for English speakers: Welcome to HayashiyoWelcome to Hayashiyo
リネンや麻を織る日々をつづっています。
ホームリネン日記
リネン日記
リネン日記:3624
«前のページ 1 ... | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 | 72 | 73 | 74 | 75 | 76 | 77 | ... 182 次のページ»
2016年12月29日
今日は、朝から天気が良い感じだったので簡易捺染台の作成。捺染台を作っていると、雨がぱらぱら程度に降ってくる。その後は降るか降らないかの微妙なところで、外での作業は中断して、工場の中での作業。

夜には、捺染台が完成して捺染を行おうとするが、別の問題が…。苦戦、苦戦。手作りした器材の改良を行う。やってて、こういう作業は楽しいのである。ただ、時間がほしい。時間があれば、どれだけでも没頭できるだろうと思う。

今は、唯一の1週間の外と閉ざされた年末年始の時間で、この間に10柄の広幅で織る絣柄を仕上げないとならない。一人でどこまでのことができるかだが、器材を作りつつ、1週間で10柄を型紙を彫るのもやるところから、染料の調合や蒸しも、糸の巻き返しなども必要で、織るのも絣で織るのでシャトル織機を使うが手織りに近い。

でも、この1週間で10柄つくれるようなら、着分程度の生産も楽しく出来そうなのである。プリント関連での量産も視野にいれてはいるが、今の日本のアパレルが完全に冷え込んでいるといわれるタイミングでは、プリントの版を作って試作からの話というのは遠すぎるだけでなく、量産を期待することが難しいであろう。

国内もアパレル消費は冷え込んではいるものの、東京などは地価の高騰などから、超高級な良いものを買いたいと思われている方は多いと思う。海外も、ヨーロッパが日本文化や伝統などに対して評価が高くなっていて、中国も同じく日本のものづくりに対する評価が上がっている。

2016年12月28日
昨日は、なんとか香港向けのアイテムを出荷できてほっとしていて、今朝、銀行に行く前に大阪の郵便局からそのアイテムを輸出通関するための問い合わせ。EMSを使っての出荷で、本来は北京行きの荷物なのだが、EMSで10万円以上のものを中国に輸出するのは、貿易権を相手が持っている必要がある。

今回は120mほどなのだが、EMSで送ることができると本当に送料が抑えられる。15000円ほどの送料で、15kgほどの荷物が海外に超特急で送れるのは極端な話、無料に感じるほど。20万円を超えると通関手続きが必要になってくれるのだが、それも委任状を書けば郵便局がやってくれるということでDHLやFEDEXと同様のフルサービスでありがたい。

昼前に銀行に行って手続きなど済ませて。工場の中は職人さんが来てくれる日で、してもらう作業も説明も要らないので任せて、作らないといけない請求書などの案件を済ませる。染料や助剤なども手元に届いて自分がやらないといけない、限られた器材での染色系の案件をどうクリアしてゆくべきなのか考える。
2016年12月27日
年末も押し迫って、いろいろと試行錯誤を重ねて染料や助剤なども確定して近江上布絣柄の広幅織物の作成に必要な染料と器材を確定したのだが、年末年始の休みに入ってしまうと1週間ほどほしくても手に入らなくなる。発注を掛けたり、夕方、京都に向かい器材を揃える。予定だとぎりぎりお店につくかと思いきや、予定よりも早く田中直染料店に着いた。渋紙、捺染枠など手に入れる。

京都の事務所にも久しぶりに立ち寄り、その途中も師走の京都の雰囲気を楽しむ。夜は雪が降る。無理をしないで高速道路のサービスエリアで休憩を取りながら、会社に戻る。

2月9日に、東京でRINCROSSINGのイベントがあり、そのイベントに参加する。卸向けの企画で、林与ブランドのキッチンクロスの提案のほか、今、林与のブランドとして新しく立ち上げるリネンのブランドの商品展開を考えている。2017SSから楽しみにしていることの一つ。会社の中は人手不足も正しくひとつひとつこなしてゆくのが大事で、2月にはミラノウニカの展示会がある。

TDAさんからも、4月の百貨店イベントのご連絡をいただき、近江上布絣柄をお披露目したい気分なのであるけども、今の状況では、不確定な要素もあるので現時点で手を上げることはかなり難しそう。3月はテキスタイルマルシェもあると思うがインテキ上海と被る可能性も高い気がする。
2016年12月26日
日本の現場って、どんどんと単純作業化していて、その流れは海外の量産型の生産と似ている部分がある。日本の製造業に求められることとして、小ロット、多品種、短納期という三種の神器みたいなところがあるけども、この3つを成し遂げるためには、まさに人の力が必要。

小ロット、多品種、短納期であっても、値段は同じみたいな感覚も普通じゃないのだが、プロが消費者感覚で物を求める、今の時代だから、どうせ同じなら卸よりも小売したほうが全体が成り立ちやすいという流れになってしまうのだろう。

自分がオリジナルで生地をつくって、仕事のお客様に販売することを想定したときには、あまり無理したものをつくらないことにしている。小ロット、多品種、短納期という問題を想定すると、現在ある機でできる企画に納まっていることが大事なのである。自分自身の企画のときには、とことんやり直しも覚悟で予算の制約もはずして考えることが多いが、それを仕事のお客様に売ろうとはあまり想定していないことが多い。自分でつくって売ってゆくという覚悟でものづくりする。

