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リネンや麻を織る日々をつづっています。
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リネン日記
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2011年01月15日
今日は、午後はお客様、夜には評議委員会です。工場の中では、リネン生地のキッチンタオルなどが織り進んでいますが、一時間に1mとか2mしか織れないものですので、織機は動いているものの昨日も今日も同じものを織っているなあというイメージです。

リネンハンカチのプロジェクトのほうは、2年目で、展示会などはクリアしましたが、産地が本生産の時期に入ってしまい。プロジェクトのほうの試作の小さなものが進めるタイミングを待っています。この忙しいのも2月くらいまでではないでしょうか。

一つアイデアとしまして、リネンの絣ハンカチができれば面白いのではないかと考えています。特別に力織機を手織モードにして織ってみようかと思っています。初年度は、ビンテージアイリッシュリネンを織ることが無事出来ましたので、今年度は、色柄で芸術性を求めたいと考えています。

昨日の大阪の商談会に行く際に、何気に事務所のコピー機の横のハンガーを見たら、ゴールデンアイリッシュリネンを使ったと思われるジャケットとスカートがあります。若干糸が太い気もしますので、ゴールドアイリッシュリネンキリリ60番手を使用したものではないかと思います。今も綺麗なままでその色味と光沢感というのは今のリネンでは再現できない世界です。レディース物なので、愛用できないのが残念です。

近江の本麻手もみのDAKSのメンズジャケットも会場には持ち込み、同じ、無地やシャンブレーであっても、今では少し想像ができない昔の高級な本麻やリネンのイメージを伝えられればなあと思う一方で、その世界を大事に残しておきたいなあと考えています。
2011年01月14日
今日は午前中は、お客様がお越しになられ、ご無沙汰しておりますということで近況などをお話いたしました。アメリカ向けが堅調だとおっしゃっておられ、弊社も昨日の商談会もありましたので、アドバイスなどもいただきました。

午後からは、大津の駅前のアルプラザというところで、セミナーがありまして出席させていただきました。早目につきましたので、アルプラザの店内を回らせていただきましたが、県内の一等地にある店舗さんでも6Fのレストラン街など空き店舗が目立ち集客力の面では大変なんだなあと実感をいたしました。

セミナーのほうは非常に分かりやすく、講師の先生のお人柄には感服いたしました。ご成功されているのがよく分かります。買い手も売り手もがお互いに相手を思いやるようなシチュエーションをプロモートされるような立場でご指導されていますので、海外でご活躍の先生ながらも近江商人道に通ずるものがあるかと思います。

セミナーのあと60分ほどですが、6Fの商人カフェで交流会があり参加された皆様とのご交流をさせていただきました。そこには、ファブリカ村の北川陽子さんが交流会の司会としておられましたので、アサヒ産業社長と私の3人が湖東産地の繊維関係つながりで、昔ながらの馴染み同士で冗談交じりにご挨拶を交わしました。

草津テクニカルカレッジという場所で、縫製関係の勉強をしておられる皆様ともお話の機会を頂き、お名刺のほうが足りずに申し訳なかったのですが、すでにホームページで林与のことをご存知いただいており、アイリッシュリネン生地などに関しましても興味を持ってくださっているとおっしゃっていただき、「手伝いに来てくださいね」とお願いいたしました。皆さんからは、林与のホームページに関するコメントなども頂戴しまして大変勉強になりました。

見ず知らずの人がなかなか初対面で打ち解けるのは難しいのですが、司会進行をされた北川陽子さんが「ことづくり」のための潤滑油のような働きをされて、和を生み出してくださっているのを感じまして、ものごとを進めるときに、最後は人なんじゃあないかと実感しますし、やさしい気持ちがなければ一つのものごとも動かないことが多いし、良い思いでが残らないので続くことはないのです。

ファブリカ村も1年が経ったということで、今は、ファブリカ村で東近江あきんどカフェを開催しているとのお話です。仕事というのは人生の目標を達成するための部分であれば幸せだと思います。でも、それが淡いものだと魅力は逆になく、他の人が超えられない壁をいくつも乗り越えているところが、周りから見たときにその人の魅力であったり、他の人に真似のできない世界を作り上げる要素となるんだと思います。
2011年01月13日
今日は、午後からJETROさん主催の欧米輸出商談会に出展させていただきました。新しいホテルで、周辺をうろうろとして見つからずに、遅れてのスタートだったのですが弊社のブース近くにいてくださいましたイタリアでご活躍されておられた国内コーディネイターの農守義文氏とお話も弾みまして各企業との商談も、すぐに和やかな雰囲気に包んでいただきまして、アメリカ、イタリア、イギリスの5社の皆様とも楽しい感じになりました。

