。おかみさんのうどんという臨時に本屋さんが吉田のおばちゃんを集めてイベント的にやっているうどん屋さんで食べた。こちらは出汁も甘みも効いていて、食べやすい、子供のお客さんも食べていた。一杯食べた後、まだいけそうなので、2杯目に突入。富士吉田に来て、富士吉田の家庭のうどんの味を楽しめたかと思う。美味しかった。私がうどんを食べて、宮下さんの展示会を見て会場にもどると、スタッフの女の子は、NINOWでお世話になっているテリハエルの児島さんと神社散策に行っていた様で屋台も出ていて雰囲気が良かったそうだ。その後もう一度、終わりがけにコーヒーを飲みに行くと女の子二人で神社に出かけていった。

お天気に恵まれた2日間ということもあって相当の盛り上がりで、既存の設備や空スペースを利用して、地元企業の展示会場にしたり、テキスタイル以外にも食と文化の発信という要素があって、富士吉田の魅力を満喫できた2日間。東京造形大学や多摩美の学生さんなどもたくさんお越しになられていて織物の産地を楽しんでおられたと思う。前田源さん、槙田商店さん、宮下織物さん、テンジンさんなどと時間を過ごせる機会もあって、与謝野からも開く織物の一行がお越しで出会うこともできた。女性スタッフのほうが主役で、私は今回荷物運び役なのでと思っていたけどいろんな方とお話もできて楽しいイベントでした。

富士吉田というのは東京から1時間。東京での織物の生産が難しくなる流れの中で、富士吉田に移られて作家活動を始められる方も多いのではと感じたのが、お出会いのあった滋賀県大津在住の炭酸デザインさん。東京造形大学で勉強されたのち富士吉田で修行をされて奥様の実家のあるなん滋賀県の大津で今は作家活動。滋賀県は、デザインと女性の活躍を目指しているので、滋賀県での作家活動も悪くはないのではないかと思えるが、いきなり滋賀県よりも富士吉田のような場所で販路に関してもいろんな新しいアプローチを身に着けて独立のほうが、販路を滋賀県で見つけることはなかなか難しいだけに思う。

ヤマナシハタオリフェスティバルが、楽しそうなデザインロゴに溢れているのは、東京造形大学の鈴木先生という方が、パンフやPRに使われている絵をデザインされている部分があるそうだ。林与自身、ユーモアとか好きなので、ユーモラスなデザインというのは素敵であるなあと思う。林与のリネンちゃん、ラミちゃん、ヘンプくんもいつか復帰するときが来るのだろうか。
2018年10月06日
今朝は3時半出発で富士吉田に向かう。もう途中眠くて、サービスエリアで2度仮眠。予定通り8時頃には会場について準備開始。お隣は和歌山の中矢パイルさんご夫妻。今日は台風も着て雨が降るかもの予報で、開場してお昼くらいまで、お客さんがまばらな状態だったので、いきなり、お昼前に吉田のうどんに挑戦しに行った。櫻井という一番有名なお店の吉田のうどんを食べた。初体験ながらなぜか覚えのある味で、醤油だけでうどんを作った感じの味付けに近く、そういう素朴な元祖な味を守り続けておられるのだろう。キャベツもアゲも入っていてボリュームも満天以上なのだが、スープ派の私にとっては汁が少なめに思えた。関西のダシの効いたうどんに慣れている私が、吉田のうどんに慣れるまでには3杯は食べる必要があるだろうと感じた。400円でおなか一杯になって、会場に帰ってものどが渇く。

飲み物を買いに行こうとして、百貨店風の建物に入ったら服しか売ってないお店で、そこで奥田染工の奥田社長と麻福の北村社長に遭遇。3Fで、ワークショップを行われているそうで上に上がって北村社長と大麻の糸とかのお話。木曜日に滋賀県に起こしになられるということで、ついでに林与にも来週寄ってもらう話に。お昼過ぎから会場も活気づいてきて人が溢れる。前田源商店がオーガニックコットンのテントと即売を行われていたのでご挨拶。その横では、セコリ荘の宮浦さんさんが、就職、恋愛、開運マッチングみたいなブースを開かれていて、富士吉田の産地の担い手の発掘を行われていた。宮浦さんの会社、糸偏にも、新しい女性スタッフが会社に入られたそうでご紹介いただく。

午後2時くらいになると、睡魔襲ってきて立っているだけでもしんどいので、お寺の駐車場に止めてある車の中で夕方のレセプションまで仮眠しようと15分掛けて車にたどり着き、眠りについた途端に電話があって、会場に、小野カヤさんと大木戸さんのところにマナちゃんが登場で、林与がサボっているということで呼び戻されるも、よいお知らせも聞いて、睡魔に負けずに戻った甲斐があった。その後、また車に戻って眠りにつく。レセプション前にモンブランというかわいい喫茶店で、パスタで夕食。

夕方6時からのレセプションで会場に着くと、宮下織物の宮下さんと遭遇。芝生が生えたような緑のワンピースで、宮下さんがつくられた織物のワンピースを着ておられる。オペラ座の衣装に採用が決まったそうで、見るからに楽しそうな織物である。お隣にはテンジンファクトリーの小林社長がおられて、ご紹介をいただく。レセプションが始まって、飲んだ富士山ビールが驚くほどに美味しかった。そのあと、ハタオリフェスティバルの一環として横浜のジャズバンドのコンサートをバーで聴きながら、テンジンさん、レピヤンさん、宮浦さん、槙田さん、コンバーターされている方など、私からすると富士吉田や他産地の皆さんとお話しする機会をいただく。

興味深い話もあって、織物産業の担い手をどうやって見つけて育てて行くのかという問題、それぞれ会社によって正しい答えも違うのだろうと思えた。繊維産業というのは人と一緒のことをやっていれば今の流れでは落ちてゆくのが普通で、やはり自分なりに自分の正しいと思うことをやってうまく行かなければ軌道修正して正しいと思うことが成り立つようにもっていってうまく立って行くことが大事。企業規模によっても違うだろうし、ひとつの企業においても同じスタイルが永遠に続くというのは難しい話。競争相手がないほどに生き残られた技術力があるのだろうと思える。シャトル織機の耳の話が出ていた。