このものづくりのもののほうが面白いものがつくれるのは当たり前なのだが、それを仕事のお客さんが興味をもたれてもうまくいかないことが多い。特に、コスト、サンプルの有無、納期面で、林与の会社に転がっている10mほどのサンプル生地なども量産の5倍とか10倍の費用とか使って作っているものがほとんどなので、買いたいといわれると困ることが多いのである。作り直す分の外に払う費用だけでも請求できればよいのだろうけども、その費用を口に出すと繊維関係のプロの人でも憤慨されるんじゃないかと思う。そのくらいものを小ロットで作ろうとすると費用が掛かり、それを覚悟して作っているから、小さな会社でも自分の世界があるのだろうと思える。ものづくりが企画じゃない、現実的な部分。企画はありふれていてもそれを支える覚悟がないと物事は前に進んでいかないものである。
2016年12月25日
先日、まだ年も明けていないのに70歳のおじいさんの方から年賀状がメールで届いた。間違ってボタンを押してしまったのかと思いきや、たぶんそれがその方にとっては普通で、台湾でとった写真を添付しておられた。年賀状なんてものも形式にとらわれずに、そういうスタイルがあってもよいと思う。

お店やっておられた方がお店を閉じられた。それもまた追い求められた夢にチャレンジされたということは残るだろうと思う。やろうと思ってやったことが必ずしも成功してそれで食べてゆけるわけではないし、独立して成功する確率なんて10分の1くらいであろう。

今、企業家を募集するような起業プロジェクトが盛んだが、30年続くくは1%未満であろうと思う。続ける秘訣の一つは大きくしないことではないだろうか、趣味に近い範囲でネットを中心にビジネス展開をしていくことだろうと思える。

人を雇うということは、できるできないにかかわらず雇った人の面倒をみるのが仕事になってくる。そうすると個人と個人の問題ではなくなり、国の公務員的などうしようもない要素までもが重荷になってすぐに成り立たなくなる。日本で企業が大きくなりえないのは公的などうしようもない要素がのしかかってくるからだろう。以下長くなりますので、適当に流し読んでください。

たとえば、労働基準監督官の方である方に投げかけた極論。労働基準監督官であるあなたが、仕事しないで一日中外で遊んでいて解雇されたら労働基準監督局を訴えるのかという極論に、訴えると思うという相談窓口の労働基準監督官までいたりする。(実話、そんなレベル、あきれて公表しても大丈夫ですかで大丈夫といったので公表した。)。笑えすぎて、他の真面目に働く人間を殺すようなレベルで、それが国の行政の地方の窓口の担当者の回答。ほんとびっくりして名前までいただいている。

小学生でもわかる普通のモラルが通用しないのが今の行政。ここまでのもの求められたらどこの企業も成り立たないだろうけど、それを言い張るのが労働基準監督所の労働基準監督官。そこまでひどいと、相談窓口のものすらが、働くということの常識すらもが通じない。こういう労働基準監督官がいると、まともに働いて税金払ったり、働いている人間が報われない。どうして労働基準監督局も窓口対応、ここまで壊れているんだ。監督所の所長としゃべると当たり前に別の回答だろうが。遊んでいて給料もらうのが当たり前みたいなレベルも労働として大丈夫と判断する労働基準監督官がいて監督するのも恐ろしい話。

ひどすぎて、そのあと、国の地方の労働基準監督署を監督する厚生労働省の方とこの話したら驚いておられ、その方とは普通の話が通じるので救われるが国の役人では珍しいほう、地方ではありえない悪奉行みたいのが横行しているのがありがち。地方を監督される方にもその労働基準監督署の監督官の名前も教えてほしいといわれるけど、私が思うのに、それが一人の問題でもなく、地方の全体的な労働基準監督署の指導じゃないのかと思うと、そういう土壌で育った、その一人の処罰問題で終わるのはトカゲの尻尾きりだから、教えてくれといわれても、今回の件でも別に私に問題があって実際の指導されているわけでもなく、監督官のあまりの無茶な論理に常識が通用するかの極論を投げかけて、その人には一般の常識が通用しなかっただけで、これで、その人が処分されるとかはかわいそう過ぎる。そういう地方の悪代官みたいのを育ててしまうのも、責任逃れで成り立つ日本の中央行政そのものの問題だと思うから、一人の問題ではなく、全体で一度ここまで監督するものの感覚がずれているという話を考えてほしいと地方の労働監督署を監督される方に伝えた。なるべく上の人に繋いでくれと繋いでもらって対応してくれた方はかなり真摯に対応してくれていた。

一方で、年金記録すら紛失で管理せず国が最初から国民に年金を正しく払う気もなかったという国家規模の詐欺問題で大問題になったが、労災保険も、労災保険に加入させながら労災を認定しないような件で国の敗訴がつづき、労働者に大して労働基準監督局がブラックであったり、一般の感覚からすれば労働者を守る意識もなく違法レベルな行政の存在も、そういう指導を聞くと労働基準監督署自身が世間一般の遵法意識がないのもうなずける、現実が分かっていないのに、監督の立場ながら責任逃ればかりで、労働者すらからも訴えられて敗訴しても反省すらない殿様対応。だらしない行政が諸悪の根源になってしまうのも無理もない。行政が人間のモラルすらないレベルはブラックの根源過ぎて怖いものである。

行政の方のミスマッチという件では、20年ほど前でも、字の体育委員が当たったときに夜、町役場の説明会で、全部の字の担当者が30人ほど集まっておられて、トーナメントは決勝まで行くと、4週間に渡る。みなさん、お子さんのいる20代、30代の方が選手として参加されるので子供の行事があると参加できない可能性がある。それである方が、尋ねられ。最初の週は参加できるが次の週からメンバーが足りず参加できない場合どうしたらよいのかと尋ねられた。すると、町の担当の方は、決勝まで参加できない可能性のあるチームは最初から参加しないでくださいと答えられた。ほんと世間知らずすぎるなあと、おもった。

町が字対抗のソフトボール大会をやるというので、字の体育委員などが頼みまわって選手を探すのに、そういう苦労も知られずにおられる方が町のソフトボールを企画しておられ、簡単に参加するなという。主催が本来はそういうことを想定しておかないとならないことで、そういう想定もなく、子供もいる家で、字の行事もあったり、4週間も連続で日曜日スケジュール空いている家がどこにあるのか。