通訳の方もおられ、また、英語が通じるということで、今回は、聞きたいなあと思うことは直接お聞きすることもでき、どういうものを求められているのかということを、お聞きすることができました。”コンパクトリネン” という言葉が会話中に出たので、新しいタイプのリネン素材かとおもい、自分の知らないところでリネンが進化してしまっているのではと思って、それはどんなリネンなのですかと尋ねますと、通訳の方が、トリアセテートのことをそういう風に呼ぶということを教えてくださいました。

リネン日記でお話しましたように、近江上布柄を海外の方にご覧いただこうと思って持ち込んで林与の歴史について話をするときにこういうものをかつてはやっており、日本では昔こういうものが人気がありましたとお話しましたところ、ニューヨークマンハッタンののパーティドレスなども手がけておられるエメルデザイン社が非常に興味を示してくださいまして、同じものを再現しても用途は限られていて難しいので、リネンの柔らかい素材の上に載せるとかコットンの上にプリントで載せるとか、今風のものに載せれば一つ一つの柄はアートですばらしいのでとおっしゃってくださっていました。

アメリカのシャツ業界では有名な、テキサスのハミルトン社もハミルトンも4代続いているということで、歴史的な重みのあるようなものには興味を示してくださり、近江上布にも興味を示していただけました。テキサスの会社なので、カジュアルな綿のシャツなどを多く手がけておられ、リネン関連はマス見本をハンガーにしていたのでそれをそのままお送りして色柄を選んでいただくというお話で進みそうです。

エレガントなラインナップながらもカジュアルさを含むクリスベンツ社も、リネンはさまざまなアイテムに使うということで、スワッチピックアップは多くいただきました。プリントものもたくさんやっておられるそうです。アメリカ向けには、リネンやコットンリネン素材を中心にプリントをベースに商品開発をしていくのが良いのではないかと思います。

イタリアのロベルタ・フルラネット社は、リネンの細番手の高密度ものや生成の100番手リネンストールに興味を示してくださいました。細い番手のものばかりをセレクトされるあたり、リネンを本当によくご存知だと思いました。

バイヤーさんとお話しする以外のほとんどの時間も、JETROのみなさんとお話させていただくなど、商談だけでなく海外販路開拓に向けてのお話などが時間いっぱい弾み、非常に内容の濃い商談会でした。とくに、すでに始まっておりますニューヨークとの案件も含め、アメリカ企業とはダイレクトにお取引が進みそうです。
2011年01月12日
昨日、弊社に残るアイリッシュリネンに関しまして当時のことを知る方とお話しました。当時はオイルショックのころで、狂乱物価で、全てが値上がりしている風潮にあり、良いものが作れなくなるということで、モノづくりをしている人たちは、繊維業界だけに限らず製造業全般の人が、良い材料を買い求めに走ったということです。

私自身は、30年ほどの麻ブームのときに買ったものかと思っておりましたが、30年ほどの前の日本での麻ブームのときにはすでに手に入れることが難しいような状況の糸であったのかとも思います。麻ブームというのは、作りたくても麻糸やリネン糸が、ほとんど手に入らなくなった時代です。その当時というのは麻織物の老舗として、全ての在庫がなくなってしまったといわれているにも関わらず、アイリッシュリネンの糸をしっかりと残してきたことが、不思議といえば不思議です。

1975年当時も、今後は良いものがに入らなくなるということで、先代が、1975年頃に良い原料を買いもとめた一つが、北アイルランドで紡績されたアイリッシュリネンだったのです。実際に北アイルランドででも、それ以降の時代には、良いリネンをつくるのが難しくなり、言われていたことは半分本当のことだったようです。30年ほど前に、北アイルランドの紡績というのは終焉を迎え始め、1990年代には、消え去ったアイリッシュリネンの世界をなんとか残そうと当時を知っている人を集めて語り部プロジェクトが始動しました。