富士吉田の飲み屋街の雰囲気が、私は好きだったりする。なぜかというと昭和30年とかの風情が残っていて、廃墟化している部分もあったりするけど、ほぼレストアされずにタイムスリップしたようにそのまま残っているのだ。当時だとモダンな建物と思われるちょっとおしゃれ、時代を思わせる今からみると遅れの建物。これが次の世代に残っていると一つの文化遺産になるだろう。富士山があるので建築の規制があって高い建物が建てられないので、新しく立て直す人が少ないというのもあるようだ。古い建物がそのまま残っているというのもどこにもありがちではなく悪くないのである。そういうのを評価できる目というのもあってもよいんじゃないかと思う。吉田の櫻井のうどんも味が昔ながらで普通と違うというあたりが存在の意味があるのだろう。
2018年10月05日
ここしばらくは自分が織ってこつこつと調子を上げてきたので、今はシャトル織機の調子がすこぶる良い。

今考えているのは、もうすぐ入ってくる予定の仕事で、ビーム一杯に巻くので、200kg近いビームを2階から1階にどうやって下ろすか、昔はエレベーターを使っていたが、15年ほど前に調子が悪くなったときに年配の方が使うなの注意書きを無視して動かしてコジてしまって、工場内での溶接は危険で修理ができず、それ以来エレベーターは使えなくなった。130kgくらいまでならなんとか肩で担げるが、200kgは最初から無理で、別の方法。

台車を使って、階段の段差を直角三角形の木材で績めて斜面にして、チェーンブロックを柱に取り付けでガラガラしながら、斜面を台車を転がす方法を考えている。プロパンガスを運ぶような台車にビーム乗せることを考えているが、200kg負荷に耐える台車を探し中。織物工場というのは平屋が一番という結論だろうか。整経機なんかを2階に入れるとかもそもそも大変な話ではある。この問題も2週間以内には解決しないと。物理的な問題なので最後は人力で2人で運ぶことも可能だとは思うけども、1回だけならまだしも今回だけでも6回も作業が必要となりそうで手ごわい話なのである。
2018年10月03日
私自身、ものづくりを追い求めることが多く、深みにはまることもある。近江上布の広幅絣プロジェクトも織るだけなら簡単だけれども、染の部分を誰かに頼めるのかというといくつかの捺染工場に頼んでも無理だったので、自分で機材を作って染を実践的に勉強して自分なりの染色方法で広幅の絣織物を実現した。そこに至ったのが、5年ほど前のある失敗経験から。染色を自分でやりたかったが染料会社の方からアドバイスを受けて、自分でやるよりもプロに任せたほうがよいというアドバイス。見本をつくってもらって本番が入っていざつくる段階でその方が消えてしまわれて、自分が染色工場を正月3が日借り切って使った染料などを想像して発注して自分で染めたことがある。染色すらも経験はそれほどないのに、他の人がやったことをデータもなく再現しないといけない状況で苦しかったが、3日間タイムスで寝泊りして、近いサンプルを新たに作り上げた。

そんなどうにもならないほどの苦しみを経験するとやはり自分で最初からやったほうが簡単で今の広幅絣のプロジェクトは自分でやることにして、自分の環境の中でできる形での機材、技法などを独自に生み出した。とはいえ、2年前の雪の多い冬のこと、年末年始2週間で、反応染料による型紙捺染にほとんど寝ないで取り組んだ。これもまた十分な設備もなく、冬で染が乾かず、時間だけが過ぎてゆく、地獄ではあったが出来上がったものに感動をした。プロの出来栄えとはいえないものの量産の世界にはない味があった。

大きな洋型紙を彫るのも工夫をして、おじいさんの頃の2万枚ほどの型紙を広幅で蘇らせることが出来るようになり、海外の人々が驚きをもって観てくださる近江上布のアーカイブが、現実の絣生地となってしかも広幅で再現できるような技術基盤の目処が立った。昔の人が何人も何ヶ月もかけたことが、私一人の手で1週間から2週間ほどでできることになる。今の時代の布が過去の時代の布を超えることができないことが多いが、過去の布をも越えることができる要素を手に入れることが出来た。ゆっくりと働けるようになったら取り組めそうな楽しみの部分。

まあ、数年前の京都での正月3ヶ日の経験がなければ、今の広幅絣を自分でやろうともしなかっただろう。いろんな出会いがあって失敗があって新しいフェイズにたどり着くので、そういう経験がないと話をしても業界でも噛み合わないことも多い。広幅絣織物は、海外の展示会でも織物をいろいろみて歩いておられる方々にどうやってつくったのかと驚かれる。私はそういう驚かれるような違いの分かる方々に出会えることに驚くのである。
2018年10月01日
この1週間ほど、リネンデニムの調整。リネンデニムは、ほとんど業界でも見かけなかったものだが思い切ってトライしたのが2008年のこと。なぜ、リネンでのデニムが難しいと言われたのかということも良くわかった。織りだけでなく、染色にしても、その後の物性にしても、なかなか手ごわい。それでも、出来上がった布をジーンズにしてみるとすごくいい感じで、これはいけると手ごたえ。2010年には、インテキ上海と合同で行われた、国際テキスタイルコンテストで、林与のリネンデニムブラックが、国際応募の中では最高位の総合3位に入賞できたりしてデニムを手がけたことで、普段とは違う雰囲気も味わえた。

リネンデニムも、私が世代交代のときに立ち上げたプロジェクトの一つ。それが10年後の今も、林与の特色のひとつとして生きている。モノをつくるだけでなく、展示会や業界紙である繊研新聞などでも業界のニュースとして取り上げていただき、麻関連のファッションのトレンドを自分の生地づくりから作ってゆけるような感触。ほかに立ち上げたプロジェクトがやわらかリネンストールプロジェクト、リネンキッチンクロスプロジェクト、かばん生地、アイリッシュリネンプロジェクト、オーガニックリネンプロジェクトなど、世代交代の前にはやりたくてもできなかったことを、自分が社長になったのだからやって行くといことで、織りだけでなく、糸、染、加工、製品化も含めて。総合的に織物を考えて行くことになった。