ソフトボール大会の主旨なんかは町民の交流や健康のためということで美しいのだが、この町の担当の対応正しいか?、これはいかんと思って、会議参加者の中では一番若いくらいの私が手を上げて、もうちょっとみんなのことも考えて、柔軟な対応をするべきではないのかという意見をいったこともある。他の方は、みんな黙っておられたが、私一人がそういう意見を出したので、途中でメンバーが集まらない場合には棄権もできるということになってより多くのチームが柔軟に参加できるようになった。たぶん誰もが困る結果でもないし、私はそのほうが良かったんじゃないかと思うが、その場でも、そういう意見をいうのが私だけだったりして、なかなか、行政とのからみで行政が決めたことに対して、その下にある字が意見をいうのは煙たがれるだろう。だれも、字の意見を集約もしていないので、意見をいうのが難しいのだろうけど、自分が字の人集めもするんだし、町のことを将来も含めて考えれば、こんな参加するなが前例になるくらいならそもそも無理してやらないほうがマシだし、自分が思う正しい方向に意見をいうのも大事だと思う。

私が字の中でも裏で決まっているような感じのことに対しても意見を厳しくいうので、それこそが字のことも考えて、字の将来のことも考えて、裏の出来レースに付き合わされてだったら、時間の無駄で、最初から出来レースだからよろしくでよいじゃないのか。みんな若い人が逃げてゆく。私に近い世代の各学年のリーダー的な相談を受けることもあったりして、結構みんな真摯に考えて努力している思うけども、年配世代にありがちな上になびいて裏で決めて下を言いくるめろみたいなのは最悪でいかんよなあ。これが自分の住む字の行政かと思うと今まで字の行事も若い世代なりの主要な役を乗り越えてやってきたのに、本当にがっかりしたことがある。

同じことを繊維の仕事に思うのも、先代のやってきたこと、言ってきたことがまったく通用しなくなった今に、自分で考えて自分で動いてゆくという当たり前の力を持ってしないと、日本のものづくりの理想とされるものを生み出すには理想とされる環境の整備が必要で、市町村レベルが難しければ国レベルでのアプローチ、また、世界的なレベルでのアプローチが存在するだろうと考えたり。そこは本当に自分ができるかできないかの実力の世界で上下関係もなく、人と人のつながり。林与はかなり幸せだなあと思うのもそこ。世界に林与のあり方や布を認めてくださる方がいてくださって、高すぎてご自身でお使いいただけなくて他の知り合いの方にもも広めてくださる。また、国内の繊維業界メディアも記者の方が一番小さな織物会社の林与を一押しで林与をいつも持ち上げてくださって、普通じゃ考えられないほどに恵まれすぎ。その分、自分に厳しく何事に対しても無味乾燥な判断にいたらず、本質の追求が必要だと思っている。
2016年12月24日
林与は今日は午後からお客様で、同じ集落の方のお友達の方が草津でお店をされているということで、お二人でお越しになられ、お店で販売する洋服の生地を探しにこられた。すでに産地の企業さんの生地もお使いになられているということで、林与という会社は問屋さん経由でブランドアパレル向けの生地の生産に特化していたので、地元で使ってもらっているケースというとDENさんくらいだったりもする。それもDENの北山さんに聞いた話によると、長浜の商店街の空き店舗対策で、アンテナショップをつくろうとされた長浜の縫製の方が5人おられて、そこに林与と北川織物さんが素材提供で入って、セブンシーズという名前で10年以上前に始まったのが今のDENさんへのいきさつだという。そういえばアメリカから帰ってきて今の仕事に就いて、まだ立ち上がったばかりのセブンシーズの展示会イベントを見に行ったことが思い出される。懐かしいなあ。今も織物の世界でも林与は外の世界を知らず浮いているかもしれんけど当時も何も分からず浮いていただろうなあ。

今日のお客様は草津の八百久さん、江戸時代からのご商売で草津では老舗のお店で和の世界の生活雑貨などを主軸に取り扱われているお店。ワンピースなどの洋服にする麻生地をお探しにお越しで、特別に倉庫や工場の中も見てもらう。近所のおばちゃんも初めて倉庫の生地や工場の中を見てもらう。在庫や織機を眺めてもらうと理路整然としたほかの会社とは違うけど、いろんなものごと抱えながら本格的にやっているなあと感じてもらえると思う。この本格さこそが林与が仕事を続けている意義であって、普通の会社には必要もない気合で成り立っているようなものなのだ。

話は変わりますが、林与の生地を使った製品を手に入れるということで、東京方面では、山神シャツの山神さんにも生地をお使いいただいていて、林与の麻生地で本格的なオーダーシャツをつくりたいと思われている方があられましたらネットでご検索いただき山神シャツさんのイベントもお伺いください。
2016年12月23日
近江上布絣柄の広幅での再現に染料と助剤の選択などが必要になってきていていろいろと詰めている。機屋がなんで染料なのかという話なのだが、もともと林与は家の中で捺染をやってて強かったから近江上布の世界では一番強いくらいにいろいろな色柄を展開できたということがある。そのことにしても、戦後のものも十分ない時代に手に入れてやってのけていたのである。

逆に、人が多かったからいろんなことができた側面があって、今は人が少ない中でそれを再現しようとすると昔の技法そのままでは続かないだろう。もともと、伝統工芸品にしても、今は技術が確立されているけども与一爺さんがやってたことなどが認定されただけのことであって、技法が固定されてしまっただけのところもある。認定制度がある前というのは決まった技法などもなく、人の労力を詰め込んだ最先端の織物技術が近江上布だったということだろう。