先日倉庫で見つけたL80番手の金色のアイリッシュリネンは、北アイルランドのアンドリュース社のリネンだったとのことです。何十年も糸を買い足しながらも、良い糸をなぜ使わなかったのかが不思議かと思いますが、背景を考えると将来良いものが作れなくなるときが来るのを心配して買った糸なので、使わずに残しておいたということではないでしょうか。

また、北アイルランドのリネンが艶があって金色っぽいのかという秘密にも迫ることが出来ました。その色味からして、今とは違う製法でつくられていたと想像はしていましたがそれを立証する証言をいただき、やはりなあという思いです。私自身は、アイリッシュリネンが非常に柔らかく仕上がる理由もその原料の製法にあると考えます。

過去に何を作っていたとか何をやったとか一世代前のことですらもが、移り変わりが激しくて辿ることが難しく、世界のリネンの業界の歴史を知る人というのは希少な存在だと思います。知識で知るのと、その時代を生きて実際にものを扱っておられた方とでは格段の差があるのも感じるところで、当時をご存知のお一人お一人のお話をお聞きさせていただくことで全てのことが謎が解けていくのを感じます。ゴールデンアイリッシュの謎が氷解いたしました。

今日は、朝にビームを持って行き、お昼からは来春物に向けて東京と大阪からのお客様で、夕方は数件の出荷などと、ここ数日取り組んでいるサンプルつくりがシャトル織機のいろいろなところを調整する必要があってどうもうまく行かない問題で明日に持越しです。
2011年01月11日
オーガニックリネン生地を、近くの縫製工場に持ち込みました。5年前から彦根の縫製技術を使った商品開発をできないものかと考えていた流れの中で、オーガニックリネンの肌に優しいイメージがそれを解決してくれるのではないかと思うところです。リネンハンカチ用にフラットに綺麗に仕上げたもので、ずーっと長い間構想をもっていた、リネンアイテムの開発です。

オーガニックリネンに関しても、インターテキスタイル北京の展示会でも糸メーカーさんなども提案を持ってきてくださり、展示会というのは自分が提案するだけでなく、糸の情報やモノづくりの要素を入手するための絶好の機会です。

今のものづくりが難しいといわれる中でも、世界のトップクラスどころは情報収集ならびに情報発信のために精力的に動いておられ、情報を常に発信しておられるので、それを情報だけにとどめずにどう自分の布つくりに生かしていくのかが大事だと思います。
2011年01月10日
今日も工場で懐かしい糸を見つけました。15年以上前に1箱か2箱だけ手配した韓国の80番手の糸なのです。色はグレー系の色で、ヨーロッパ原料を使用したものです。日本で糊をつけてあり、非常に綺麗に仕上がっています。色味はグレーイッシュな感じですが、フシもほとんどみられず糸の仕上がりには感心いたします。

韓国のメーカーがリネン紡績を始めたころの糸で、ヨーロッパの糸を抜こうと意気込んでいた初期のころの糸ではないかと思います。品質が向上していったかというと、糸の原料の問題もあってか、品質は落ちていったように思います。今は、韓国のメーカーはバングラディッシュでの生産に移行しているという話です。

今日は、1月26日から28日に東京ビッグサイトで行われます、IFF(インターナショナルファッションフェア)のご招待状が届きました。若手のデザイナーさんたちが、クリエーターズビレッジという展示を行い、創作活動を実際のビジネスとして展開されていこうとするお披露目の場です。IFFも入場は無料ですが、一般および学生の方は入場できない旨の但し書きがありますのでプロ向けの展示会です。私も時間があればじっくりとIFFを眺めたい気持ちもあるのですが、1月はガチガチに予定が詰まってしまっていて今回は残念ながらみにいくことはできそうにありません。

国を上げての若手デザイナー支援が行われています。大きなブランドさんでも販路開拓が難しい時代になってきており、若手のデザイナーさんがその創作活動を見てもらう場所というのは大事だと思います。独創的な世界を持てばもつほど展示会のような場所ではいろいろな方とのめぐり合うチャンスが生まれます。以前、ジャパンクリエーションでコラボいただいたデザイナーさんとは、この春のリネンの企画が動き始めています。
2011年01月09日
昨日は東京から遠い親戚関係にあるお客様が車でお越しになられました。冬の時期だと滋賀県と岐阜の県境の関ヶ原というところで、雪で交通渋滞になることが多かったのですが、最近はそういうこともなくなりました。お客様は、やはり滋賀県は底冷えする感じがするとおっしゃっておられました。