先代は、問屋さん経由での販売に重点を置いたが、私自身は自分が自分で立つことの基本として、自分自身で生地を売るということにも力を入れて、海外の展示会などにも出展し海外のアパレルブランドの方々に自分が作ったものをみてもらうという形を目指した。清水の舞台から飛び降りる気持ちで、はじめて出展したジャパンクリエーションから10年。40歳のころというのは仕事面でも一番ピークのときで、やろうと思えばなんでもできた気がする。10年後の今、あのときの勢いがあるかというと、まだやりたいことは一杯あるのである。
2018年09月23日
仕事というのは慣れるとあまり疲れない。織機を5台6台動かしていても順調に動けば、糸の交換くらいが仕事になるので、暇なタイミングができる。そのときに暇にしていると待ち時間が生まれるので仕事が苦痛になる。止まったらすぐに動かし、手が開いたら糸を巻くとか、シャトルの管の整理とか、反物の検反とか、動くことで時間が経つのが速く感じるようになる。仕事に慣れるまでいかないと一つの雑用も退屈で苦痛だろうと思う。慣れて正しく動き回れるひとというのは仕事も沢山しているので上手である。

それくらいが普通でないと現場では食べて行けない。何か問題があるときに感覚的におかしいと感じられるくらいになっていないと仕事も苦痛だろう。日本の売り場には当たり前に良い物がならんでいる。それくらいのものが普通につくれないと仕事をもらえるチャンスも無く作っても売ることは難しい。私自身、仕事の現場で整経をしたときに、最初の印象が時間がもったいない気がした。まあ、珍しいタイプで自分で織物を作ろうとした。すると、糸がもったいないからと先代に言われて、自分の織物を作ることを封印。

そうしているうちに、先代が作っていた先染めの世界が売るのが難しくなって、私が麻織物の原点に戻る無地の平織プロジェクトを立ち上げた。よくある平織りではなく、超細番手の薄い生地や高密度生地、超太番手の厚い生地など、いろんな番手の限界に挑戦をした。それらがすぐに売れるということはなかったが、世界中探してもそういう経験を積むことができるケースは稀である。頭じゃなくて、体を動かして織ることを可能にしてゆく。外に出して織れない物でも自分の中だとうまく組み合わせることで織れる事が案外あった。

織物が織れないときに、何百本と切れた糸を何十回と直しながら、1ヶ月織機とにらめっことかも普通に思えるくらいでないと、なぜ織れないのかの問題がみえてこないこともある。前の工場で入れてから動かなかった織機が林与に来て動かなかったが、動くと信じて自分で見てみると15分で原因が見つかって問題は解決。解決できなければこの織機は動かないねえ、ワッハハで済めばよいが、動かない織機を抱え込んでしまっては織物工場は潰れて当たり前。もちろん他の人に任せて解決できる問題もあるけども、他の人に任せていては解決できない問題が多く、そのときに自分が解決しないといけないシチュエーションというのはこの仕事をやっていると多い。
2018年09月22日
自動運転車の安全性を語る上で、人間が運転した場合の事故率と自動運転車の事故率の比較があるが、事故が起こって明らかになったことだが、自動運転車はセンサーが危険だと察知しがちなので、センサーを切って走らせているというようなむちゃくちゃなテスト走行をやっている。自動運転の車はハイウェーを走っているとかでなければ、市街では危険を察知するから止まってばかりでまともに走らないケースが多いのである。テスト走行自体が、クリーンディーゼルの偽装と同じで、偽装モードでの安全テストでの走行距離。一番危険な市街だと実際にまともに走れもしないのに安全に走れたかのように偽装。事故があって露呈する、自動運転児童メーカーのモラルの崩壊である。

人間が運転するよりも事故は少ないということを偽装データを使ったまでやってしまう神経がわからない。テスト走行で人を殺してしまっても、安全センサーが働くので実際に走れないから、安全センサーを切って走らせたから自動運転が安全でないことにはならないとかのメーカーの説明だけど、テストドライバーが携帯をさわっていたとか触っていなかったとかでその事故に関しても泥沼。まさに自動運転自動車の問題そのもの。自動運転で起こった事故では自動車メーカーも運転しているものも、事故の責任逃ればかり。自分が雇ったドライバーが自分がやってるテストで嘘をついているからドライバーの問題という話になっているほどで、自動運転での一番の問題を露呈してしまっている。自動運転のテクノロジーの問題ではなくて、人の責任感の問題なのである。

携帯電話やリチウムイオンバッテリーが爆発する事故が、発生したときに、バッテリーが爆発する問題をメーカーが責任を取るのか逃げるのかの問題。自動運転まで行かなくても自動ブレーキシステムでも、ディーラーでの試乗で危ないと思ってもブレーキを踏まないでとお客さんがブレーキを踏まないで前の車に衝突してしまった事件など、欠陥システムの問題があって、一般人がやってしまったら個人の責任を追及されてしまうようなレベルの技術で安全が謳われてしまって、そういう自動車がその技術を謳いに市販までされてしまっているのである。一般に事故が起こって大破した車を調べるのも作ったメーカーで事故時に安全センサーが正しく働いていなかったなど自動車の欠陥を運転しているものが証明するのは難しい話であろう。

どこの国でも自動車行政は自動車メーカーに天下った連中がたくさんいるから臭く成り立っている状態。あたら自動車を買わせるように行政も自動車メーカーと一緒になって誘導する。大きな事件を起こしても自動車メーカーは潰れないカラクリは行政を含めた問題である。自動運転で、変な事故が起こるべくして起こっているのに自動運転を行政が規制するでなく、叩きもせずに行政が天下り寄生するような状態は気持ちが悪い。
2018年09月21日
糸を巻いてくれるおじいさんが腰痛で糸を巻く作業ができない状態。年末年始に相当痛そうで仕事がもう無理かもというくらいから春過ぎには回復された感じで頼んでいたのだが、ここ最近また腰痛が酷いらしい。それでも先日、そんな状況を知らずに糸を持っていくと2日で巻いてくださって持ってまできてもらって、そのあと病院にリハビリに行くといわれていた。そうやってまで動いてくださって有難いというしかない。糸を巻いてくださるおじいさんでも割り切りをもって仕事を喜んで受けてくださっていて、そこが本当にありがたいところである。今回は知らなかったのでもっていって巻いてもらったけども、次は様子を伺ってから無理のない範囲で巻いてもらおう。