伝統技法にこだわる部分はそれを管理されている組合さんなどが得意とされる部分だろうから、それを進化させる形でのものづくりで日本中を魅了した近江上布絣の色柄の世界を復活させたい。絣ながらも織り上げる幅も広幅で再現をしていきたい。近江上布の絣技法を応用し、新しい要素を詰め込んで新しいジャンルを作り上げ、海外に提案していくというのが今の取り組み。ターゲットとするアイテムも、着物はもちろんだが、ストールやワンピース、小物、タペストリーなど。プロジェクトの初年度はストールをターゲットアイテムとして取り組んでいる。

手織に近く、量産は無理なので、量産は通常のプリントとして外部に依頼するなどの形にもっていければと考えている。実際に作業に取り掛かっていると難題がいくつもでてくるが同時に解決方法も浮かんでくる。工夫することで一見難しいと思われることが実現できるものである。しかしながら、昔の近江上布というのはやはり完璧さなどからしてうまく作られているものだなあと思う。そこまでの完璧さを追い求めずも試作ということで半ばまでも目指して改良を加えていけばたどり着けそうな気がするのだ。
2016年12月22日
ミラノウニカに初出展される麻紡協会さんの通訳探しを12月に入ってからお手伝いしていて通訳してくださる方を確定でき、詳細や注意事項などを協会さんに引き継ぐのが本日で終わり、一安心している。麻紡協会さんには通訳を探すのが一番大変だと思いますよという話を出展の相談を受けた最初からしていた。ホテルや航空券は個人でも手配がしやすいような仕組みが出来上がっていて業者さんに頼んでも手配できるルートがあるとは思うのだが、通訳をやってもらうというのは個人と個人の結びつきに近いものがあって、注文するというよりも一緒に仕事をしてくれる仲間や助けてくれる人を探すというような側面があると思う。また、初回なのでうまくいかないと軌道修正をするというのも前例ができると軌道修正ができにくくなるという問題があるので、なるべく良い形でスタートはしてもらいたいということがあった。初回うまくできれば、来年は今年の探し方や通訳してもらう方を頼りに協会さんや各社自身で通訳を探してもらえるようになるとも思える。

私もものごとをする上で、やりたいことがあったときに誰かに頼んで、失敗してもやってみるということは大事だろうと思えることが多い。こういう通訳探しなども経験のうちで経験自体は自分の肉となり力となるので貴重なのだが、見つからなかったときとかのことを考えると探す期間も短いだけに本業もかなり詰まった時期で自分の出展の準備もできていない状況で焦る話なのである。私自身困ったときに助けてくださる方がいて救われたことが多いので、自分だけが恩恵を受けるのではなく、それを世の中に返していかないといけないと思うこともあって動いている部分がある。

普通できないであきらめることが多かったりするけども、林与のような小さな会社の場合はあきらめたら普通の会社で終わってしまうので、あきらめないでとりあえずやってみるところから始まっている。林与のような小さな会社が海外の展示会に出るということは異例的なことだろうと思える。上海の展示会でも休憩所に行こうとすると上海の展示会のスポークスマンされているキャシーさんにばったりあって話をしていて、私の会社に何人働いているのか尋ねられその人数の少なさに本当に驚かれた。キャシーさんは相当な美人の方なのだが、そのリアクションの顔が極端だったので、今も脳裏に焼きついている。休憩所のチケット何枚かさらにもらった。主催のメサゴメッセフランクフルトの方も、

大きな会社のようにスマートにできないことが多いけども、スマートすぎると切り捨てていくことが多く、特別なことが難しかったりするもので、物事の考え方しせいというものは普通になれば普通のものしかできなくなるし、普通を超えて無理してやれば特別のものにたどり着けることも多い。私が才能があるというわけでもなくそれだけ失敗もして時間も使っているというだけだと思う。今の時代は計画的に頭で考えて物をつくり商売を成り立たせる風潮が主流なのだが、頭で考えたベストが通用しなかったらそういうタイプのビジネスはどうするんだろう。いつもこれ以上できないほどに動いていればそれ以上には動けないけども、それなりにいろんなことをやってはいるので、これが駄目でも別のことが成り立って助かるとかも多い。

実際に自分でやって成功したことも失敗したことも経験で、頭で正しいだけの理論を知っている人とそれがなぜ正しいのかを知っている人とでは性質は異なる。商売をしていても商売は儲けるのが当たり前という結論で話をされる方も多いが、リスクを背負って全体を見ると儲からないことも多いのも当たり前で、誰かが儲ければ誰かが損をしていたり、誰かが楽をしようとすれば誰かがその分働いているというところすらも見えなくなったら素人に近い。今の、働く時間が短くなってまだ働く時間を短くしようとするが学生よりも弱い社会人というのも多く目に付き、国際競争の流れの中で少ない仕事で高収入を目指すポジショニングになりつつあり、かつての日本的なものづくりの正反対なのである。
2016年12月16日
会社に朝戻って、本麻を織る続き。定番の一種ではあるけども縦が細番手の黒だと糸が見えないくらいなのである。3ヶ月ほど前に、社員の子が織った経黒の本麻2反が基本の横糸の処理が正しくできていずに駄目になった。私からすると正しく仕事さえしていればと思うところが多い、縦糸を繋ぐにしても正しくすべての糸をつなげばまっすぐに糸が走るのだが、下手な人というのは縦糸を交差させ繋いでしまう。

こういうのは不思議だが、正しく仕事する人はいわなくても正しくまっすぐに繋ぐが、まっすぐにつなぎなさいといっても交差させてしまうような人はそれ以外も問題だらけであることがほとんどで、上手にならないのも当たり前だったりする。縦糸が正しくつなげ準備ができればあとは、横糸を交換するだけような仕事のようなもので、本麻の100番手ながらもほとんどキズもできないし簡単な仕事となる。
2016年12月15日
今日は、ハーベスト展2日目、最終日。朝、出掛けにホテルのロビーで印刷などをする必要があって、少し遅れて会場に到着、すでにお客さんが多くおられる。午後からはお客さんも空いて、専門学校の学生の女の子に手伝いに入ってもらっていたのだが卒業製作の捺染を学校で行うために途中から一人体制。朝、会社から留守番のものが送ったストールと生地スワッチが届いた。それを展示会が終わってから会場近くのクロネコから出荷。