今、リネンの注目は実は、中国ではなく、インドなのです。インドでは英国の植民地時代が長かったので紡績がありますが、資材向けの太いものが多いのです。手でつむぐような世界も残っていて、最高級の王様が着るようなものあたりは、神掛かった神聖な世界になるような話をジャパンクリエーションの展示会で弊社ブースにお越しくださった方からお聞きもして、いろいろなジャンルのリネンが経済成長を遂げるインドで需要が高まっているようです。

日本の何十倍ものリネンが消費されるのがインドなのです。熱い国なので、着るものにしても身の回りのものにしても、リネンが心地よいのだと思います。林与自身は、インドには行ったことはありませんが一度訪れてみたい国の一つです。

インターテキスタイル上海でも、インドの方がたくさん弊社のブースに来てくださいました。リネンに非常に高い関心をもっておられ、特別なリネンというよりも、どちらかというと手ごろなノーマルタイプのリネンを探されているようです。中国からもたくさんのリネン生地などが日本と同様にインドにも流れる時代になっています。
2011年01月08日
今日は、朝から来客があり、午後から機材関係の方、夜には機械屋さんがお越しになられました。たくさんの方から年始のお電話をいただくなど年初めな感じですが、今年は3連休がありますので、4日から仕事を始められているところも多く、いつものような長いお正月のところは逆に少ないようです。

2012年の企画の話も来週くらいからは始まり、来週、再来週は予定が埋まってしまっています。今の時代というのは特殊なものが作りにくくなっていますので、早く企画を進めておかないと時間的な問題で企画が途中で進まなくなるというケースがほとんどで、時間的に余裕のないものは最終的に普通のものに落ち着いてしまうことがほとんどです。

今日は、工場の中で織機の調整などを行いました。レギュレーターのピンが抜け落ちてしまって糸を送り出す機構が機能していないのです。そのため、織れば織るほど糸が強く張って少し織り進むと縦糸が切れてしまいます。通常の調整箇所はいろいろ調整してみたのですが、結局、普通では想定していない、機械の下のほうにあるネジが緩んでピンが抜け落ちていたのです。

このピンというのも自然に落ちるのではなく、何か負荷が掛かってしまって落ちたとしか考えられません。たぶん、高密度な織物を織ったときにテンションの調整で非常な負荷がかかり抜け落ちたのかなあと想像します。こうやって織機を調整していると、いつも感心するのはどの織機も本当に似たような仕組みだなあということです。メーカーが違っても構造はそっくりというか同じような感じです。
2011年01月07日
昨日、夜に倉庫を整理していたら30kgほど、Zignago Tessile社のNM46.5番手の糸が出てきました。大きな巻きです。麻番で77番手の糸です。フランス原料っぽいややイエロー味をした感じの糸です。

今は、Linificio社もこのZignago社の傘下にあって、ZignagoがLinificioの名前を継承した形になってますが、この30kgのZignago社のは、Zignago色味などからして異なりますので、Zignago社がLinificio社を吸収する前のものだと思います。

Herdmans社にしても、イタリアのLinificio社にしても、本国での生産が難しくなって海外(南アフリカ、中国、チュニジア、リトアニア)に生産拠点を移転したのは、必然的な流れではないかと思います。中国やリトアニアのリネンが高い評価を得るようになったのもつい最近のことです。

実際に1990年代後半のヨーロッパの本国生産の糸ですら、60番手クラスでも、同じ機械の設定でロットによっては、織れない糸が出てきていますし、また、織り上げた糸の毛玉やフシの問題なども、Herdmans社の糸にしてもLinificio社の糸にしても機屋を悩ませる問題になってしまっていました。

糸メーカーや代理店さんが、そういう問題に対応できることはなく、結局、より安定した糸を求めてシフトが進み、技術水準が向上している、南アフリカ、中国、チュニジア、リトアニア紡績の糸などで落ち着いて来ているのだと思います。

世界規模的な半導体工場の中と、今の紡績会社の中というのは似ています。昔は、半導体工場でもリネン紡績でも紡機を直す技術が必要だったのですが、今は調子の悪いところを調節するよりも、機械メーカーのものが、悪い部品を交換することで品質を保つ時代になったのです。機械部品などは非常に高価ですので、結局、品質を維持するためには、最新の機械を入れて、どこまで稼働率を上げるかがポイントとなっています。