糸を巻く仕事もそれを若い人が一日中できるのかというと、なかなかそうは行かない。難しいからとかではなくて、仕事を仕事として割り切れるようなところがないと憧れで続くような仕事ではなかったりする。体を使い、時間を使う仕事というものは慣れていないとなかなか難しい。机に座って勉強や仕事していた人が一日中立って仕事することは難しいものである。愚直に仕事をできる人でないとこういう繊維の地道な仕事は難しいのである。まあ、おじいさんも自営的な仕事としてずーっとやってこられたので出来る話なのである。

切れない糸だと機械化された工場がつよいだろうけども、切れて糸口をさがすことも難しい麻糸の場合には、人の力は常に必要で、熟練した技を機械で置き換えることは不可能なのである。年末にインバーターを取り付けしたので、それで仕事がやりやすくなったと喜んでいた下さった。機械によって仕事が格段としやすくなるケースもないわけではなく、目の前の仕事が一番上手にできるように工夫は必要であろう。熟練した技プラス便利な道具で、普通だと難しいことがやりやすくなり、不可能を可能にすることが出来る。

インバーターを取り付けたことで素人でも仕事はしやすくなるが、熟練の技と仕事への姿勢がなくしてインバーターをつけてしまったとしたら普通のレベルを知らないので熟練のレベルの技が身に付くことはないのかもしれない。関東の織機を関西に持ち込んだとしたら何が起こるか、関東と関西では周波数が異なる。関東が50、関西は60.関東と関西の境目がどこにあるのかというと、関が原?か。滋賀県は関西なので関東の織機を持ち込んだ場合には、周波数の関係で、速度を落とさないと基本織るのが難しい話になる。逆に関西の織機を関東に持ち込んだ場合には速度を上げてあげる必要がある。

モーターについているプーリーというものの直径を2割大きくすれば2割速くなるのであるが、プーリーを交換すればVベルトがしっかりと張るようにモーターの位置をモーターベース上で調整してあげないとならないが、駄目なときには、
Vベルトの長さの違うものに交換したりしてあげないとならなかったりして、プーリーの交換は厄介なのである。あと、織物が織りにくいときにはスピードを落として織り易くしてあげるとか、織りやすいときにはスピードを上げて生産性を高めるとか、織る織物によってスピードは変えたいと思うことがあるときに、プーリーの交換では大変でインバーターがあると便利。シャトル織機の場合にはクラッチ式なのでインバーターの取り付けは容易である。

インバーターの取り付けの問題としては、取り付けてモーターの速度を上げてスピードを上げるとシャトルを叩く速度が上がってしまうのでシャトルを叩く強さを弱めてあげる場合があたり、シビアな織物の場合には、シャトルのテンサーを調節して糸の調子を緩くしてあげる必要があるが、20%程度までとか大きな速度変更でなければ必要だろう。インバーターによって速度を落とした状態と速度を上げた状態では2倍くらいの自由な速度調整が可能になる。インバーターも、昔は10万円コースだったが、今は1万円ほどで手に入り、クラッチ式のシャトル織機には取り付け取り外ししやすいから取り付けて損はないだろう。
2018年09月18日
宇宙に向かう旅客機が計画されているけども何分の1かの確立で死ぬ危険を背負う話。人工衛星打ち上げでも何回かに1回失敗するのが普通。無人で100回くらいトライアルして帰還させてそれで大丈夫なら人を乗せればよいと思うが、いきなり人を乗せてやっちゃうんだろうなあ。ロマンでそういうのに命を掛けてみるのもよいのかもしれないが、スペースシャトルもそういう構想でできたものだったけど、コロンビア号の悲劇は何回かに一回は起こりえるものとして考えないといけない。金や名声目当てのプロジェクトはそういう部分が隠されて一人歩きしがちである。一番最初の旅行にプロジェクトの推進者自身が乗ればそれはそれでよいのだろうと思うけど。なかなかそうは行かないものである。

日本でも民間が小型ジェット開発を進めたがうまく行かずに頓挫してしまっているくらいが今の世界でも最先端の飛行技術、日本のものづくりも1980年台の昔と比べて上がっているのかというと下がっているのかもしれない。縦割りでやってそんなものを組み上げたところでまともに飛ぶということは奇跡なのである。コロンビアの事故にしても事故原因が断熱材がはがれることだとされたが、事故が起こらないとそういう安全性の問題は究明されないままに安全だとすすめられる。また、事故が起きても体制が出来上がるとその人たちが食べて行くことが目的となる。

日本でも、自動車やバイク、原付は安全性なども確立されたものだが、もういろんな権益が絡み合いすぎて身動きが取れなくなって、ザルなミニカーのような危険なものが認可されるような自体。自動車ほどの安全性もパワーもなく、人が事故しやすいものを手軽にして新たな権益探しなんであろう。あれを認めるくらいなら、中国で走っている電動スクーターのほうが安全であろう。50ccとかの枠で縛って、人の命が危うくなるようなことをなんでしてしまうのだろう。税制の問題とか権益の問題とかが人の命や起こる悲劇を想定もしないのか。片方は締め付けすぎて締め付けすぎたがゆえにこれ以上食いつぶせなくなり、あたらな食い扶持を探すために緩い新しいものを作ろうとする。アンバランスなのである。既存の規制を緩めて相当な安全性が立証されているものを普及するほうがよいのだろうと思う。