夕方5時過ぎには会場の片づけが始まり、6時には解散。近くのコンビニでワードファイルをプリントしようとするけどもできずで苦戦したがなんとかクリア。XPS DOCUMENT WRITERに、ファイル出力してプリントアウトが正解。7時ぎりぎりにクロネコ出荷完了。夜行バスが東京駅午後10時過ぎ、夕飯を食べる時間はあって、名前は忘れたがピリ辛チキンがボリュームもありおいしかった。テキスタイルマルシェ以外の展示会のときなどは朝ホテルで食べて昼を食べないことがほとんど、夜はある程度食べたい気分。

恵比寿から八重洲の鍛冶場バスターミナルは、電車と歩く分あわせると1時間弱。そんなに待つこともなくバス到着で帰路に着く。
2016年12月14日
今日は朝新幹線での東京入り、ハーベスト展VOL6。小雨の降る中、開場の15分前の到着。いつも間に合うか間に合わないかが多すぎて、道中もしないとならないことだらけで、連絡を取り合ったり、時間がなく東京から出荷をしようと必要な案件を3つ持ってきたが。書類、ストール、サンプル提出。新幹線の中で準備しようと思ったが、今回はサンプルの作成に手間取って留守の間の準備ができておらず、今日工場で何をするかの説明とか、もう一件メール。

会場についてよかったのは、今回はヘルプしてもらい二人体制だったのでスワッチなどの作成がほぼ会場でできたこと。今回の展示会で出展者や来場者の皆さんのお仕事の状況をお聞きしていても国内アパレルが低迷しているという話が多い。国内のアパレルは悪いではなく悪すぎるというような状況。麻を取り巻く状況も同じような状況で、アパレルに関しては普通の先染ものは流れにくく、細番手やオーガニックなどの特殊なものなら話になりやすい。

ハーベスト展は一般向けではなく業者さん向けの展示会でバルクかつ卸の商談会、PTJも同じく一般のお客様向けではなく、インターネットの個人のお客様にはご案内を流せないのですみません。林与が出展している展示会の中では、テキスタイルマルシェが一般向けになります。

夕方6時に、初日が終わって打ち上げパーティ、近くの料理屋で鍋&飲み放題。私は最近はアルコールはビール系しか飲まない。その後、駅の近くのもう一軒レストランによって、やることが一杯で緊張をしていると眠さも忘れるけど、緊張が解けると眠気が襲ってくる。昨年のハーベスト展は、初日の夜に一度滋賀に戻り、納期のものがあって、翌日の朝、東京に戻って来たりした。今年は、昨年ほどは無茶ではない。昨年は、糸の問題で織れないとう状況が多すぎた。実際、今年も織るのに手こずっているのがラミーの糸。

問題なく織れれば簡単なのだが、切れて切れてという状態だと仕事の負荷が何十倍にも膨れ上がる。細番手のラミー系が不安定すぎるので、アパレルの仕事では、あまり手を出さないほうが無難だろう。糸が織れないという問題で会社が追い込まれたのが昨年、奇跡的に織れたからよかったけど奇跡がなければ3つ4つの仕事が本生産ができないということで大きな問題になっていた。それらは糸支給の話で染や糊付などされた糸、林与が糸の準備をすれば事前に問題も見えてくるだろうが、実際に織って使う人以外には問題は見えてこないもの。
2016年12月09日
今日は、JETRO東京本部での欧米のVIPバイヤーさんを招聘しての商談会、キッチンクロスなんかの小さなギフトも用意して東京入り。1年ぶりくらいの久しぶりのJETRO商談会ながらも、過去には10数回参加させてもらっているので雰囲気には慣れている。

リネンを使われるブランドさん、使われないブランドさんそれぞれがあって、使われるブランドさんは興味を示していただけた様子。あるブランドさんの方が、近江上布のアーカイブをみられて、今までこれほどのものを見たことがないと熱心にみてくださっただけでも最高の成果ではあるといえる。それを今、広幅でおるようなプロジェクトをやっている話などもさせていただき、ミラノウニカにも出展する話など。

まだ、近江上布絣柄の広幅プロジェクトは実現までには距離は遠いけども、近江上布のアーカイブを広幅の形で再現できるようになれば、生産数量は限定などでもラグジュアリーブランドへのは可能かも知れないと思える。もしかすると、どこのブランドさんというより、これから展示会でお出会いする布の世界の人が最終的なお客さんとして、自分用の洋服を作るときに使っていただける可能性も高い。林与のストールなんかはその流れで、ブランドのデザイナーさんやオーナーさんが自らが自分用に購入してくださったりのケースも多い。

派手というのではなく一見して驚くようなインパクトのある布を作り上げたい。それは私の直近の夢としている部分である。夜、てふてふというお店の本格麻婆豆腐というのを食べた。私にとってはとても価値がある一品だったが、私が本物らしいと思う豆板醤の辛さだったので普通の人だと無理な人がほとんどの辛さ。頭から汗が出てご飯も3杯食べたほど。ちょっと寒くなりがちの今の季節ながら汗かきながら店を出て帰路に着く。
2016年12月02日
2日徹夜モードのあと、朝加工出し、午後からは京都での会議。織ろうと思っているものが縦糸が切れて織れない。時間に追われすぎて眠さすらもない。会議が終わって、家に戻って出荷、夜12時に横になる。