実際に今の時代の機械の部品というのは消耗品として作られていますので、機械メーカーが新しい機種を出してしまえば、しばらく後には保守が難しくなるので、紡績メーカーも新しいものに買い換えなければならないシステムです。

中国の糸というのは2000年頃までは40番手くらいまでしか引けないといわれて資材向けが多かったのですが、2000年を過ぎてからは、60番手クラスが当たり前になってきて、今では、中国のほとんどの紡績工場が100番手の糸まで引けることをうたい文句にしています。どこのリネン紡績メーカーもが150番手クラスに挑戦するという話を出されますので、あと5年ほど待てば150番手を超える糸も生まれてくるのではないかと思います。

以前は、リネンの100番手というと手の出ない高嶺の花だった感があり、織れるかどうかが分からないといわれる世界だったのですが、今では、どこのメーカーの糸を使用するかなど選択肢もかなり広がってきています。
2011年01月06日
昨日は、夕刻にDENさんが新年のご挨拶ならびに生地の調達にお越しになられました。リネンの本も2冊プレゼントいたしました。ゴールデンアイリッシュリネンのチーズに巻いた糸を少しお分けいたしました。一本一本の糸も非常にストレートで、今の原料と紡績技術では、このクラスの糸を再現することは難しいと思います。

今日は、ゴールデンアイリッシュリネンの糸を使ってミサンガ用の紐を作ってみました。リネンの80番手と細いので、とりあえず9本を撚糸にしました。糸が直径2ミリくらいの太さになりさりげなく付けるのにいいんじゃあないかと思います。

もう少し太いものに挑戦してみようかと思っております。27本をしっかりと束ねたものならかなり貫禄があるのではないかと思います。腕につけると純金みたいです。ピカピカ光っています。他では手に入らない希少なリネン糸ですが、このような使い方ならアイリッシュリネン糸を皆様に楽しんでいただけるかとも思います。

今日は午前中、加工工場に加工出し、お昼前に司法書士の先生がお越しくださり、午後からも新年のご挨拶のお電話をたくさんいただきました。JETROさんからも米国向けの輸出に関する資料をメールでいただきまして拝見させていただきますと非常に勉強になります。
2011年01月05日
最近では家庭でもウールものを洗濯してしまう時代になりましたが、ウールというのは過程で洗うのは厳禁だったものです。リネンも昔は家庭で洗っては駄目なものだったのです。シルクもそうだったりします。

ウールやリネンの理由というのは、まず第一に、水洗いするときの寸法変化率と呼ばれる数値の問題があげられます。天然繊維であるが故にどうしても水を吸収しやすいという問題と絡んできます。

もう一つの問題は、寸法変化率以外の問題で詰まるという問題です。洗うたびに詰まっていくのです。織物というのはアップアンドダウンがありますので、そのアップアンドダウンがより立体的になることで詰まっていくのです。

リネン物で、しっかりとした襟元のシャツがないのはこのことが強く影響しています。それをつくると実際にはドライクリーニングでも危ないのです。詰まるという現象は、粗く織ったものでは比較的少ないもので、余裕分の見越しや芯地の選択や素材を選ばれる方の経験にも大きく左右されると思います。
2011年01月04日
ゆっくり時間を掛けて作るものというのが昔ほどは評価されなくなってきています。私自身も、加工工場さんが麻布を一日寝かせてから次の工程に移られる意味をよく理解はしているのですが、つい急いで欲しいという話をしてしまうのです。良いものを作りたいときにこれが本当に駄目なことは良くわかっています。

染色から上がった色糸に関しても、面白いもので、まだ出来立ての状態では色を見比べることが出来ないのです。出来立てのほやほやのカセを持って帰って巻こうとすると、内と外の色が異なるのです。これは、まだらに染まったというのではなく、温度の差です。外は冷めていて紺でも、内はまだ暖かく紫だったりします。冷めると均一な色になるのです。