日本ではアメリカのような開発は難しく、自動運転にしてもアメリカの基準を日本が追従する形。でも、日本と米では交通ルールや命に対する考え方がまったくことなるので、日本だと自動運転なんて本来ならご法度であろうと思うが、これが許されるのも日本とアメリカの力関係なのであろう。アメリカ基準でつくられた自動運転車が日本でまともに走るのかというと、交通事情も違うので無理だろうが受け入れざる終えないだろう。それでアメリカの自動車メーカーを叩くようなことをしたら、制裁がまっていたりする。自動運転車も何十万キロの実績をもっていようが、それが嘘なのであったりする。センサーが働いて止まってしまうので、センサーを切って走らせていたから安全装置が働かない事故がおこったりして、まともに走らないテスト自動車を走らせて、何十万キロの実績を偽装しているのである。巨額な投資をして回収が必要で、とりあえず認可させるために必死なのである。そんな状態でよいんだろうかと思う。

宇宙旅行を否定はしないし夢を追うにはよいだろうが、ビジネスとしてやっている人々は夢でやっているのではなくそこが安全性の面でも一番怖いところ。事故が起こるまでエスカレートする。夢でものごとをやるときにも、ビジネスでものごとをするときにも、自分は安全なところにいて他の人にリスクをではなく、自らが一番の危険と立ち向かうことが身の丈を越えすぎないためにも大事だろうと思える。
2018年09月17日
青唐辛子が道の駅で一袋500g130円で売っていた。これを出汁醤油で煮込む。それと白いご飯で食べた後、体の中が綺麗になった感じがする。若いころはこういうものがおいしくは無かったが、おっさんになると十分においしく感じる。もう普通のおっさんはこういう苦いものが苦手かもしれない。こういう風な食べ物が一番贅沢に思えるのは幸せなことだろうと思える。

織物の仕事が簡単ながら贅沢な仕事に思えるのも同じように幸せなことだろう。
2018年09月13日
先日、大阪の手作りフェアで西脇の大城戸さんとお隣させていただいた。基本的には、捨て耳を販売されていたのだが、捨て耳も販売用に片側だけ限定とか綿100%とか、ウォッシュ掛けたり、染めておられたりとかで完成度の高い捨て耳なのである。そうそうそういう発想が湧いていると布もいろんな布ができるわけで、角っこに30枚くらいだろうかいろんなハギレをおいておられた。大きな機屋では逆にできないことを小さな機屋だからできるというところを実践されている。日本でも自分で生地を作れる機屋というのは数少ないものである。

機屋というのは結構力が必要なので、社長と若手の社員の男性スタッフの方は筋肉バリバリタイプでこれは繊維業界筋肉番付では史上最強だと思う。それだけでも今までの体力の域を超えたものづくりができそうな気がする。そこに捨て耳などの繊細さは女性スタッフの活躍だろう。対面での販売を心がけておられ生地売りイベントなどされているので、実際の機屋さんでこれほどユニークなところはないと思う。つくられている生地も一貫生産されたものが多くオリジナリティあふれている。たぶん、3人全員が生地を自分で企画して形にできる理想系ではないだろうか。

地場産業といいながらもやるものがやることで残るだけのこと。基本の形はあったとしても、日々仕事を前に進めてやっていく力が無ければ残ることもできないだろう。林与の先代にしても母親にしてもなかなか実際の仕事をするのは難しい。産業が衰退するのはそういう基本的なところができなくなるところから。実際のものづくりが海外に移って行くのも何十年の経験者よりも毎日やってる素人のほうがものづくりでは上だったりするから、経験者の意見を聞いているよりは自分で何でも実践して経験をつんで行くのが一番であろうと思う。
2018年09月09日
昨日まで大阪でのイベント。イベントのあと、グランフロント大阪で晩御飯。朝から食べてなかったので一杯食べた。本当一杯食べた。そのお店は女性のお客さんが多い、おしゃれなスタイル。他のお客さんは飲み物だけで話して時間を過ごすのが目的のようだ。

何を楽しむのかというと食べ物でなく、雰囲気のあるなかで時間が流れるのを楽しむ。ウィンドショッピングと似ているところがある。一番お金を使っているのはお店で、お店がその場所のお客さんなんだろうとおもえる。グランフロント大阪の私の感じたイメージが空港の建物。内装なんかも高級に見せるためか石を鏡面仕上げに使っていて、息苦しさを感じるところもあって、その重苦しさを、お店の内装や料理が緩和してくつろげる場所と変えている。

少し、ウィンドショッピングで服を眺めるとチェックが目立つ。あと千鳥なんかも。ファッションは繰り返される。30年で一巡するような流れがある。一度その世代で流行ったものは流行がすぎるとその世代にとっては受け入れがたいもので、自分が着るのではなく、自分の子供に自分が若い頃に流行ったものを着せようとしたりとか。流行は30年ごとに繰り返されるのだ。

今、1990年頃に終わったバブルを経て、30年。バブルもまた流行の一つかと思う。
2018年09月02日
織機のメカニズムを応用して初期のコンピュータが作られた。ジャガード織機は初期のコンピュータの構造とよく似ている。プログラムは紋紙で出力データは織物みたいなイメージ。

織機の動きや耐久性なんかは、自動車そのものに思えたりもする。自動車は織機が走っているようなものである。自動車メーカーやオートバイメーカーの前身が織機メーカーだったというのもよくわかる話で、自動車よりも織機の方が複雑で、振動も大きく耐久性が要求される。

今の織物の現場は織機メーカー不在の状態で、織機が不調なときにはメーカーに頼ることもできない。林与がシャトル織機の方が残っていけると思うのも、シャトル織機は部品がアバウトなので代用が可能だから。レピアは部品が精密なのと電機部品や半導体部品が入っているので、純正部品でないと難しい。

日本で織物産業が衰退したから織機産業も衰退したのだろうけど、織機産業の衰退で日本の織物産業の衰退は確実なものとなった。日本の麻糸の紡績産業も織物産業の衰退で、今はわずかな国内生産が残るだけで、麻糸も海外の方がバリエーションが豊富。海外の麻織物メーカーの方が情報もチョイスも豊富。