ミラノウニカでの麻紡協会さんの通訳を探す案件。誰でもよければ、値段さえ考えなければ見つからないことはないだろうが、繊維やアパレルに関する専門的な知識も必要なので、慣れている人でないと繊維の世界のコミュニケーションすら難しいだろうと思える。たとえば生地の説明をするときに、ラミーとリネンの違いみたいなことを飲み込めているか、飲み込める通訳の人でないと、それをお客さんに説明してもらうことすらもが難しい。私の通訳の方に知り合いの方などを当たってもらう。

また、ミラノの通訳チームの方とも地下鉄帰るときとか一緒させていただいて話したりもしたけどいつもほとんど同じメンバーで仲良しチーム、そちらは先約が決まっているのではと思ったりするが、いつも頼まれている富士吉田の方に尋ねてみるがコーディネイターの方経由での話ということ、ということなら久山さんが関係しておられるだろうから井上さんからお話がいってるかもなのでそちらは声を掛けるの様子を見る。

今日の会議で感じたのが大きな会社というのは意思決定が大変だなあと思えたりしてそれが社員の方の対応などにも影響を及ぼし自分自身で意思決定ができないというのは昔の先代の生きていたころの林与と似ているのかも知れない。自分がやろうとする物事を決められないというのは大変だろうなあと思えるのを感じた。自分が約束してするかしないかというだけの状況というのが逆に大きなこともやりやすく幸せに思える。
2016年12月01日
今日は午後から、繊研新聞さんのミラノウニカに関する取材。今回のミラノウニカでは広幅での近江上布柄の展開をテーマとすることをお話しする。

そのほかの時間は現場、シルク麻の経黒の最終のカラーを織る。経白は比較的スムーズに織れたものの、経黒に変わって切れて切れて仕方ない。1時間に2m織るのが難しいという状況。織機を動かしながら、近江上布柄の作成に必要な機材などを作る。昔の柄を復興するのだが、昔の設備を使うでなく、今の設備に対応しながら量産可能なメカニズムとするのがポイント。

捺染設備も、基本、廃液が一切出ないように工夫し、さらに、サンプルから量産までも、狭い幅から広い幅まで対応ができるように考える。自分の考えで新しい織物をつくる設備を作って、自分の力が出し切れるような展開に持ってゆく、何百メートルの量産が進むときにはプリントで外部に依頼するなどの形を取れば悪くない話であろう。

現物での取引や、小ロット生産に徹底的に対応できるような形にポイントを置いて、量産対応も可能とするようなメカニズムを自分の中にまず持つこと。今までの生産というのが外部に依頼して、外部の人もパンクしてしまうようなスケジュールが多かったのと、新しい版などをつくって、試し刷りしていると何十万円のコストとなるがそれを引き受けられるお客さんも少なく、それも解決していかないと仕事が入っても成り立たないことが多いので、根本的に新しいメカニズムを構築し、数百メートルの量産は外にプリントで依頼して生産するような形こそが望ましいであろうと思える。

今年は広幅絣はストールでの展開。ストールだといくらになるのだろうか、1点が百貨店店頭での小売想定では10万円を超える価格となっていくのだろうけども、来年の4月1日以降に販売をスタートとするが、その辺りもいろいろと海外での展示会を通じて最終的な価格なども決めてゆきたい。高すぎて駄目というもありと思えるが、たとえば、一人の人がフルに掛かって、年間に30枚しか作れないものだとすればそのくらいの価格が妥当であろうと思えたり。
2016年11月30日
今日は、シルク麻を織りながら、近江上布柄の広幅に使う、染料のテストなど。今までのメカニズムと違って廃液を出さないメカニズムを考える。染料の調合などで、中間色の作成など。久々に絵の具で絵を描く感覚。茶色の色を作るのに、赤と緑を混ぜるというのを知って、色ってやはり不思議だなあと思える。

完璧を求めると面白くないので、味を含めて要素の光る最終的なものをつくりたいと考える。これは絵画以上に作品的な色の濃いものづくりになろうかと思える。それでいいんじゃないのかと思えたり。あと、色を固着させるために、蒸すというメカニズムが必要で蒸し器にしても工夫が必要なところ。

海外から届いた染料や国内で手に入れた染料などを活用して一番色が味わいのあるようなものが作れるように考える。林与が林与らしくあるのもそういうところだと思うのである。
2016年11月29日
今日はシルク麻の経つなぎ織り終わったアゼを取るのが正しく取れていないところがあったようで、4本繋ぎ間違える。無地なのでその4本を端にもっていけばよい話なのだが、アゼを取ったりするのも正しく取れるのと取れないのでは大きな違いが出てくる。

縦を繋いで送るのも比較的簡単で1時間ほどで織り始め、最初縦糸がよく切れるので、安定的に織れる様にテンションをゆるくしたり、織機の耳を直したり、絡みソウコウの通し違いを直したり、織る人が正しくしないといけない部分が正しくないのが多くそれを直してから仕事。私が、現場の人よりもものづくりに強いのは、基本正しく仕事をするから、現場の人が気が付かない問題でも気が付くのは、面倒に思うことでも正しく仕事しようとしているからだろうと思う。

1週間ほど前に山形の作家さんがきてくださったけども、林与の現場に入って一つ一つの仕事の面倒さに参られた。何百本の糸を動じに正しく操るという作業も、ひとつひとつ根気のいる仕事でそれが普通の仕事なのだが、頭で仕事をする人にはそういうのは耐えられない世界。私が思うのは、力があるということはそういう単純な仕事なら簡単にこなしていかないとならないと思うところ。

私自身、整経や織りをしながら別のことを考えていることがほとんどでそれを仕事とは思っていないところがある。創意工夫というのはそういうところから生まれてくるものであり、そういう環境でなければ事務所に座ってのデザインワークなんてものは半人前の仕事でしかないだろうし薄っぺらく思えてしまう。