加工から上がったリネンにしても、出来立ては風合いが違和感があるのが当たり前なのです。テンターで巾だしするので風合いが良くなくなるのです。リネンや麻のものに関しては時間を置くとしんなりとしてくることが多いものです。加工上がりの反物の風合いというものも縫製などのプレス工程で水分を含ませることによって風合いがかなり変化します。
2011年01月03日
昨日からお正月明けに向けての段取りの開始です。今、ある指定を受けて織っているリネン糸が硬くて、織物にループができる問題を克服するのに手間取っています。レピア織機なのですが、糸がらせん状に出るほど糸が撚りを受け付けず硬いのです。

小さなループのほとんどは毛羽焼きをすれば焼けてしまうので一般的に問題はないのですが、織り上げた状態で完璧でないのが好きではなく、徹底的に織機を調整しなおしました。無駄も多くなるのですが、捨て耳を長く長くして捨て耳の絡みソウコウがしっかりと糸をホールドするようにしてみたり、絡みソウコウを交換したり、フィーラーと呼ばれる糸を給糸する装置を使ってみたり、糸道油を付けてみたり、テンサーを交換してみたり、開口のタイミングを調整したり、ピックのタイミングを変えてみたりと、この糸の特性に合わせるために機械を調整するのです。

硬い糸というのは縦糸には向くのですが、横糸には向かないのです。横糸というのは、通常柔らかい糊のついていない無加工の糸を使用いたします。弾力があって、縦糸の上下に応じて織り込まれやすいのです。縦糸と横糸が異なるという話をするとびっくりされる方が多いですが、麻の場合で、縦糸と横糸が同じなのは40番手くらいまでの太い番手の織物の時だけで、60番手くらいを超えてきますと糊をつけたり、水溶性ビニロンを巻いたりして織るケースが増えてきます。

この糸も糊はついていないのですが、紡績の時に硬く作りすぎているような感じがいたします。あと、つなぎ目というのが手でくちゅくちゅっとしたような感じを糊で固めたようで、糸が汚くみえるので綺麗にしようと糸を直していくと2本に離れてしまうのです。紡績工場の特性だとは思いますが、リネンの品質というのは同じリネン100%といえども紡績工場によってさまざまです。
2011年01月02日
昨日は、午後からは親戚が家に集まりまして食事を食べました。ご飯を食べたのが出居です。そこには、戦前の賞状が飾られています。先日のリネン日記でも触れましたので、頭の中にあって、一つ一つの賞状を眺めました。小さいころから何なんだろうと眺めていた賞状です。

1枚は大正15年の麻織物協同組合の1等賞の賞状。他は昭和16年の丸紅賞、昭和16年の市田さんの叶賞と銀賞(叶会という会なので叶賞というのも意味のある賞だと思います。)、昭和16年の森五商店さんの金賞、銀賞の賞状です。昭和16年という年は、西暦で言うと1941年で開戦前のものです。

出居でご飯を食べたのですが、そこを使うのも年に1回か2回のこと。出居は、冬は非常に寒く、昔は、青い火鉢が置いてあってそれにあたっているのが、子供のころの思い出です。何もすることがなくても、火鉢の中の墨を鉄の棒で突付いているだけで、時間は過ぎていったのです。

今日は、1歳の姪も来ており泣くこともなく、ご機嫌さんで動き回っておりました。3歳4歳くらいまでは、甥っ子たちも仕事に興味を示してくれ、仕事場にも興味深く身にきていたのですが、小学生になると他のことに興味が惹かれる年頃です。
2011年01月01日
新年、明けましておめでとうございます。
近江湖東地域は、大晦日から雪が降り積もり銀世界に包まれています。

30年以上も昔になりますが、子供のころ、冬には1M近くにもなる巨大なツララが工場の軒には出来上がっていました。工場の熱で屋根に積もった雪が解けてそれが寒さで固まって一冬掛けていくつもの巨大なツララが出来るのです。それを壊さないように取り外して一日だけの大事な宝物にしたのを思い出します。巨大なものだと10kgくらいはあるのですが、太陽に当たるとキラキラとして、自分の家にだけできる不思議なツララに大満足なのでした。今は、工場も建て替えたので巨大なツララはなくなりました。

ツララもそうですが、小さなころに大事にしていたものがたくさん消え去ってしまったように思います。牛乳キャップを集めてキャップめくりという遊びが流行ったり、毎日毎日魚釣りに排水といわれるところに行ったり、夜の水銀灯の下でクワガタやカブト探しをしたりと、たとえば、日曜日に何もすることがないともったいなさすぎて爆発してしまいそうだったのを思い出します。今はすることが多すぎてバタバタなのですが、子供のころは仕事が忙しいというのが不思議でたまりませんでした。