2000年頃は、中国では麻の先染めは少なかったが、10年後の2008年頃には麻の先染めが増えた。日本の企業が中国企業に先染めを依頼し始めたことが要因の一つだろう。日本でやっていたことが中国でできるようになっただけでなく、価格も5分の1とか10分の1。

そして今、中国企業はプリントへと移行。日本ではインクジェットは高価なプリント方法だが、中国ではまさに紙に印刷する気分で格安に作る。麻はインクジェットプリントはむつかしいので少ないが、品質を少し甘くすれば、麻のインクジェットプリントもインクジェットの機械やインクを生産できる中国が強い。

日本は一流なインクジェットなので高価ながらも、インクジェットの機械メーカー依存なので色ぶれなど起きてもなかなか調整は難しい。麻の場合、圧の掛かる捺染方式が毛羽の問題などもクリアしやすく、コストも抑えやすいので、日本では麻のプリントでインクジェットが主流となることはないだろう。中国では麻でもインクジェットが主流である。

織物産業が
2018年09月01日
昨日コンビニに行って205円分の切手を買おうとしたら、レジの若い男性が収入印紙と間違えて途中で気がついて、200円切手がないので、120円切手2枚でいいですかという話になった。100円切手はないのですかと聞くとあるというので、100円切手2枚と、1円1枚と2円2枚でできませんかとたずねるとできるという。

多分、彼には私が205円分の切手を貼るという想定がなく、個々の切手の使い道を考えてくれて躊躇したのかもしれない。切手を買うという行為の場合、何円切手がコンビニにあるのか分からないので、金額と枚数を指定して注文するのも正しくない気がする。

使う場合に、組み合わせが大事でどう使うかが分からないと売る方も迷うので、205円貼るなんて想定がなければ、120円2枚でという提案もあり得る。郵便料金のようなものはデジタルだが。ちょうどの金額の切手がてに入らないときには多い目に切手を貼ることもあるだろう。足りないとややこしい話だから。

ちょうどの金額分の切手がないときに、正確な金額を貼るために郵便局に行って切手を購入するよりも、余分に貼ったほうがトータルで安く上がるケースもあるだろうけど、そういう考えは基本商売ではご法度な考え方ではあるのは分かるが、2円分の切手が無いから、10円切手を貼ってというのも、織物をつくるときに、注文は100mでも、ロスなど考え120m織るつもりで、140m分の糸を用意するとかは普通のことで、100mの注文だから、100m分を織るだけの糸を用意することが正しいのかというと私からすると正しくない話になる。

100mなんだから100m織れる分の糸でやるのが賢いと思うだろうけど、ロスを考えない計算ほど素人計算そのものでしかない。何回かはうまく行っても、10回に1回、2回足りなくなるだけで、糸量の計算としては失敗で、基本、糸の余分をみるのは仕方ないと考えるべきである。糸は基本使う前に長さをカウントしながら分割するので、何m整経できるのか把握しながら整経する。整経する前に糸が足りるかどうか分かる。足りなければ整経回数を減らす。

切手の話に戻ると、切手は1円、2円を組み合わせれば基本正しく金額ができあがるデジタルな世界。同じ仕事でも織物はロスをみないといけない世界。これも、イタリアや中国は、リネンなんてちゃんと重さが入っていたためしがない。常に4パーセントほど少ない。例外としてはイタリア銘柄のチュニジア産のオーガニックリネンのとき、オーガニックリネンだけは、建前が厳しいので、ちゃんと表示重量分入ってて正しくて驚く。が、請求されるときには4パーセント増やしたどこにも表記もない重量で割り増し請求され、もう一度驚く話。しかたないことらしい。日本のメーカーのラミーは20kgだったらほぼ20kgあるから、そこはやはり国民性的なものが出てくるだろう。脂身を中に隠して売る肉屋の話を思い出した。
2018年08月31日
今日は朝からキッチンクロスの件で、2色目のキッチンクロスのサンプルを織り出ししたのを縫製して加工まで仕上げる。耳が食い込み気味で切れて切れてうまく織りにくい。こういうのはすごく不吉な予感である。厚織りしているものは色によって織れないことも多いから。シャトルの糸の強さの調整などをして問題なく織れるようになってほっとする。

織れない織物というのはどうしても織れない。糸使いや規格は同じでも、配色が違うだけで、この色は織れないとかある。過去2年は、リネンの原料のフラックスが不作気味だったといわれていてそれが細番手の場合の織りにくい問題の基本的な原因。今織っているのは25番手なので、糸は太めで強いのだが、それでも耳付近は糸切れをする。というのは耳までリネンの厚織のキッチンクロスなのでキッチンクロスの中でも難度は高い。

シャトルとレピアでは、耳付近の調整が逆になる。シャトルの場合は糸が左右に往復して、耳は内側に引っ張られるので耳付近は高密度になりがちである。一方、レピアは、耳がオープンで片側がないので、耳付近の密度は低くなるので耳を混ませて密度を上げてあげる必要がある。

織物の規格が、横の密度はギアで決まるのだが、縦糸のテンションがきついと反物を下ろしたときに横糸密度は高くなり幅は狭くなる。今日のシャトルの耳が内側に食い込むのは、色の問題もある。縦糸のテンションを上げることで解決した。

急ぎのギンガムの件も、これから数日で3経、織り上げないといけない。まだ2色は、染め上がってチーズアップのおじいさんのところ。
2018年08月30日
野麦峠にしても悪くいわれるが、農村の集落に残って生きることのほうが、食べるものさえも十分に食べられない地獄で、製糸工場で働くことは天国のようなものであるというのを忘れてはいけないと思う。それを否定してしまって人権云々は行政的な支配階級の考え方だろうと思える。また、丁稚奉公なんかにしても、本来は受け入れている側は今のボランティアをはるかに越えたものがある。そんなのを叩いているのだから、他人事で幸せな身分なのである。

昔は貧しくても子供が5人、6人が当たり前。農家だと食べて行くのも難しい状況。甲斐性のある親戚を頼って親がお願いしたのが丁稚奉公なのである。批判だけして、食べ物を得ることもできず飢え死にして行くのを助けもせず、飢え死にする子達に生きるチャンスを与えるのを否定するとか、どうしようもないだろう。豊かな時代の考え方というのはそういう貧しい人を自分が救うこともなく、救っているものを批判するだけで残酷でもある。