たとえば、経つなぎの作業にしても3660本を準備から初めて3時間ほどで終わる作業なのである。ある東京の織物工場では、外部の人が経てつなぎにくるというが、それは織物をつくる力の範囲が狭いだけで、そういうところから改善が必要であったであろう。機をつくるのも同じで外に頼むより中でできたほうがよい、人が増えても、自分が仕事をするでなく頼む人が増えると本末転倒なのである。アカデミックなものづくり環境がアウトなのはそこで、他の人に支えられる守られた世界でのものづくり。

タイイングマシーンも昔なら200万円とかしたけども、今なら中古の調整済みで10万円から20万円くらいが相場だろう。2日練習すれば使えるようになるものを使えないままに、他の人に頼って仕事していてもその人ができなくなったときにどうするのかという問題もあろう。私もタイイングマシーンの使い方を教えてもらったのは30分ほど1回だけ、あと分からないときに2、3回たずねて、今まで100回つないだかつないでないかだけど、目の前の仕事からは逃げない。綿もそうだが、今日の絹紡シルクなんていうのはタイイングマシーンで繋ぐのはすごく簡単。麻の細番手は手ごわいところがあるが…。

私が、職人さん以上に織機の修理も調整も上手なのは、現状を記録していつでも元に戻せるようにしながら調整を加えること。そういうのが昔の感覚で修理や調整をする職人さんには無理なところでスイートスポットを見つけるのが難しく、私の経験したどの職人さんでも私のような調整の方法はされず、感覚的な調整が仇となることも多い。レピアの横糸のピッカーの糸を押さえる部品なども昔に取ってしまっているけども、本当は必要な部品でその意味が分からないところから始まるのが今の時代の高度なものづくりには対応ができないというあたり。機械を作る人というのは案外、正しい構造を考えていて、マニュアルすらももうないけども、使う人のことを考えて作っているけども、使う人が織機を作った人の織物に対する考え方を理解せずに適当に仕事していては正しいものすらつくることは難しい。

私が30代、40代で普通の職人さん以上に厳しいというのは例外でなく機屋なら普通のこと。60、70歳の職人さんでは、ちょっと難しいが難しすぎて食べて行くのも難しいというのをこの仕事についてから常に感じていたことがある。織物の仕事なんてどの工程でも基本数日でマスターできる普通の仕事なんだがと思うことが多い。あとは実践するのみである。結局は、一番大事な実践が苦手な人が多すぎるのである。

タイイングマシーンでつなぐのが苦手なら他の織機を動かしながら手で繋げばよいだけのこと、それができないと食べて行くのも難しいのだが、なかなかそこの食べていくところまでいける人が少ないのである。私がコンビニの仕事のほうが忙しく大変だと思うのはその辺りで、織物の仕事なんて緊張感も少なくのんびりしすぎていて食べてゆけないのも当たり前なのである。普通くらいの仕事意識が大事である。
2016年11月28日
今日、ファックスを数日振りに確認したら、大阪の社長さんが72歳で亡くなられお通夜と葬儀の案内が届いていた。大阪の社長さんとお会いしたのは3回ほどであったが、仕事を仕事と割り切ってされている姿には、ゼロからでも仕事を立ち上げ仕事をする環境を提供する人だなあと思える。その会社には若い方が溢れていたのを思い出す。人を育てるということを考えておられ若い人を集めて活気のある会社だった。でも、きれいごとじゃない仕事の本質的なことを背負える若者を作ろうとしておられるのを感じた。プリント工場だったが、若い人に社長がいうのは、うちはペンキ屋ですよ、それでもあなたやりますかという覚悟を聞いて仕事を始めてもらうスタイル。

私も似たところがあるのは、織物の仕事をしたいという人があれば、簡単なことですよ。今、糸を結ぶ練習から始めればよいだけ。切れた糸を根気強く直すのが麻織物の基本で、そこから麻織物の価値が生まれると思っている。

割りきりが必要だと思う。自分がきれいなポジションを取りたがれば、他の人が汚れる仕事を取ることになる。なんでもする覚悟で仕事を始めないと、結局、なんでもできる一人前にはなれないのである。熟練した人が当たり前に毎日やっていることなんて、本気になれば素人でも数日でできることが多いものである。本気になれるかなれないかが大事なのである。熟練した人でも本気でなくなれば素人未満もありがち。

今、私も47歳、亡くなられた社長は72歳。私の先代がなくなったのは69歳。あと20年かと思うが、私が仕事してきたのが20年なので、20年というのは、それほど短いわけでもない。できることは、今まで以上に力を注いだ作品というものを手がけてゆくこと。今の一つの目標は売れなくても良いので、自分が満足できるものを残したい、一年に50種類くらいの近江上布の広幅が生産できるようになりたいと思う。




2016年11月25日
今日は、シャトル織機の調整。今まで動いていない織機を動かすということで、動いている想定で動かそうとするが動かないほどにバランスがおかしい。一番困ったのは、経て切れの感知のタイミング、これが運転に入れるのを邪魔している。こんなはずはない。とりあえず後からこの部分は調整を加えることにして、この部分をころしておく。横糸切れも感知がおかしい、こちらも、以前使っているときから調整が無理ということで細工がされているが、こちらは、調整すると正しく感知するようになった。

他に、ステッキをたたく強さが弱いとかや、逆に、ステッキを戻す強さが強すぎるなどの調整。あと縦糸が強く張りすぎているのでその強さを緩めるために後ろのウェイトを軽くするとか、感覚的な調整が多い。私自身、こういう調整はいつもやっているので動かしてみて、感覚的に不自然に思えるところを一箇づつ正しくあわせてゆくだけのことだと思う。基本、単丁の織機でシンプルなのはシンプル。調整の怖いのは、調整がまずいと、どこかに力が掛かって、鋳物がポキンと折れてしまったりすること。