今年は、この数年取り組んだことがさらに前進し、モノをつくるだけでなく、林与らしいモノづくりの姿勢を深めてまいりたいと考えます。
2010年12月31日
今年ももうすぐ終わりです。今年を思い返してみますと、リネンデニムでジーンズを作ったり、ビンテージアイリッシュリネンハンカチも初年度のものが完成したり、リネンの高密度織物でシャツを作ったり、オリジナルのキッチンタオルを作ったり、ものづくりをしてそれを発表する過程で、いろいろな皆様とのお出会いも多かったのです。

この一年技術的に越えた壁はたくさんありました。この一年は、日本国内にものづくりが帰ってきたといわれる一年で、生産キャパが小さくなりすぎて、通常のものづくりさえもが、さらに難しくなったのを感じます。そんななかでも、応援下さるみなさまがたくさんいてくださるのを感じながら、独自なものづくりを貫ぬけた価値のある一年だったと思います。

今年一年、ありがとうございました。来年も「リネン日記」をよろしくお願いいたします。
2010年12月30日
ジャガード織機のつり紐が1本切れてしまって、他の紐も、髪の毛一本でつながっているような切れる寸前の状態です。なんで?と思うと、糊が付いていない糸を織るために、糸と機械に負荷を掛けて無理やり織ったので、そのことがその織機の縦の吊紐のほとんどを消耗してしまったようです。

これを全て直すとなると大変だなあと思います。お正月にでも、私が一本一本交換できれば良いのですが、このお正月はやらねばならない仕事の宿題が積もっていて、今年はなんとか応急処置でしのいで、来年の4月5月ころの手の空いた時期に全部の吊紐を新しく交換かなあ、ちょっと弱気です。

今日もシャトル織機の縦糸切れしても止まらないという現象が起こり、たどってみると、シャトル織機に備え付けたカウンターの器具が、バネがストレートに伸びるのを邪魔していて、正しく動いていなかったようです。

レピアの横糸のセレクターも、6色全部を使うと一番下の糸が取りにくいなど、ちょっとややこしい問題があるのですが、そんなのも微調整でクリアです。不思議なことにそのセレクターの一つが戻るのが遅く、2本入るような現象も起こるのですが、それも微調整でクリアなのです。

糸によっては緩みが出て取りにくい糸があるのが麻糸の特色です。糸に関してなるべく正しい方法での加工を手がけてはいるのですが、それでも、糸のテンション差というものは出てしまいます。織機が正しいから織れるというわけではないので、基本的にばらせるものは徹底的にばらして自分の思うように部品に細工を加えてあげるのです。

問題がたくさん起こるのは織機の問題ではないことが多いのです。綿糸だと問題にならないことが麻の糸を織ると問題になることがたくさんあります。その当たりが麻を織ることの難しさで、麻織物では、プレーンなものがほとんどであるのもそれが理由の一つです。
2010年12月29日
冬休みではありませんが、夜寝る前に、本棚から昭和48年に出ました京都新聞社発行の「商魂」という近江商人の話を読みました。非常に文章が良く出来ている本で、近江商人の各家のエピソードなどが物語風に書かれています。

そのエピソードの中に、日本の繊維の歴史がぎっしりと詰まっているのです。これが、日本が開国してからの150年ほどの間に起こったものかと思うと、時代というものは一人の人間の一生の間にめまぐるしく変わるものなのだと思い、また、一人一人の人間の判断で作られていくものだと実感します。

何をしたという事実だけでなく、その時々の経営者の気持ちや考え方までもが後世に伝えられているのが近江というか日本の商売の特色ではないかと思います。1974年に出版された本ですので、古本でないと手に入りにくいようです。お勧めいたします。ご興味のある方はお読みくださいね。

昨日、今日が仕事納めのところが多く、今日昨日も、近江湖東産地も、糸加工、染、加工の社長や専務さんと今年最後の仕事をしてもらいながら、その際にご挨拶を交わすことで一年が終わりです。どこもが本生産中で忙しくされており年が明けても気が抜けない状況です。