途上国の縫製工場が叩かれることがある。大手メディアの記者が、バングラディッシュで、一日12時間働く男性をかわいそうということで書いているけど、その人は、農業で食べて行くもできず田舎から出てきて仕事について家族を食べさせて行くことができる仕事でそれなりに幸せだと思っているのに。その背景にある食べて行けず飢え死にしてゆく貧困とかには目を向けずに、飢え死にから人を救っている企業を叩いている。

命の危機に脅かされている人を自分が雇って救わない人が、命の危機に脅かされている人たちを救う人を駄目だと叩く。大手メディアでもその男の人を現地で縫製工場の給料を出して1日8時間で記者としてでも新聞配達としてでも雇ってあげればよいのである。それができないなら大手メディアが縫製工場以下なのである。新聞奨学生という制度もあるが、睡眠時間4時間とか5時間で、バングラディシュの男性以下が、今の日本の大手新聞メディアが成り立っている。現代でも野麦峠よりも厳しいのを乗り越える新聞奨学生たち3年間で別に家が買えるわけでもない。

冒頭に戻るが、官製で良家の娘さんたちをあつめ、最新の設備、高待遇の、富岡製糸工場が潰れたのはまともな糸ができなかったから。すべてが美しいのだが食べて行ける役人や富裕層がきれいごとでやって、またその片付けは関係のない民間がやるとか、貧しいものがチャンスをつかもうとしても学歴がないと難しいとかにして、貧しく学歴の無いものがチャンスを得ると富裕層からすると富裕層を優遇する社会構造が脅かされることになる。食べて行けない貧しい農家のものでも頑張れば豊かな暮らしができるというのが、否定されがちな野麦峠や丁稚奉公の世界。それを許さなければ、貧困で死すら当たり前に待ち受けているのに、それを許さない感覚というのも役人や富裕層の他人事に思えてしかたがない。

バングラディッシュの男性でも本当に人がまともなのである。逆に、大手メディアの記者のような感覚になったらバングラディッシュでは食べても行けないだろう。なぜバングラディッシュに繊維産業が殺到するかも、大手メディアの記者のような考え方からなのである。大手メディアの記者が矛盾しているのであろうと思える。アメリカファーストというような、トランプの思想はファシズムそのもの。1国が常に一番みたいな国家主義は、自分が常に一番だと考えている人間と同じで他を見下しているだけの類。人の欲望の中、トランプは踊らされているピエロ役に過ぎないだろうけど。
2018年08月29日
分業というのはピンポイントな仕事で、慣れると無意識で仕事をこなせるので生産性が上がる。伝統工芸系では、分業というのが基本で、それぞれの工程の職人ということになる。工業的な生産でも分業が基本となっている。たとえば、大まかには、紡績、染色、織、加工など。そして、それぞれの工場の中で、1工程、2工程を専門に、初めの日に覚えた知識を蓄積していき、現場の職人となるスタイル。

私自身がそのスタイルが好きじゃないのは、壁を乗り越えるのが難しいこと。生地にしても単なる素材で洋服の材料となるものなのに制約ばかりになる。これは外の問題だけでなく、中でも同じで、自分の仕事はこれだけでほかは関係ないみたいな人が集まると人が成長することすらないのである。その人の専門の分野でもできないが増えて、プロがやってうまく行かないことに素人が頭を使って問題を解決するということが増えてしまう。

昔あった話で、出機さんで、白い布が油汚れの問題の連発で、仕事してもらっても注文に応えることもできず、材料、工賃で、4回立て続けで、何百万円の損失。見に行って確認すると、シャトルの出口に10円玉大の真っ黒な油の塊がある状況で織ってしまっている。私がそれを拭こうとするとあとで拭くからと拭かれる事を嫌がる。そして、結局、原因まで他の人が見つけても、それ拭かずに織ってまだ油汚れとか、現場の何十年のプロがその程度の仕事意識なので、海外の経験1年のものづくりにも負ける、仕事があっても問題のある反物ばかりでは地場産業が衰退して当然に思えることも多い。

分業でやっているとその分野でのプロ意識が勝ってしまって、自分しかできないと勘違いしてしまう。職人のやっている仕事にしても、基本は数時間で覚えられる仕事、それを正しくやれるかどうかが大事なところ。大事なのは、技術じゃなく、責任感とか人柄という要素なのである。仕事の分業という形態が、どんどん仕事の本質を分からない人を増やして行くこともある。
2018年08月28日
交通事情というのはアメリカと日本では違うだろうし、事故に関する感覚も違う。自動運転で人が死んでもノープロブレムで、エアバックが破裂して人が死んだら大きな賠償問題というのもなあ。基準が、アメリカの自動車メーカーと日本の自動車メーカーでは立場が違うということ。軍事問題と似ている。

自動車運転免許の更新で、厳しくいろんなことを言っているのに、自動運転みたいなものが認められるとかは、矛盾した話である。米軍の駐在兵たちが、日本で交通事故や犯罪を起こしてもつかまらないのが当たり前みたいな感覚。愛媛丸の事故も、潜水艦でショーボートして、まだ、ぶつかったは仕方ないとしても救助もしなかったとか。

自動運転のビジネスの問題は、投資というより投機的な部分。儲かるという話で、お金を集めて破綻することすらありうるビジネスモデル。不老長寿の薬が無理なのと同じで交通事故を起こさない自動車というのは無理な話で、原発のように絶対に安全だからといっていても事故は起こるし、起きると分かったときに、保身が働き、人が死んでもやっぱり自動運転はやめておこうとは裁判で判決がでないかぎり出来ないだろう。

高齢者の安全運転の問題があるので自動運転がそれを解決するのかというと、自動運転は無防備で無責任な一番危ない状態を作り上げてしまう。自動運転がうまく働かないときに自分が問題を把握し運転できるのかというと普通の車より運転が難しいのである。人が運転するようにつくられた車と自動に運転する車では、問題が起こったときに、問題解決するのは自動運転車のほうが難しいのである。