音とか違和感には注意してないと駄目。後、気になったのはソウコウ枠の高さの調整が調整しきれないこと。ソウコウ枠を引き下げる側の下の棒が2本とも溶接されて短くなっている辺りが少し怪しい。前に動いていたときに折れて短くして綿とかで織っていたのだろうが、麻だとテンションの調整が微妙になるので織るのが無理とかありうる。今掛かっているのは60番手、でも、縦糸に糊がつけられていて条件は悪くない。

筬がさびていたのを磨いたので最初のうちは糸がももけてくる。これは仕方のないこと。使っているうちに問題もなくなるだろう。とりあえず、縦糸切れをころしてなら数分は動きそうなところまでセッティングができた。調整前は途中何度かシャトルが飛び出していたのも収まって自動で動かせるところまできている、ただし、調整はまだ必要。機械というのは織機も例外ではなく安定的に正しく動かなければ極端な話、動かせば動かすほど、織った布がボロボロで直すのに苦しむとかどうしようもない。それは織る人が正しく織ろうとしていれば徐々に織機というものは良くなってゆく、逆も真なりで織る人が織機のことを考えてあげないと織機は崩れて行く。正しい気持ちで動くように育んでいくのが織機である。、
2016年11月21日
今日は、昼間、色の確認のために指図書を探して2時間くらい時間をロス。

Osodeのデザイナーの位部さんが夕方に滋賀に到着、21、22、23日と会社に来て作業を手伝ってくださることになり。ブランドを立ち上げられて1年ということで、単なる会社訪問ではなく現場の実情なんかも知ってもらって林与と取り組んで何ができるのかという辺りを考えてもいただけたら、また山形の機屋さんでものづくりをされるときに新しいことをされる切っ掛けになればと思える。

位部さんは、山形でシャトル織機も使ったことがあるそうで、横糸の交換などはされているということで、今回織機に関しては縦糸切れの問題をクリアできるようになってもらえるのではないのかと思う。あとレピア織機の使い方も覚えてもらえるのではないかと思えたり。

とりあえず、今日は夕方からは出荷の作業もあったのでそちらを手伝ってもらって、200mほどの出荷もほとんど問題のない布ですらも検品していると結構時間が掛かる作業である。傷も少なく安堵する。夜中11時の出荷に間に合うみたいな作業。こういう検反作業までできる人が機場で織物をおると何が自分の問題が何なのかわかる。普通、現場の織り手さんというのは織ったら終わりの人が多いのだがそれが困る。織機を壊しては修理を他の人に頼むというのと被る。自分が何が悪かったのかを理解すると次から問題も少なくなるのだが、それは他人の仕事と思っている人は上達も少なく下手なままが多い。

2016年11月17日
今日は午前中、現場にお客様。午後から福井で、ミラノウニカのトレンドカラーの打ち合わせ。ミラノウニカのトレンドの理解は難しい、カラーは理解できても柄の説明がイメージしにくく、近江上布のアーカイブ柄の中の候補を、ミラノウニカのトレンドカラーのどのカテゴリーに当てはめてるのが適切なのかが難しいので、柄をそれぞれ当てはめてもらう。それが終わって、私が一番最後の会社だったのでちょっと雑談。そのあと、しらさぎに乗り遅れて、普通と新快速で能登川に戻って夜10時半に出荷を3件終えた。敦賀から新快速一本で能登川まで帰れてそんなに不便ではない。

福井駅周辺は初めて訪れたが、繊維の街という印象。特にシルクが有名。めがねも有名。福井というと滋賀県よりも田舎かと思いきや滋賀県のどの町よりも駅周辺に関しては都会的で滋賀県の田舎さを実感する。滋賀県は本当に田園に囲まれた農業県で商業の町ではないということを実感する。

近江商人は、次男三男が、外に出てビルを建てて商いをした。滋賀県には他の県の商社などの拠点がきわめて少ないということに気が付く。今は工場は多いが販売の拠点とはなりえないということであろう。滋賀県でお店などの商売が難しいのもそれに起因しているからかもしれない。近江商人が出身の地で作られたものを全国で売り歩いたということで、地元で名を成すためには、質素に薄利多売という商いでの中抜きを減らし、生産者に利をもたらしていたというところが近江の地が生産が強かった背景にもなるだろう。

昔の話をしても仕方ないかもしれないが鎖国という状況は、今で言う中国が日本の中にあったようなイメージ。滋賀県は日本の中で新興国的な位置づけだったのだろうと思える。しかも近江の大国荘というのは日本でも一番くらいに豊かだったといわれている。豊国村という名前もその名残りだったろう。たぶん、今はいろんな年配の方と話をしていても勤勉さも感じられず逆転もしてしまったと思うが、昔はこの地域の人はとりわけ勤勉だったのだろうと感じるのは、近江上布のようなものが小さな村から生まれていたということ。それが果たして悪いことだったのだろうかとおもうと、この村の農家の家の女性の誰もが、機を織らせたら今の伝統工芸士以上に腕も上で生産力があったりもした。自分を犠牲にして家族の将来ために自分の時間をとことん使うところが今の価値観と違うところだろう。それでどこにも負けないくらいの裕福な暮らしが村にはあった。それが普通になって過疎化に苦しむ村の現在。外の世界の下に敷かれ、他から助けてもらうのを考えていては過疎化も進む一方で駄目だろうと思う。

今で言う昔の価値観というのは、戦後の昭和の経済成長の団塊の世代的、サラリーマン的な価値観。それは世界共通で弱い。世界の先端の先進国でありたいなら人々が個の力が強く、他の人のために働けるような力がないと駄目で昔の本能的に生きてゆく当たり前の力を持った価値観が必要だろうと思える。
«前のページ 1 ... | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 | 72 | 73 | 74 | 75 | 76 | 77 | ... 182 次のページ»