今朝は、加工工場に少し早めに行ったのですがいつも受付してくださってる場所に新しい方が座っておられました。今は引継ぎを勉強中だということでご挨拶もいただきました。先日は検反場で、白い反物に埃が付くのを警戒してコンプレッサーで吹きながら反物を巻いてくださってたお若い方で、そのことを聞きまして、丁寧にやってくださってたのを思い出しながら私も改めてご挨拶させていただきました。
2010年12月28日
近江上布機元初代のヨジヨモンじいさんは、本当に才覚のあった人だと聞いています。カンベイひいひい爺さんというのは、「のんべい(お酒のみ)」で、カンベイひいひい爺さんのころも農業の傍ら家では冬には機は織っていたのですが、お酒の飲みすぎで財産を全て飲み尽くしたというお話です。ヨジヨモンじいさんは、林与を近江上布の機元として立ち上げただけでなく、豊国村の二代目村長として、林与の中で村の行政の仕事をこなしていたのでした。

江戸時代の参勤交代という制度は、江戸に妻子を人質としてとられた大名が中山道を動くことで、近江上布という特産品が高宮の宿で動きやすいという事情があったのではないかと推測いたします。明治の初期に関しては、藩に統制されていた近江上布であったがゆえに買い上げの制度が崩壊し、新たな販売方法として伊藤忠兵衛さんをはじめとする近江商人が物流を支えたといえます。家には、戦前に丸紅さんの展示会でいただいた織物に関する昔の賞状が何枚か飾ってあります。当時は、丸紅賞を受賞したとかいうことで大変な騒ぎだったんだろうと思います。

林与は、昔、機元でしたので、地元の親戚の家などに貸し出ししていた昔の近江の手織りを支えた手機が今も残っています。いまだと手軽な手織織機がたくさん出回っていますが、近代の近江上布文化を支えた織機ですので、手織りででも高品位な麻織物を織ることのできるものです。明治といえば、豊田織機が力織機時代を築き上げ始めたのですが、近江上布の特色である糸を左右に少しづつ振って柄を織り上げる絣織物は手織りでなければ再現することが難しいために、産地では戦後も手織の文化が続いたのだと思います。

私が小学校3年のころ、小学校の先生が興味を持ってご依頼くださったのでしょう小学校の放送室に、林与の手機の織機が置かれていました。すごく新しい校舎に、レトロな織機が置かれていたのは、小学校3年生の私にはまだまだ理解の難しいことでした。先般のゲストティチャーで思い出したのですが、30年も昔からそんな感じのことをやっていたのだなあとふと思い出しました。

愛知川町の町の歴史を編纂するときに、麻組合からお声が掛かりまして、弊社の先代與志郎が、愛知川町の近代以降の麻織物の歴史の原稿を書かせていただくことになりました。製本されたときには先代は亡くなってしまっており、愛知川町も秦荘町と合併し愛荘町と名前を変えました。時の移り変わりを感じます。
2010年12月27日
今日、夕方、出機さんに整経のビームを持って行って帰ると事務所に青い封筒が届いていました。中にはピンクの画用紙に絵が書かれた表紙の本が入っていて、封筒には旭森小学校5年生と書かれてて、ゲストティチャーさせていただいたことに対しての5年生のひとりひとりが書いてくれた、お礼の手紙の本が届いていたのでした。小学校の先生が会社まで届けてくださったようです。

今の時代にハンドメイドを語ることは多くても、子供たち、ひとりひとりが書いてくれたものをいただくことというのはもったいないなあと感じます。私が一番それを見せたかったのが、その3日間一緒に訪問させていただいた社員たちで、彼女たちはそれをみてすごく喜んでいました。彼女たちは、この手紙の一枚一枚を家で読んできっと心打たれると思うのです。

そういう暖かい心の世界があるということは大事だと思います。今の時代、コンピュータが小学生にとって必須になりつつあるも、こうやって手書きの手紙をいただいたいて、その文字一つ一つに個性があって、手でものを作ることの偉大さというのを改めて感じずにはいられません。

表紙もピンクで今のタイミングからしてクリスマスっぽく感じ、作ってくださった皆様の暖かい気持ちに感謝いたします。将来、子供たちが大人になってからミシンを使って、小学校のときに初めてミシンを使ったときのことを思い出しながら、何か手作りしてくれるとうれしいですね。
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