携帯電話はペースメーカーに影響があるとか、飛行機の機器に影響があるとか、厳しく言っているのに、自動運転車の中では携帯電話のスイッチを切らなくてもよいとかも矛盾だらけ。無線で障害物を把握したりして飛びまくっているのに、利益の前には安全意識も働かない。自動ブレーキにしても試乗で販売員がぶつかりそうになってもブレーキを踏まないでといって、実際にぶつかって衝突事故とか。運転車の運転意識そのものを狂わせてしまう。

ETCにしてもノンストップがゆえに人が死んでいる。しかも、ありえないと思われるが仕事で業務に携わっているものが轢かれて死んでしまっているのだ。自動化すると人間の安全意識は確実に落ちる。失敗しても自分は悪くない機械が悪いという感覚まで起こる。人間の安全確認が無駄なことになってしまってどうするんだろう。飛び出す猫、人間の能力を超えて、それに急ブレーキを自動運転車が掛けて止まれても、追走している車があったら後ろからぶつかられることになる。猫を轢くことと後ろの車にぶつかられることとの判断のどちらを選ぶかの状況もあるだろう。人なら後ろに車が付いているの分かっていたなら猫なら急ブレーキをかけるより仕方なく猫を轢いてしまう判断となるだろうけど。考えすぎだといわれるかもしれないけど、こういうの当たり前にあることで、原発が爆発しても誰の手にも負えないのと同じこと。想定していなかったではお粗末過ぎる。
2018年08月27日
東円堂にもう一軒織元があったのは、ヨジヨモンじいさんの妹が嫁いだ先がヨジヨモンじいさんが妹の家のために嫁いだ先に織物業を教えてさせたことが始まりだったような話。業としては新屋分かれみたいなものとして、もう一軒の織物の仕事が始まった。なぜ同じ集落に2軒同じ織物業者が存在するのかというところを不思議に思ってはいたがなるほどな話である。昔は集落というのは基本親戚関係が強かったので一つの親族集団のようなものだった。一つの織元が普通であろうから。昔の時代にはありがちな、隣同士で結婚して新屋を気づいたということらしい。

ヨジヨモンじいさんの父親のカンベイじいさんは、酒飲みでカンベイじいさんは、酒の飲み代のため代々の敷地を担保にいれてお金を借りた。その借用書が今も残っている。カンベイじいさんが、ヨジヨモンを襲名できなかったのもどうしようもなさすぎたからのようだ。その反動として、若い頃から貧しく苦労して育ったヨジヨモンじいさんが、農村だった東円堂に産業としての織物業を生んだ。当時、織物というのは流通を規制されていて、誰もが商売として立ち上げることができるものではなく、米とか酒のように許可制みたいなところがあって、東円堂という村で許可されたのが、ヨジヨモンじいさんだった。代々続く母屋だったが、カンベイじいさんで潰れかかった東円堂中の母屋、東円堂中の親戚の期待を背負って応援も受けたこともあっただろう。

ヨジヨモンじいさんは、成功したので逆に恵まれない親類の親を亡くした子供がいたら家で自分の家族と同様に育てた。だから、私が3歳とかの子供のころでも、親戚の90歳を越えるおばあさんたちが私のことをすごく大事にしたというより、敬意をもって接していてくれたのを子供の頃感じていた。貧しい農村で、戦争で親を失うこと苧あり、食べて行くことも難しいということもあったろう。戦後、引き上げてきた親戚に住むところと仕事を与えてみたいなのも、それなりに良い話だけど。丁稚奉公が奴隷のようにいわれるが、農家で食べて行けないはまさに命すらなくしてしまう状況で、丁稚奉公というのは自分の子供を自分が育てられない状況だから他の人に育ててもらうことを頼んだ背景がある。普通、他の家の子供を預かって育てるなんていうのは甲斐性がなければできないこと。

私が大学生を卒業したときに、親友の一人が大手に就職を希望して、父親のコネクションでその大手の会社に本社採用で入社できたが、地方に送られて6ヶ月は研修という形で給料が無い状態で、そのことに不満を漏らしていた。待遇としては、良家の息子さんのコネ入社と同じで、給料なんてものを期待などしていなくて経験を積ませてもらうVIP待遇の一種だったとは思う。でもミスマッチだろう、預かって育てようとしても育たない。
2018年08月26日
今日は年に2回の隣組の寄り。午後3時に集まって事務的な案件と午後6時からの食事会。世帯主6人が集まる。

興味深い話は、今、手広く仕事をやられているガス、ガソリン関係の方は、肥料を売っていたのが売れなくなって、運送業に進出してうまく行かず、ツテで、ガスの卸販売をはじめて事業を広げられた。なかなか田舎で経営が難しい流れの中で、事業を拡大されているのは、いろんなチャンスを探しておられ地道な部分を持っておられるからだろう。一方で大きくなると難しくなることも多い。誰もできないくらいのことをやらないと誰でもできてしまうのでという話もうなずける部分だったりする。

今日は、耳の部分がうまく織れなくなってしまったシャトル織機を、根本的に問題解決。調子よく織れていたものが織れなくなるにはそれなりに理由があるのだが、正しい状態に戻さないといけない。糸の通し方などいつのまにか変わってしまったものを元に戻す作業。もう一台も、耳の端のほうが浮き織りになる。この問題は、開口のタイミングの問題か、シャトルを叩くタイミングの問題だろうと考えていたが、違和感があった原因が分かって、一つねじが外れてしまっていて、それがシャトルを叩くステッキを叩くのを邪魔して、シャトルにスピードが付かず、端のほうが閉じた状態でシャトルが走るから浮き織りになってたこと。

その違和感を感じたのは、織機が動くときの音。数日前、音の変化に気がついて、正しくない音が聞こえてくる。その原因が分からなかったが、ねじが外れてステッキを叩く音が変わったということが今日分かった。織機を扱う上では音というのは非常に大事で、織機がしんどがっているとか、織機の調子が良い悪いは織機が動くときの音で判断することが多い。
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